第11話 気付きと少女の望むもの

セレネの剣の稽古に付き合い、ベリーと一緒に掃除をして、買い物に出て、料理を楽しむ。

ガーラが言っていたように街での生活というものは実に新鮮で驚きに満ちていた。

あらゆるものが魅力的に見え、特に街へ集まる数々の食材や調味料、調理器具などはクリシェから見れば宝の山である。

そうした日常に満足していたある日のこと。


料理を満喫し、クリシェでも飲めるジュースで割った酒も楽しんだ。

酒にあまり強くないクリシェはほろ酔い気分で食器を片付け風呂へと入る。

そこでもクリシェはベリーと一緒であった。

大浴場、というほどの大きさはないものの、二人で入っても十分な広さはある。

ベリーに背中から抱かれるように、ぬるい湯を楽しみながら、ふとクリシェは言葉を漏らす。


「ベリーはなんだか、かあさまに似てますね」


セレネがクリシェに自分の名を呼び捨てるように言ったのが切っ掛け。

『お嬢様を呼び捨てになさるとあっては、使用人であるわたしがさん付けというのも』などと、ベリーはクリシェに自身を呼び捨てさせるようにしていた。

他人行儀にベリーさんと呼ばれるよりも、ベリーと呼び捨てられる方が身近に感じられて良いというベリーの好みの問題であったが、クリシェは素直にそれを受け入れている。

少女の甘い声の響き。

満足げにベリーは微笑み、尋ねた。


「……クリシェ様のお母様に? それはとても光栄ですけれど……一体どのようなところが?」

「ん……」


クリシェは何気なく自身が口にした言葉に、小首を傾げた。

なんとなくそう思ったものの、どうしてかと言われればよくわからない。

料理は下手。掃除も一生懸命にやるけれど、細かいところに色々と埃を溜めたまま。

何かと失敗も多いグレイスは一言で言うと不器用で、器用で優秀なベリーとは似ても似つかない。

そこで、ああ、と一致する部分を見いだした。


「色んな人から上手に好かれているところです」

「えぇと、上手に好かれる……?」


理解しかねた様子でベリーはオウム返しになり、クリシェは頷いた。


「商人さんも町の人も、みんなベリーを見ると嬉しそうです。かあさまもそんな風にみんなから好かれていましたから」

「まぁ、ふふ。買いかぶりでございますよ。……お母様はご立派な方だったのですね」

「そうですね。死んでしまったのはとても勿体なかったです。クリシェはそういう、他人からの評価の上げ方をもっと教えてもらいたかったのですけれど」


その言葉にベリーの体が一瞬強ばる。

眉をひそめ、困惑した。


「勿体ない、とは、その……」

「もうちょっとクリシェが気を回していれば、かあさまは死なずに済みましたから。クリシェとしてはとても残念でした。かあさまのことはとても気に入っていましたし」


単に言い回しの問題か、とベリーはその違和感に疑問を覚え、そうではない、と理解する。

クリシェは少し酔っていたせいか。

判断能力が鈍っている様子で、ベリーのそうした反応と声音に疑問を覚えることもない。

ベリーは少し迷いながらも、再び口を開く。


「それは……その、とても悲しい思いをされましたね。ご両親を失い……さぞ、辛かったのではありませんか?」


やや上擦った声。


「……いいえ? 近所のおばさまやおじいさまが食べ物は下さいましたし、今はこんな家で素敵な生活を送れていますから。特に辛くはないです」


気にした様子はなく、クリシェはどこまでも正直に告げる。

微かな疑念が確信へと変わるのを感じて、ベリーは恐る恐る尋ねた。


「その……クリシェ様。少し、質問をしてもよろしいでしょうか?」

「……? はい」

「では――」


質問は、クリシェの村での事について。


勿体ない、残念――悲しいではなく。

クリシェはそのような言葉を用いた。

村で拾われて育ち、実の娘のように育てられ、そしてそんな母を不幸にも失い。


「血がいっぱい出てました。クリシェが押さえても止まらなくて……今思えば失敗です」


それでも彼女はそれを、何でもない事実のように答えた。

失われてしまった。

けれどそれも仕方の無いこと。

目の前の少女はそのように、完全に感情から切り離してしまっている。


「クリシェがもう少し早く剣を投げつけて、ガドさんを殺しておけば良かったのですけれど」


後悔するような言葉はあって、けれどやはり、そこに悲しみの感情はない。

母親の死に際など尋ねるのも憚られる内容であったが、尋ねられたクリシェは平然としていた。


「他の人より先に殺しておくべきでしたね。選択を間違えました」

「……クリシェ様は、人を殺すことが怖くはないのでしょうか?」

「……? はい。だって、クリシェは痛くないですし」

「そう、ですか……」


ベリーは質問を重ねながら、クリシェを撫でた。

彼女が普通の少女でないことを、ようやく理解して。


死について、あるいは殺人についてどう思うか。

尋ねればクリシェは、ルールがあるからいけないことなのだと答え、ルールとは何かと尋ねれば、共同体の利益を守るための仕組みであると答えた。

社会という共同体の庇護を受ける以上、そのルールを守ることも当然のこと。

そして共同体の利益のために働くことは当然のことで、そして共同体の利益になることが『良いこと』であるのだと続ける。


「狼を見れば殺すもの。クリシェは村を守るために賊を殺すのも良いことだと思ったのですが、やっぱりルール破りは良くなかったのでしょう。自警団員じゃなかったのも問題だったのかも。……なんだか嫌われちゃったみたいで、この辺りのことはクリシェもあんまり自信がないのですが」


クリシェは恥ずかしそうに両手を頬に当てる。


「おじいさまや仲の良いおばさん達は、クリシェが悪いわけじゃないって言ってくれてましたし、それで罰を受けたわけでも。だから余計によくわからなくて……」


だからクリシェはまだまだ『良いこと』を学ばねばならず、グレイスはその点良い見本であったし、ベリーもまたグレイスと同じく。

未熟なクリシェからすれば二人は尊敬できる相手で、特にグレイスはベリーと同じくクリシェに優しく接してくれる相手であった。

そういう意味でもグレイスのことはとても気に入っていたし、だから死んでしまったのは実に残念だとクリシェは告げる。


「そういうこと……」


ベリーは彼女との生活の中で覚えていた違和感の正体をようやく理解し、目を伏せた。

少し変わってはいるものの愛らしい、働き者の優しい少女。

そうした印象が根本的な部分で間違っていることに気付いたためだ。


「……おかわいそうな方」


ベリーはクリシェの細い体をぎゅっと抱きしめた。


「ベリー……?」


人としての何かが抜け落ちているのだとベリーは感じる。

彼女は非常に頭が良く、その思考は奇抜で独特。

天才とは確かに彼女のことだろう。

しかしその反面、大事な何かが彼女からは抜け落ちているのだ。


ただ、抜け落ちてしまっているのは一部だけ。

ベリーはそうも話の中で感じ取った。


「お母様との生活は、とても楽しいものでしたか?」

「はい。ベリーと一緒で、クリシェにとても優しかったですから」

「だから、お母様が亡くなって残念に思うのですか?」

「ん……そうですね。残念でした」


はぁ、とベリーはため息をついて、クリシェ様、と声を掛けた。


「そういう気持ちを悲しいというのです。……少なくとも、皆はそう呼ぶことでしょう」

「……悲しい、ですか?」

「はい。クリシェ様には些細な違いでも、言葉は誤解を招きます。今後、そのようなことを尋ねられた際は悲しい思いをしたとお答えください」


クリシェはいつぞやのガーレンの言葉を思い出し、頷く。

ガーレンもまた、クリシェに対し同じようなことを言っていた。


「……これまでも会話が噛み合わなかったり、言葉が理解できなかったり、なぜ喜んでるのか、悲しんでるのかがわからなかったり……クリシェ様はそのようなことを度々感じてきたのではありませんか?」

「え……と、はい」


クリシェにとってはよくあること。

自分の意図とは違った反応が返ってくることはいつものことで、クリシェの中では比較的重大な悩みの一つである。


――変な子。変わってる。おかしい。気味が悪い。

優秀であると特別視されることとは違う、どちらかといえばマイナスの評価に入る言葉。

自分を指して告げられるそんな言葉をクリシェは何度も耳にした。


クリシェは理由がない限り、基本的に他人へ話しかけない。

理想に反して自分の会話能力が高くないことを知っている。なるべくならば会話によってそうした印象を抱かれないようにしたかった。

かといって黙っていたら黙っていたで、そうした評価に繋がることも知っている。


クリシェにとって、それはどうすれば良いかわからない難題だった。

返答を求められていない時は、口を閉じておけば勝手に向こうが解釈する。

基本的にはそうするのが無難ではあったが、しかし結果として村では失敗し、最終的に自分への『悪い評価』が蔓延することになったのだ。

どうすればよかったのかとクリシェは思う。


「……ベリーも、クリシェのこと、変だって思いますか?」


――かあさま。クリシェ、変な子なのでしょうか? 気味が悪いのでしょうか? クリシェはどこがおかしいのか教えて欲しいです。そうしたらクリシェ、ちゃんと直しますから。


ずっと小さな頃、そう尋ねたことがある。

グレイスは変わっているのではなくそれは個性で誰にでもあるものだと言った。

クリシェは全く変ではないし、悪くもないと抱きしめながら説明した。

そんなことは言わないで欲しいと泣かれたもので、クリシェはそれから同じことを尋ねることはしなかったが、ただ、疑問だけは未だに残っている。


ベリーならばグレイスとは違った言葉を掛けてくれるように思えた。

グレイスよりもずっとベリーは賢くて教え上手。

だからふとそんな質問を思い出して、口にする。


「……そう、誰かに言われたのですか?」

「はい、変な子で、気味が悪いってよく言われました」


ベリーはほんの少し、クリシェを抱く手に力を込めた。


「クリシェはクリシェのどこが変で、気味が悪いのかよくわかりません」


湯に映る自分の顔をぼんやりと見つめながら。

ぽつり、とクリシェはそう零した。


「ベリーが言ったみたいにクリシェはお話が苦手で、時々、他人の言ってることが理解できなかったりしますから、そういうところが変だとか気味が悪いだとか、そういう風に思われてるのだろうとはわかるのですけれど……かといってどうすれば上手くいくのかがわからないんです」


言葉は言葉通りでなく、言葉以外の意味が含まれている。

態度が全てではなく、建前の裏には本音がある。

好意を向けてくれていると思った相手がその実自分を嫌っていたり、そんなことはよくあることだった。

クリシェはその度混乱して、分からなくなる。


「……他人の評価の上げ方を知りたい、というのは、そのことでしょうか?」

「はい。ベリーもかあさまも、それがとても上手に見えますから」


誰とでも仲良く上手な会話が出来れば。

そうであれば、ずっと過ごしやすくなっていただろう。

けれどクリシェはその方法が分からない。


「小さな頃かあさまに聞いたときは、それは個性で、クリシェは全然変じゃない、って教えてくれました。でも、自分が色んな人から変だとか、気味が悪いって思われていることを知ってますから、それは違うように思えるんです。ベリーならわかりますか?」


ベリーはしばらく黙り込み、考え込んで。

それからしばらくして、そうですね、と口を開いた。


「……失礼ながら、正直に申し上げればクリシェ様は少し変わった方だと感じておりました。少なくとも、普通、とは違うのでしょう。きっとクリシェ様のお母様も、そう感じていたと思います」

「……かあさまも?」

「はい。そして最初に申し上げておくならば、その問題に見事な解決というものはありません。……そうですね、クリシェ様はわたしが変わっている、と思われたことはありますか?」

「いいえ?」


ベリーは苦笑する。


「ふふ、でもわたしはわたしでよく、変わっていると人から言われることがあるのですよ。良い意味、悪い意味を含めて」

「そうなんですか……?」

「ええ。クリシェ様と同じです」


指先で水面をなぞるように。

ベリーは優しい声で続けた。


「……人とは異なる変わった部分、そこを良い意味に取られれば個性として受け入れられ、悪い意味に取られれば、気味が悪いと捉えられる」


湯をすくいあげるように掌を上げて、裏返し。

湯がこぼれ落ちる音が静かな浴室に響く。


「個性とは善し悪しが表裏一体のもので、受け止める側の心の持ちようで決まります。明確な解決がないと申し上げたのは、こちらからはどうすることも出来ない部分があるからです」

「そう……ですか」


クリシェは唇を尖らせ、嘆息した。

ベリーの聡明さをクリシェは疑っていない。

そんな彼女がそう告げるのならば、事実上解決策がないということだ。

試行錯誤を繰り返したものの、結局どうすることもできないのだと言われれば諦めるほかない。


「お母様も、そのことを理解しておられたのでしょう。クリシェ様をそのように……そうですね、がっかりさせたくはなかったから、そのように仰られたのではないでしょうか」

「がっかり……?」

「はい。クリシェ様を愛しておられたがゆえ、です。……愛しているから、クリシェ様の笑顔を見れば喜びますし、逆にがっかりさせてしまうととても悲しくなってしまうのです」

「……クリシェを愛していたから……むぅ」


考え込むクリシェに苦笑し、ベリーは尋ねた。


「時に、クリシェ様がわたしのお手伝いをしてくださるのはどうしてでしょう?」

「えと……クリシェには沢山のこと教えてもらってますし、その、一緒に寝てくれたり……お茶とか、……お菓子とか、クリシェ、沢山もらってますから」


お菓子の部分だけが小声であったが、辿々しくもはっきりと告げる。

嬉しそうにベリーは笑って、告げる。


「だから、わたしが喜ぶようなことをしてくださるわけですか?」

「……はい」

「ふふ、多分クリシェ様は物事を難しく考えすぎてしまっているのでしょうね」


ベリーはクリシェの腰を掴み持ち上げ、自分のほうへと向き直らせる。

そしてその顔の前で指を立てると微笑んだ。


「……クリシェ様はわたしの喜ぶことをしてくださいます。わたしは僭越ながら、そんなクリシェ様が大好きですから、やっぱりクリシェ様を喜ばせてあげたくなります」


頭を撫でて、視線を合わせ。

クリシェはどこか嬉しそうに、ベリーをじっと見つめる。


「逆に、わたしはクリシェ様をがっかりさせたくはありません。クリシェ様も……自分で聞くのは少し恥ずかしいのですが、わたしをがっかりさせたくはないと思ってくださっているのではないですか?」

「はい……、あ」


ベリーはぎゅう、とクリシェを抱きしめ、それです、と力強く言った。


「それが好き、という感情です。好意が深まれば愛情となります。どちらも似たようなものですけれど、そのようなものとお考えください。……相手のことを思いやり、喜ぶことをしてあげたいと思う気持ちが愛情というもので、クリシェ様にもちゃんとあるものですよ」

「愛情……」


苦労を負って、相手に無償の利益を与える行為がクリシェの中の好意である。

ぼやけたようなクリシェの定義。

クリシェを庇って死んだグレイス。

いつぞや、ガーラとの話で抱いた疑問。

色々なものが少しだけ、はっきりと形を成したように思えた。


「はい。そしてそのように愛情を向けるのであれば、その人の変わった部分を気味が悪いだなんて思いません。クリシェ様のお母様はクリシェ様の変わった部分を知りつつも、だからそれは個性であるのだと仰ったのです。……だから、全然変じゃない、と仰ったのです」


そうなのか、とクリシェは納得し、やっぱりベリーは賢いと評価を上げる。

クリシェにも実にわかりやすい話の組み立てであった。


「……わたしも、クリシェ様のそういう変わった部分が変だとは思いませんし、気味が悪いとも思いません。むしろ他の人にない、クリシェ様の魅力的な個性だと思います」


乳房に顔を押しつけられながら、耳をくすぐるのはそんな言葉。

心地よさに体から力を抜いて、クリシェはそのままベリーに抱きつく。


「……だからと言って、その悩みが解決するわけではありません。けれど少なくともわたしはそう思っておりますし、これから先、その気持ちが変わることはありません。だから、そうした悩み事があったら、なんでもわたしに聞いて下さいませ」

「……はい」


賢くて優しく、料理上手でなんでも出来て。

そんな彼女が先生にもなってくれるというのだ。

クリシェにとっては実に喜ばしいことであった。


とはいえ、何を返せばいいのだろう。

そうぼんやりと考え込む。


「クリシェ様はきっと、わたしや他の人とは違いとても強い方なのでしょう。そのお心の強さ故に、時折、他人の気持ちが理解しづらくなってしまうのかも知れません」

「心が強い、ですか?」

「ええ。わたしは……そうですね。例えばご当主様やお嬢様、クリシェ様が不慮の事故にてそのお命をなくされるようなことがあれば、とても悲しく思います。辛くて、大好きな料理も手につかなくなってしまうでしょう。多くの人間は、身内を失えばそうなります」


ベリーは少し沈んだ声で告げた。

クリシェは息子が死んだ時期のガーラのことを思い出して、多少の理解を見せ、頷いた。


「そういう気持ちを同じく心の弱いもの同士で共感し、慰め合うことで、皆少しずつ悲しみから立ち直り、生きていけるのです。ですがクリシェ様はその強さ故に、そうした感覚が理解しがたいのかも知れません。……わたしとしては、それはとても寂しいことのようにも思えます」

「寂しい……?」

「ええ。クリシェ様は……わたしと一緒にお料理をするのはお好きですか?」

「はい、とても……ベリーは沢山料理を知ってて、新しいことを思いついたりするのがすごいですし、一緒にお料理をしてるとすごく楽しいです」

「ふふ、そう言っていただけると、何やら嬉し恥ずかしでこそばゆくなってしまいますね」


ベリーは苦笑し、続ける。


「わたしとクリシェ様は同じお料理、というものに魅了されておりますから。だからわたしもクリシェ様とお料理をするのはとても楽しいですし、クリシェ様からもそう思っていただけているのでしょう」


ベリーはクリシェの手を取り、その人差し指と自分の人差し指を合わせた。


「……それは同じ気持ちで取り組んでいるからこそ」


それから指を離して続ける。


「もし仮に、わたしにお料理への興味がなければ、そうは思わなかったのではないですか?」

「それは……そうかもしれません」

「わたしとのお料理がお一人でお料理をするよりも楽しいと思ってもらえるとするなら、そこにはわたしの楽しいがクリシェ様の楽しいに乗っかっているからですよ」


楽しげに言って、クリシェの手に手を絡めた。


「……そういう原理が共感で、喜びは何倍にも膨れあがり、辛いことは和らぐもの。だからこそ、他者と共感を得にくいということは、少し寂しいことのように思えるのです」

「……なるほど」


クリシェは素直に頷く。

確かに、普段楽しいことが何倍も楽しめるとなれば、現状は何やら勿体ない気がしないでもない。

実際一人で料理をするよりずっと、ベリーとの料理は楽しいものであった。


「大体の人間はクリシェ様ほど心が強くありません。だから辛いことや楽しいことがあると共感して欲しくなります。でも、クリシェ様にはそれがわかりにくく、それが他の人から変わっていると思われる原因となっているのでしょう」


ベリーは少し考え込むように。

指先で唇をなぞり、頷き。

クリシェの腰を掴んで向きを変え、笑みを浮かべながら言った。


「……根本的解決とはなりませんが、まずはそうですね、楽しいことを共有する、というところから始めましょうか」

「楽しいことを共有……」

「はい。そうすればきっと、段々とわかってくるのではないでしょうか。……思い立ったが吉日というもの、お風呂から上がったら早速といたしましょう」


ベリーはそう言うや否や、ざぶんと湯から立ち上がる。

形の良い豊かな乳房が揺れるのを眺めながら、置いてけぼりのクリシェは小首を傾げ、


「えと、ベリー、何するんですか?」

「クリシェ様の楽しいこと……すなわち料理、そしてお菓子作りです」


そんな彼女に、満面の笑みを浮かべてベリーは言った。







「あの。わたしは暇じゃないんだけれど……なんでお菓子なんて作らなきゃいけないのよ。しかもこんな時間に……」


部屋での自習を行っていたセレネはベリーに無理矢理連れ出され、不機嫌そうにベリーを睨んだ。


「だって、昼間は昼間でお嬢様はお忙しいでしょう?」

「だからってね……」

「クリシェ様、お嬢様にエプロンを着けてあげて下さい」

「はい」


クリシェは言われるがまま、寝間着のネグリジェを身につけたセレネにエプロンを向ける。

お菓子作り。

勉強の一環という大義名分で、終わった後には作ったクッキーを頬張りながらお茶会なのだ。

嬉しくないはずもなく、きらきらとした目でクリシェはセレネを見つめた。


「あ、あのね、わたしは、その……」

「嫌、ですか……?」


お茶会はセレネの部屋で行うという取り決めであった。

そのため、セレネがどうしても、絶対に嫌だと言えば、今日は取りやめということになるとベリーはクリシェに説明している。

無論幼いころからセレネを知るベリーは彼女が断る可能性など考えていないのだが、それを知らないクリシェは実に悲しそうな表情でセレネに尋ねた。


悲しげな上目遣いである。

そんなクリシェに迫られ尋ねられ、うっ、となりつつ目を泳がせ。

わかったわよ、と諦めたようにセレネは小声で答える。

ぱぁ、と笑顔を浮かべたクリシェは楽しげにセレネの首にエプロンを掛け、その細い腰の後ろで紐を結んだ。


「クリシェ様、お嬢様はクッキーを作ったことがありませんから、しっかりと教えてあげて下さいね」

「はいっ」

「……ベリーは何するのよ」

「お二人を笑顔で見ておりますよ」

「あなたね……」


セレネが睨み付けるも、ベリーはどこ吹く風だった。


「ほら、これから長く一緒にいるわけですから、こうした機会にお菓子作りを通してお互いのことを理解していくというのはとても大切なことです。良い機会ではないですか」

「なんかあなたが楽しんでるだけに見えるんだけど……」

「まさか。じゃあ、まずは卵を割るところから行ってみましょうか。さ、クリシェ様、優しく教えてあげて下さい」

「はいっ。セレネ、こっちです」

「引っ張られなくたって行くわよ、もう……」


クリシェに手を引かれ、セレネは仕方なく二人に付き合い、クッキーを作り始めた。


セレネは剣術こそ達者なものではあったが、細かいことには比較的不向きな――言うなれば大雑把で不器用な少女であった。

卵の殻を落とす。小麦粉の量を間違える。

クリシェはその度淡々と、これはだめです、これはこうですなどと実演し、解説する。

卵の殻はすくえば良く、小麦粉の量は他の分量を増やせばいい。

元の予定よりは随分大量のクッキー作りとなってしまったが、クリシェとしてはむしろ喜ばしいことで実にご機嫌。

最初はぶつぶつと文句を言いながらやっていたセレネも、そんなクリシェに当てられてか次第に熱が入り始める。


味付けの点では元々ベリーの食事で舌が肥えていたためだろう。

味覚自体は優れており、クッキーに隠し味としてのエッセンスや混ぜ物を加える際には多くの意見を口にした。

試して失敗したことがあるものもあったが、試したことのない組み合わせもあり、クリシェは楽しげに様々な種類のクッキーを試作する。

幸いセレネのおかげでベースは大量にあったため、種類を増やしてもなんら問題もなかった。


焼き終えるとまずは三人でボーガンの下へと向かう。

事務処理を行っていたボーガンは突然の訪問に面食らったものの、セレネが作った初めてのクッキーであるとベリーが強調したことで理解したらしく、とても嬉しそうにクッキーを口にする。

セレネはとても恥ずかしそうであったが嬉しさは隠しきれず、クッキーを食べるボーガンをじっと見つめ、クリシェはそんなセレネを不思議そうに眺めた。


そしてその後はセレネの部屋で夜のお茶会。

ベリーにからかわれるセレネは非常に不機嫌そうではあったが、話題は次第にクッキーの混ぜ物やエッセンスに関する話へと。

これはおいしい、これはちょっと酸味が強すぎる、これは甘すぎ、これは苦い、おいしくはないけどいい香り。

クリシェの好みは甘ったるいもので、ベリーは少し塩気を利かしたもの。

セレネは少し酸味のあるさっぱりとしたものが好き。

こっちの方が出来がいいと思います。いやでもこっちの方が――好みは少し分かれ、意見は食い違いはするものの、クリシェにとってはとても実りのある時間であった。


甘ったるいのは美味しいけれど、確かにちょっと塩気のある方が味に締まりがでる。

時折は口直しに、さっぱりと酸味のあるものの方が美味しかったりもする。

一つ食べるごとに美味しいは変化する。

だからこそ、色んな意見からの発見がある。


少なくとも一人で作って試食するよりはずっと『楽しい』時間であった。

思えば、昔からそうであったような気もする。

クリシェは味見をしてもらうのも好きであった。

今日の料理はどうだろう、昨日の料理よりも美味しいだろうか。

グレイスにも、ゴルカにも、ガーレンにも、ガーラにも。

――ああ、楽しかったのだ、とふと気付く。


グレイスならばどういう意見が出ただろう。

ゴルカならば?

想像し、けれどもう二人はおらず、それを尋ねることはできないことを考えた。

先ほどの嬉しそうなボーガンと、セレネの姿を思い出し。

もやもやとしたものが胸の内に生じて、クリシェは眉をひそめて小首を傾げる。


「どうしたの? クリシェ」

「……いえ。なんだか、胸がもやもや……」

「……食べ過ぎじゃないの?」

「え、ぅ……」


言われて見ればそうかもしれないと頬を染め、目を泳がせた。

食後のお茶会であるのにも関わらず、大量のクッキーを食べたのだ。

お腹も少しもたれるような感じがした。


「お待たせしました」


そこで、少し部屋を出ていたベリーが帰ってくる。

皿の上には赤みがかった半透明の何かが乗っている。


「……なんかこそこそ何かやってるなって思ってたら、そんなの作ってたの?」

「ふふ、ちょっとしたサプライズです。クッキーの後にはやっぱり、少しさっぱりとしたものがいいかと思いまして。さ、クリシェ様」


目の前に差し出された半透明の何かは、ぷるぷると震えていた。

宝石のように綺麗で、見たことのないものだった。


「ゼリーです。ふふ、クリシェ様は初めて見るみたいですね。……はい、あーん」


ベリーはそれをスプーンですくい、クリシェの口へと運ぶ。

舌の上で踊るゼリーからは、覚えのある味。


「紅茶……?」

「当たりです! どうでしょう、甘い物が大好きなクリシェ様も甘い物を満喫した後はこうしたさっぱりとしたものもいいのでは?」

「おいしいですっ」

「ふふ、ちゅるん、と入りますよ。クリシェ様はこういうのもお好きではないかと踏んでいたのですが、それは何より。はい、あーん」

「んむ……」


セレネは呆れたようにクリシェとベリーを見ながらゼリーを口へと運ぶ。


「……はい、あーんの歳じゃないでしょうに」

「クリシェ様はあーんされるのがとてもお似合いですからいいのです。ふふ、もしかして、妬いておられますか? でしたらセレネ様にも」

「はぁ、いらないわよ……」

「ベリー、これ、これ……っ、どうやって作るんですか?」


ゼリーの食感に早くも魅了されたクリシェは、目をきらきらと輝かせながらベリーに尋ねる。

ベリーはくすくすと笑って、ちゃんと明日お教えしますよ、とクリシェを撫でた。





そうしてその日の夜は更け、お茶会はお開きとなる。

クリシェは興奮と幸福感に満たされながらベッドの上――その側に腰掛けたベリーに撫でられていた。


今度クッキーを作るときにはあんな風にしてみよう、こんな風にしてみよう。

クリシェはいくつも提案し、ベリーは微笑みながら頷いた。


「……どうだったでしょう? お茶会、楽しかったですか?」

「はい、とても……」

「それは何より。楽しいことを共有するというのはまぁ、こういうことですよ。楽しいことは誰かと共有できた方がずっと楽しいものです。……料理は特にわかりやすいですね」


そう言ってクリシェの唇に指を当てる。


「味の好みも人それぞれ。意見だって食い違います。ですが、クリシェ様もわたしも、お嬢様だって根っこの部分はおんなじなのです」

「……おんなじ?」

「はい」


ベリーは楽しげに微笑んだ。


「わたしやお嬢様がクリシェ様と同じく、美味しいものが食べたい、作りたい、という気持ちを感じていることがおわかりになったのではないですか?」

「……はい」

「それが共感というものでございます。クリシェ様はきちんと、料理という一つのことを通じてわたしたちの気持ちをご理解いただけたのでしょう。そして、ご自分と通ずる部分を見いだして、だから意見が食い違っても受け入れられて、楽しかったと感じるのです」


そのまま彼女はクリシェの手を取り、指を絡める。


「あらゆる物事は本質的に、根っこの部分で繋がっているものなのです」

「……根っこ」

「はい。わたしもクリシェ様も、同じ木になる果実でしょうか」


くすくすと笑って、その手に優しく口付けた。


「料理と同じように、人それぞれ好き嫌いはあり、何を楽しく感じ、何がつまらないと感じるのか。何が好きで何が嫌いかという意見も分かれます。……でも楽しいと思う気持ちや、好きだと思う気持ち、嬉しかったり恥ずかしかったり、そういう気持ちそのものは、誰だって同じものなのですよ」

「……クリシェも?」

「ええ。クリシェ様が変わった方であるということは確かです。けれどその本質の部分は他の人とおんなじで、わたしやお嬢様、ご当主様やガーレン様とだって何ら違いはございません」


指を解くと、額の髪を避けるように、ベリーは優しく撫でていく。

ベリーの手の感触は、グレイスによく似ていた。

優しくて丁寧。

クリシェの好きな撫でられ方だった。


「人と人は心の上澄みで接するもの。他人が分からないのはある意味当然のことです。スープの底が見えないように、他人の心の奥底だって見えはしないもの。見た目だけでスープの味がはっきり分かるだなんてことはないでしょう?」

「……味見してみないとわからないかもです」


味見という言葉に頬を染め、クリシェは素直に答え。

ベリーは頷く。


「はい。でもタマネギはこんな味、トマトはこうで、お肉はこう。そういう風に具材一つ一つを知っていれば、このスープはどういう味なのか、少しくらいは想像も出来るのではないでしょうか?」

「それは……はい」


額に額を押しつけて。

そうしてベリーは微笑んだ。


「ふふ、同じことですね。……わたしは例えば楽しいことがどういうことかを知ってますし、悲しいことや辛いことも知っていますから、他人がどう思ってるのかある程度想像が出来ます。クリシェ様に足りないものがあるとするなら、きっとそれだけ」


薄茶の大きな瞳が優しげに、紫の瞳を覗き込む。


「クリシェ様がどう感じるのか、どう思うのか。そうやってご自分の中を深く深く探っていけば、もっともっと知っていけば――」


視線がそこに吸い込まれるような、どこか不思議な感覚だった。

ただ見つめて、声を聞き。

クリシェはただ、額から伝わる彼女の熱に目を細めた。


「そうなれば、クリシェ様も他の方が感じている気持ちも理解ができるようになるでしょう。……もちろん、明確な解決策ではございませんし、はっきりとした成果が上がるのはずっと先かも知れません。けれどそうしていけばきっと、クリシェ様の望むものが手に入ると思います」

「望む、もの」

「はい。……クリシェ様がお気づきでない、しかしクリシェ様にとって大切なもの、です」


クリシェはむぅ、と眉をひそめ、ベリーは吹き出すように笑う。


「まぁ、でも、もっと気楽にお考えください。わたしだって、クリシェ様に偉そうに教えられるほど完璧ではありません。……人の上辺だけを見て、その人の全てを理解したつもりになって、だから気付かず誤解をしたりもする。そんなことはままあることです」

「そうなんですか……?」

「ええ。誰もがそうです。クリシェ様だけではなく」


そうですね、と少し考え込み、こうしましょう、とベリーは告げる。


「わたしに対しては遠慮はいりません。クリシェ様がして欲しいことがあったら遠慮なく、それをちゃんと口に出して下さいませ」


クリシェの前に指を立て、ベリーは悪戯っぽく笑う。


「クリシェ様の嬉しいことや楽しいことを、わたしに教えて下さいませ。不愉快なことがあっても同じくです。……そうやってまずは自分のお心を理解していくのが何よりとわたしは思いますから」

「……えぇ、と、それは……」

「例えばクリシェ様はそろそろおねむの時間のはずです。そしてわたしが思うに、クリシェ様は誰かに抱きついてぬくぬくとしながら眠るのがお好きなのではありませんか?」

「え……?」


クリシェは頬を赤らめ。

それを見たベリーは笑った。


「そのように、甘えて下さいと言っているのです。さぁ、言ってくださいませ」


クリシェは目を泳がせつつも、頷く。


「そ、その……く、クリシェと一緒に、寝てください」

「ふふ。はい、かしこまりました」


ベリーは言って、クリシェの額にキスをし、ベッドの中へ潜り込む。

そしてクリシェを抱きしめ、その額の髪をよけるように優しく撫でた。

彼女の体は柔らかく、暖かい。


「わたしも同じく、こうして抱きしめてぬくぬくしながら眠るのは好きですから、両思いです。……お嬢様は最近恥ずかしがって寝てくれなくなりましたから、今日からはクリシェ様がお付き合いください」

「……はい」

「素直なことは良いことです。そうやってクリシェ様の色んな部分を教えてくださいませ。他の方はともかく、少なくともわたしはクリシェ様と理解し合いたいです。通ずるところが生まれれば、もっともっと色んなものが楽しくなります、幸せになれます。……わたしも、クリシェ様も」


もう一度額にキスをされ、くすぐったさにクリシェは身をよじりつつも抵抗はしない。

不快ではなく、覚えるのは安心感。

ずっと幼いころから、こうして抱きしめられたり撫でられたりすることは心地が良くて安心する。

少なくとも、クリシェの好きな感触であった。


「どれだけ完璧を望んでも誰もが欠点を持ちますし、完璧な人などありません。だからこそお互いの恥ずべき部分を理解し受け入れて、その上でそれを満たしあう。それが何より素敵な関係で、それは何より素敵で幸せなものですよ」

「素敵、ですか?」

「はい、素敵です。こうして抱き合って眠るわたしも、クリシェ様も……今この瞬間はお互い幸せでしょう? お互いが、お互いの望むことをしてあげてるわけですから」


ベリーはそう、楽しげに囁いた。


『自分が相手を理解しようとして、相手が自分の事を理解しようとしてくれて、それでお互いの喜ぶことをしあえたなら、それはとても幸せなことよ、クリシェ。一緒にいるだけで幸せになれるってことだもの』


随分と昔、グレイスがいつか自分に話していたことを思い出す。

クリシェはできる限り、相手を理解しようと努めた。それなりに成果はあって、村で上手くやれたのはそうしたグレイスのおかげであった。

ただ、グレイスが言いたかったのは、ベリーのようなことなのだろう。

やはり、二人はよく似ているのだ、と思う。


「……やっぱり、ベリーはなんだかかあさまにそっくりです」

「あら。だとしたらとても光栄ですね」


ベリーはくすくすと肩を揺らして、優しい目で言った。


「……少しずつ、わたしと色んなクリシェ様を見つけていきましょうね」

「色んな、クリシェ?」

「はい。……クリシェ様の知らないクリシェ様、クリシェ様の望む、クリシェ様を、です」


いずれきっと、おわかりになると思いますよ、とベリーは言って、クリシェを胸に抱き寄せた。

クリシェはその言葉に頷き、その感触に包まれながらまぶたを閉じた。

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