「今日、泊めてくれない?」

 永遠子の唇が動くのを、私は茫然と見つけていた。

 誰かとキスをするのは、はじめてだった。だからといって、なにか子供っぽい夢を見ていたわけでもない。ただ、私は女の子が好きなのかもしれないと感じ始めた数年前から、私は一生誰ともキスなんてしないかもしれないと思ってはいた、それが、こんなにあっさり、綿毛が風にさらわれるみたいに。

 「久子?」

 永遠子が小首をかしげると、彼女の肩から長い髪が滑り落ちて、薄い胸元で揺れた。

 私は茫然としたままその動きを目で追っていた。

 永遠子は自分のキスが私にもたらした作用を理解していたと思う。自分の魅力を重々承知していたのであろう永遠子に比べて、私は幼すぎたのだ。永遠子は、いつだって必要な時に必要なだけ私に触れたから。

 「……いいよ。」

 答える声は震えていた。怖かった。自分の感情が、こんなにもあっさりと沼に囚われて行くのが。

 ありがとう、と、永遠子が微笑んだ。

 私は永遠子を泊めることを母には言わなかった。ただ、晩ご飯はおばあちゃんの部屋で食べると言って、食事を祖母の部屋へ持ち込んだだけだ。

 母は、嫌な顔をした。けれど、ほんの一瞬だけだ。眠り続ける夫の母親への嫌悪感が無意識とはいえ覗いたことを、多分母は自覚していなかった。

 静かな祖母の部屋で、私たちは一人分の夕食を分け合って食べた。永遠子はあまりものを食べなかったから、そう困りもしなかった。はじめは遠慮をしているのかと思ったのだけれど、そもそも給食でさえ永遠子はあまり食べていないことを思い出し、私はなにも言わずに永遠子が残した分の食事を食べた。

 そしてその晩、永遠子が寝物語のように聞かせてくれたのが、永遠子の家の惨状だった。

 「……東京ではね、狭くて壁の薄いアパートに住んでたから、すぐに父親がアル中だって広まってね、学校の同級生どころか先輩も後輩もうちを見に来たわ。……母親はヒステリーを起こして、部屋の窓から怒鳴ってた。……騒がしかったわ、毎日。」

 座布団を並べた上に寝そべった永遠子は、肘を枕にそんなことを語ってくれた。

 私はなにも言えなかった。田舎育ちの13歳に、永遠子の話はあまりにも遠い世界の出来事だった。

 永遠子はよく光る切れ長の目で私を見ると、にこりと笑った。その目を見て、私は永遠子に好かれてはいないのだと改めて自覚した。永遠子の目には、なにも知らない子供を疎ましく思う大人のような、そんな薄い嫌悪の色があった。

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