36.家庭
汗をかいたせいか体が冷えてきた。思わず身震いしたネレスにキアーラが慌てる。
「大丈夫ですか? 早く着替えに行きましょう」
「うん、大丈夫……」
サクサクと芝生を踏みならす。歩きながら顔を上げると、雲が緩やかに流れているのが見えた。
こんなにのんびり歩くのは何年ぶりだろうか。今まで空を見る余裕すらなかったな、とネレスは感慨深い気持ちになる。
処刑される前の自分に、お前は今から殺されたあと幼女に転生し、昔助けた少年の婚約者になって、セレブな生活を送ることになると言っても絶対信じないだろう。
覚えることは山ほどあるし、お嬢様として扱われることも全く慣れないけれど、オンディーラとして生きていたころよりは楽しい。
そう考えられるようになってきた。
(前世のワイ、マジで空気やったもんな……コミュ障的には気が楽だったけど)
だからといって、話しかけても無視されるのは普通につらい。
隣で鼻歌を口ずさんでいるキアーラは話しかければ答えてくれるし、話しかけなくても勝手に喋る。村人たちに彼女の爪の垢を飲ませたい。
鼻歌が止まり、キアーラが声を上げる。
「そういえば、もうすぐ祝祭日ですねえ」
「ああ……芽の月の、八十三日だっけ」
「ご存知でしたか!」
「日付だけは……後は、なんかお祝いしてるってことくらいしか、知らないかも……」
それと美味しい食べ物が配られる、ということしか本当に知らない。
いま思えばシムフィが喜びそうな日だ。
「なるほど! 祝祭日はですね、ミフェリルの化身である聖樹が芽を出した日……つまりミフェリルの誕生日なんです」
そしてアルヴァロが嫌いそうな日だった。
「来年もいっぱい野菜を収穫できますようにってお願いしながら、女神の生誕を祝うんですよ。ご馳走を用意して、祈りの言葉を捧げたり、家の扉に葉っぱを吊したりします。……うちではしませんけど」
「だ、だよね……」
「でもでも、毎年祝祭日にはお給料増やしてくれたり、屋敷内で小さなパーティーはしてくれますよ!」
「エッ、そうなの!?」
断固として祝わなそうなのに意外だ。驚いて大きな声を上げてしまった。
びっくりしますよね、とキアーラが苦笑する。どうやらアルヴァロの女神嫌いはみんな知っているらしい。
「ミフェリルのミの字も出しませんけど……子供にとっては、ただ美味しいものが食べられる日でしかないからって言ってました」
(ああ……日本のクリスマスみたいな感じか)
母国ほど主役に無関心な訳ではないだろうが、感覚的には似ているはずだ。
ここは子供が多い。街ではお祭りムードなのに、屋敷では何もないとなると不満を抱く子も居るだろう。
それでも屋敷の主人はアルヴァロだ。嫌いだから祝祭日は祝わない、と言いきることもできるし、領主であるためなんなら領地全体で禁止することもできるはず。
なのにわざわざパーティーまで開くなんて、面倒見が良いのか何なのか。
「優しいですよねえ、アルヴァロ様」
「そうだね……すごいと、思う」
頷いたネレスに、キアーラは満足げな表情で目を細めた。
「ここは、家なんです」
「家?」
「はい。お嬢様にとっても、私たち使用人にとっても。そう思ってくれと、契約するときにアルヴァロ様に言われました」
「契約って……働くっていう?」
彼女は歩きながらこくりと頷く。
「ほかのお屋敷なら、私みたいなメイドはお嬢様やアルヴァロ様とこうやってお話することはできません。顔を合わせることすら叶わないはずです。でも、ここは家だから、そんなに堅苦しくしなくていいって」
「そうだったんだ……確かに、緩い感じはするかも。みんな気軽に接してくれるし、子供も元気だし」
「そうでしょう? あっ、もちろんお客様が来たときとか、外ではちゃんとしないとダメですけど!」
お客様の前でステーキを食べていたコンラリアは良いのだろうか。
疑問に思って尋ねると、キアーラは慌てて「あの子は特別です!」と首を横に振った。
「わざと失礼な態度をとって、一部の客を追い返してほしいと頼まれてるんですよ」
「そ、そうなんだ……」
「ごほん。とにかくですね、私たちにとってここは素敵な職場であり、家なんです。ほかのお屋敷とはちょっと違いますけど、お嬢様にも気に入っていただけたら嬉しいです」
「上下関係とか……苦手だから、こっちのほうが過ごしやすくて、私は良いなって、思ってるよ」
「わあ、良かったです!」
まだ使用人たちの関係を把握しきれていないが、それでもネレスにとって良い環境であるような気はする。もっと堅苦しい場所だったらベッドの上でメソメソ泣いていたかもしれない。
(アルヴァロに運良く拾われて良かったな……)
ネレスの思考を読んだかのように「本当にお嬢様がここへ来てくれて良かったです」とキアーラが言って驚いた。
彼女は目を輝かせながら熱弁する。
「ぜーったいに、アルヴァロ様を逃しちゃダメですよ!」
「……へ?」
「ちょっと物騒ですけどほんとに良い人ですから! 私、貴族は肥溜めに蹴落としたいくらい嫌いですけど、アルヴァロ様は別です。貴族であんなに良い人は他にいません」
「え、えっと……」
「お嬢様とアルヴァロ様のご婚約、とっても応援してますからね!」
「アッ……その……」
もう結婚する未来を信じて疑わない笑顔だ。気圧されたネレスは、曖昧に微笑むしかなかった。
+++
数日後。
アルヴァロに呼ばれたため、ネレスはキアーラとともに執務室へ向かっていた。なにやら行きたい場所があるらしい。
キアーラが木製の扉を叩く。許可を得て入った先にはアルヴァロと、髭の生えた老紳士がいた。
家令のグスターヴォだ。使用人の中で一番偉い、と紹介されたときに教えられた。柔和な外見をしているため失礼ながらあまり偉そうには見えない。
しかしアルヴァロが不在のときには代わりに領主の仕事をしているらしいので、実力はとてもある人なのだろう。
彼か穏やかな表情でこちらに一礼する。手には書類を持っており、話し合いの途中のようだった。
アルヴァロが嬉しそうに「おはよう、ネレス」と微笑む。
「お、おはよう」
「すまないが先に用事を済ませたい、すぐに終わるから待ってくれ」
分かったと頷いたが、グスターヴォが困ったように眉根を下げる。
「お嬢様がいるところで話すには、少々物騒な件ですよ」
「構わない、話してくれ」
ちらりとネレスを心配そうに見たあと、家令は手元の書類に視線を落とした。
「ここ最近、隣街で不審死が相次いでいるようです。胴体を切り裂かれた遺体がすでに四人発見されているらしく、犯人を突き止めてほしいと」
(思ったよりめっちゃ物騒やな!?)
黙って聞いていたネレスはすこし表情を引きつらせる。アルヴァロは顎に手を当てながら「……この時期に?」と呟いた。
「ええ、この時期に。適任なのはララジャかと思いますが」
「いや……今は……アレだ。アレのために、スヴェを潰すので忙しいだろう」
「ああ、祝祭日ですね」
「うん」
意地でも祝祭日とは言いたくないらしい。そっぽを向きながらアルヴァロが頷く。
「危険だし私が調べに行こう」
「以前も言いましたが、騎士団の件を検討しても良いのでは?」
「……そうだな、考えておく」
短いやり取りで会話は終わったらしい。グスターヴォとキアーラが執務室から出ていき、アルヴァロとふたりきりになる。
取り残されて居心地の悪い思いをしていると、彼が椅子から立ち上がった。
「待たせてすまなかったな。今日の仕事は終わりだ、行こう」
「ど、どこに……?」
外出用の服を着てくれと言われていたものの、行き先は知らない。
おそるおそる尋ねたネレスに、彼は口角を上げながら「植物園だ」と告げた。
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