第52話 穏やかな時間

朝から山を登る。

兵士にとっては苦労する道のりではあるが、魔力を意識的に利用できるセレネのようなものにとっては鎧を着込んだ上でも何ら問題はなかった。

優美な彫刻の施された銀の甲冑。真紅のマント。

金の髪は後ろで結い纏め、鷹を模した兜は小脇に抱える。


クリシェはいつも通りのワンピース。

黒い外套を羽織っているが、防具と呼べるのは鋼の手甲だけ。

ブーツのつま先と踵は金具で補強され、手甲は拳にしっかりと補強のなされた実用的な代物ではあるものの、見ていて不安になるほど軽装だった。

長い髪はベリーがあつらえた花飾りで二つに結び、お下げの尻尾を左右に揺らす。


セレネは傍らのそんなクリシェを見ながら、昨晩の事を思い出した。





「――その……名を、捧げました」


このところの甘々なベリーの様子は妙に気に掛かっていた。

もしや行き着くところまで行ってしまったのでは――などと勘ぐりながらあえて尋ねなかったものの、戦の前である。

こういう気になるところはすっきりとさせておきたい。


『お話、しておいたほうがよろしいですね……』などとベリーも何やら話したそうな素振りであったため天幕の外に連れだして二人きり。

『で、何かあったの?』と尋ねてみれば頬を赤らめ視線を揺らし、開口一番告げられたのはそんな言葉である。

予想以上の言葉にセレネは唖然として、言葉を失う。


「あ、あの、冗談……」

「ではなく、本当です。……誓いを立てました」


衝動的なものでクリシェに手を出した、なら百歩譲ってわからないでもない。

確かにあの無垢で純粋と顔に書かれた無防備さは耐えがたい誘惑であった。

しかし名を捧げるというのは全くもって、理性的な行為である。


セレネがそれを教えられたのは七つの頃であっただろうか。


『セレネ、隠し名というのは神さまの時代からの魔法の名前なの。一生のうちでただ一人、全てを捧げるその人にだけ教える魔法の名前。誰にも言っちゃ駄目よ。パパみたいな素敵な相手を見つけてわたしのように一緒になれたら、初めてその名前を捧げなさい』


かつて隠し名というものが真名と呼ばれた時代、それは絶対的な意味合いを持っていた。

魂は真名に秘められ、それを知られた相手には全てを捧げ、隷属しなければならない。真名が知られたがために国が滅んだと呼ばれるほどに真名の存在は絶対視されていた。


もちろんそれは遥か昔の話で、実際の所そんな力は存在しない。

仮にそれが広まったところで、何かが起きるわけでもない。

だが貴族がそれを相手に捧げるということには、今もなお強い意味があった。


平民と貴族の違いは、自らの名への信仰だ。

自らの名前に誓った言葉を破ることは、貴族にとって許されない。

それを破るならば死すらを選ぶ。

そういう信仰が貴族にはあり、その信仰を前提に貴族社会が存在する。それ故貴族は幼少のみぎりから貴族としての在り方を繰り返し教えられ育てられる。

家名がそうであり、そして隠し名とはその最たるもの。


アルガン家は男爵位の下流貴族ではあるが、クリシュタンドよりも古い歴史を持つ。

豪放磊落であった母ですら、貴族にとっての名前の大切さは真剣に、何度も繰り返してセレネに伝えたほどだった。

だからこそ、ベリーが隠し名を告げるということの意味は殊更大きい。


貴族として偉ぶることのないベリー。

だが、貴族としての礼儀作法、その振る舞いに関しては誰より深く学び、当然のものとして身につける貴族の正統なのだ。

そんなベリーが易々と隠し名など告げるはずもなく、その意味の重さにセレネは固まる。


「……わたしは卑屈で嫌な人間なのです」


ぽつり、とベリーは口を開く。


「お嬢さまには、あまり昔の話をしたことはありませんでしたね」

「まぁ、あなた聞いても言わなかったもの」

「ふふ……恥ずかしく思っていたのです。お嬢さまに道徳の教育できるほど、わたしは良い子ではありませんでしたから」


ベリーは続けた。


「日がなベッドから窓の外を見て、本を読んで。小さな頃はこうして外に出る事なんて考えたこともなかったですから、頭の中で理屈を捏ねて、それで世界を知った気になってました。周りの人間がみんな馬鹿に見えて、ああ、わたしはなんて不幸なのだろうって」


恥じるように告げ、苦笑する。

地面に足で線を引きながら、落ち着かないのか動き続ける。


「当時の使用人はそんなわたしを嫌っていました。当然ですね。……ねえさまはそんなわたしの様子を毎日見に来てくださいましたけれど、正直明るく優しいねえさまを羨んで、妬ましく思っておりました。わたしにないものを全部持っていましたから。酷いこともたくさん言いました」


気性の問題でしょうと困ったような顔で言い、足を止めた。


「……ひねくれているのですね。どこか頭が醒めてしまって、良いところを見れば妬んで、人の嫌なところばかりを見て、そうしたら自分の嫌なところばかりが見えて。根本的に自分が嫌いなのです。だから人を嫌いになって、それを誤魔化したかったのでしょう」


思い出すように。

少し遠い目でそんなことをベリーは語る。

セレネには何も言えず、黙って聞いた。


「内心、それは自覚しておりましたから、いざとなればねえさまのために一生を捧げようだなんて思って。せめて綺麗でありたかったのです。……アルガン家が借金を負って、そう誓って、でも結局、わたしはねえさまに守られて、ご当主様に救われました。間抜けここに極まれり、ですね。……わたしは何一つ、まともにできないのです」


暗く沈んだ瞳が悲しげに揺れる。


「ずっと、意味を探してました。わからないままそうして生きて、せめて求められた役割くらいはこなしてみようと思い……それくらいの気持ちです。人当たり良く振る舞って、でもはっきりと線を引いて、汚いものを見せないように、見ないように」


ベリーは言い、空を見上げた。

少し欠けた歪な月が、雲のない空に輝いている。


「でも、そんなわたしにも……クリシェ様はただただ、とても綺麗でした」


赤い髪が緩やかな風に輝き揺れて、その整った横顔が月の光に照らされる。

思わず見惚れてしまうような、そんな横顔だった。


「……とても綺麗なのです。純粋で、嘘も虚飾も穢れもなくて――そんなクリシェ様はこの世界ではとても生きづらいのかも知れません。憎む方も、恐れる方もいらっしゃるでしょう。ですが、わたしにとってはやっぱり綺麗で……」


――どうしようもなくいとおしいのです。

そう目を伏せ、目に見えない何かを抱くように、両手を胸にやる。


母が父のことを語るとき、時折見せた表情にとてもよく似ていた。

それは例えようもなく、言葉に出来ない何かに満ちた、そんな顔。


「――クリシェ様のお側に。わたしの意味がそこにあるのだと、ふと気付いて。であれば、わたしの名はクリシェ様のものだと思ったのです。……そのためにあるのだと、そう望んだのです」


だからとても綺麗に見えるのだろう。

少なくともそう語るベリーは、今まで見たどんな顔よりも綺麗に見えた。


「寂しいのがわかるってクリシェ様は仰って、ふふ、そんな些細な事がクリシェ様には大発見なのです。手探りで、不器用に、でも誰より一生懸命で……そんなクリシェ様に一生を捧げたいと思いました。……お許しくださいませ」


ベリーは深く頭を下げ、セレネは嘆息する。


「許す許さないなんてわたしの決めることじゃないわよ、もう。……なんて使用人かしら。わたしのお守りはしなくていいとは言ったけれど、逆にお守りをさせるだなんて」

「……申し訳ありません。でも、決めてしまいました」


くすりと微笑を浮かべた顔はやはりとても美しくて、ああ、とセレネは空を見上げる。

この頑固な使用人の気持ちは変わるまい。

なんとなく予想がついていた結果を目の当たりにしながら、セレネは目頭を揉む。


「お父様になんて説明すればいいのかしら。あなたがこのまま使用人のまま一生を過ごすのは本当に勿体ないだなんて心配してらしたんだから。唖然とした顔が目に浮かぶようだわ」

「それほど大事にしなくても……わたしの自己満足でございますし」

「あなたがその様子だと、そのうち式も挙げたいだなんて言い出すんじゃないのかと」


ベリーは固まり、顔を再び真っ赤に染めていく。

目を潤ませ視線を揺らす様を見て、セレネも固まる。


「……あ、あの、冗談のつもりだったんだけれど」

「わ、わかってますっ」

「……明らかに反応が本気で困るわよ」


呆れながら頭を抱えて、セレネは溜息。

ベリーは口ごもり、そして慌てたように告げる。


「そ、そういうことがしたいというのではなくてですね、もしクリシェ様が、その、そういうことを、したいなどと……仰ったらと、その……想像しただけで」

「それ以上は自分の墓を掘るようなものよベリー。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」


でも面白そう、とセレネは笑った。


「二人してドレス着ておめかしして、お屋敷でちょっとした宴。司祭はお父様ね。わたしがシスターをやってあげようかしら。ふふ、クレシェンタは恋に破れたライバル役ね。不機嫌そうに二人を見つめるの」

「もう……からかわないでくださいませ」


くすくすと笑いが自然に零れた。

想像するなら、戦なんかよりずっといい光景に違いなかった。


「そのためにも、目の前のことを終わらさなきゃね。それが一番難しいのだけれど。まぁ、安心しなさい、あなたの愛しのクリシェは殺してもなかなか死なないだろうから」

「……はい。お嬢さまもお気を付けくださいませ。シスターがいなくては困りますから」

「やる気満々じゃない」

「お嬢さまが仰ったのですよ」


ベリーは悪戯っぽく笑って、背伸びをするとセレネの額にキスをした。







「ぅに……っ」


クリシェの頬に手を伸ばすと指で挟み、その感触を楽しみながら思い返す。

本気も本気なのだろう。

ベリーはセレネにとっても憧れの人であった。

セレネと違って、女が持ちうる全てを彼女は持っている。


「あなたも本当、厄介な相手に火を付けたわね。脳天気にしてるけれど、わかってるのかしら?」

「ふぇれれ……?」


頬を離してやるとクリシェはそれを撫でつつ首を傾げた。


「ベリーをあんなにしちゃって、あなたが輪を掛けてお馬鹿になるのが目に見えるよう」

「クリシェ、ベリーに火を付けたりだなんてそんな酷いことはしてませんよ? それにお馬鹿じゃありません。むしろクリシェは賢い方で、うぅ……」

「そういうところがお馬鹿なの」


また頬をつまんで嘆息する。

頬をつままれながらどことなく嬉しそうなのが余計お馬鹿に見えて、こんなだからベリーが落ちてしまったのだろうとセレネは思う。

物事を考えすぎるベリーには、対極にあるクリシェが丁度良いのだろう。

あれだけべったり甘やかしてるからそうなるのだ、とふにふに頬を弄び、自分はああならないようにしないと、とふにふに頬を引っ張りながら改めて考える。

放っておくとどこまでも堕落してしまいそうな二人である。

ふにふに、ふにふにと頬を揉みつつ、引き締めるところは引き締めないと、とセレネは真面目に考えていた。


クリシェは特に嫌がるでもなく、むしろそんなセレネに擦り寄り、ちらちらとセレネを見る。

頬をつまむのはキスと同じ、セレネの愛情表現であると考えるクリシェはセレネの熱烈な愛情表現に頬を染めていた。

ベリーが最近更に甘々になったかと思えば、今日はセレネも積極的なのである。

クリシェはご満悦であったが、半ば無意識に頬をふにふにとしながら考えごとをするセレネはそんなクリシェに気付かない。


傍目にも仲睦まじい二人の少し後ろへ続くは、ダグラを長とした黒の百人隊。

動きを阻害しない程度ではあるが全身に革鎧。

それらは全て黒い塗料で塗られている。

夜襲を基本とするならばと訓練の最中考えたものらしく、黒で選抜されたことから丁度良いと兵士達が提案し、クリシェが承諾したことにより鎧の塗装を許可された。

基本は暗い青の服を着ており、ダグラのたてがみのような兜飾りも黒。

なかなか見栄えは悪くなく、昼は目立ち、暗所では見えにくい利点がある。


兵士達の行軍、警戒の訓練の伏撃役として何度か一般兵とも合同訓練を行なっており、黒塗りの鎧を着込んだ彼等が最精鋭であるという噂は第一軍団に静かに広まっていた。

規格統一される兵士はそうした些細な特別を好み、そのため黒の兵士達の士気は高い。

他の兵士からは多少それに対する妬みや反発も存在するが、彼等を羨む気持ちが根本にあり、セレネなどは今後優れた隊への褒美に模様や色を着色することを許そうかと考えていた。


クリシェ=クリシュタンド直轄、黒の百人隊。

特別な地位を与えられたそんな彼等が見るのは前を進む二人の少女の姿である。


「……軍団長とうさちゃんって、なんかこう、よくイチャイチャしてるよね」


カルアの言葉にミアがダグラを気にしつつ、私語厳禁だよ、などと慌てる。


「イチャイチャって、せめて仲が良いっていいなよ……」

「まぁ、どっちでもいいけど。あたしの家は……姉妹仲よくなかったし、なんか新鮮」


小声で言いながらセレネに段々近づくクリシェに目をやる。

明らかにイチャイチャしている。

背後からそれを見る兵の共通認識であり、カルアの言葉に内心同意を示すものは多くあった。ミアも当然、内心では甚だ同意である。


クリシェ=クリシュタンドという人物を語るに当たって良く名前が出るのは、その姉セレネ=クリシュタンドと使用人ベリー=アルガンである。

クリシェが使用人のベリーへ抱きついていたなどという話は良く聞くもの。

少なくとも彼女と二人の関係が非常に親密であるというのは第一軍団において公然の事実とされていた。


未だ14であるというクリシェの年齢からすれば真っ当であるという見方もあるが、彼女が同性愛者なのではないかとする品のない噂を立てるものもある。

ただ、クリシェが精神的に幼い部分を多く残した少女であることは多くの知るところにあり、やはりそれは品のない噂話。主流ではない。

彼女との関わりの多い黒の百人隊は特にクリシェの実際を知るため、彼女の同性愛疑惑には否定的であった。

その能力の高さに目を奪われてしまうものの、単に彼女の気性が幼いということを皆が理解している。


野営の食事を見咎めてはこんこんと説教をし『全体的に大雑把すぎるんです。もう、こんなに食材を無駄にして。これはこうやって――そうです。楽しくもない戦場でご飯すら楽しみにできないなんて最悪です。気を付けてくださいね』などと説明する様は緊張感にも欠けてしまう。

いたって真面目に全員を集めて即席料理講義を始める様などは軍団長副官などとは思えない。


求める訓練は過酷で厳しく、賞罰も明確。

しかし些細な事を叱る際は、村にいたちょっと年上のおねえさんが子供を叱るような、なんともいえない口調であった。

やや不機嫌そうに小さな体をぴんと伸ばし、両手を腰に当て相手を見上げるようにしながら『まったく、わかってるんですか?』などとくどくどと説教をする様子は可愛らしい。

その妙に緊張感の抜けるような叱責を傍から見るのを楽しみにしている者もいるくらいであるのだが、彼女はそれに気付かず至って真面目なのである。

背伸びをした子供のような、というのが、彼女を言い表す言葉としては適当だろう。


そんな彼女が姉のセレネに擦り寄る様は、犬が尻尾を振りながら主人に体を擦りつけるようで、妙に愛くるしく見えるのだった。


そうした二人の姿を兵士達が見ていると、ふとクリシェが立ち止まり、振り返る。


「ハゲワシ、この百人隊は上についた後すぐに野営の準備です。緊張をほぐしてしっかりと休ませておいてください。たっぷりと動いてもらいますから」

「は。軍団長副官」

「……クリシェ、あの……ハゲワシってなに?」

「ダグラの愛称です。隊で親しみを込めた呼び名としてそういうものが流行っているらしく、クリシェもダグラに親しみを込めてハゲワシという愛称をつけたんですっ。頭がつるつるで鷲鼻ですから、ハゲワシというのはすごくぴったりです」


セレネはこめかみを押さえながらダグラを見た。


「あの、ダグラ。嫌なら素直にそう言ってくれていいのよ?」

「い、いえ。この上ない栄誉と受け止めております」

「えへへ、栄誉だなんて。ハゲワシという愛称、すっごく気に入ってくれてるんですよ。……あ、頑張った兵士には今後こういう素敵な愛称をつけていくというのもいいですね」

「被害者を増やさないでちょうだい」

「うぅ……」


セレネはため息混じりに頬をつねり、クリシェを黙らせる。

最悪のネーミングセンスである。罵倒でしかない。


その様子を見ていた兵士の内の数名が静かに肩を震わせ、ダグラが睨みを利かせる。

ハゲワシというダグラの新たな愛称は百人隊の中では既に広まりきっていた。

一人一人と笑いの波が伝播し、クリシェは上機嫌に、セレネは憐憫の目を向けつつ。

ダグラだけがまなじりを吊り上げる。


それが竜の顎における、穏やかな最後の時間であった。

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