「お帰りなさいませ麒麟様! すみません。至急お伺いしたいことがありまして……」


 屋敷へ戻って来ると、待っていたかのように大慌てのマオが駆け寄ってきた。手にした書類の山を見るにマオでは捌ききれないものがあったのだろう。


「麟、行って来いよ。ひなは俺が部屋まで送り届けるから」

「……あぁ。分かった。ひな、また後で」

「あ、はい」


 後ろ髪を引かれるような思いで麟がマオと共に職務に戻ると、ヤタと共に自分の部屋に戻ってきたひなは部屋の前でぴたりと立ち止まる。

 障子に手をかけたままぼんやりとしている彼女の様子にヤタが不思議そうに声をかけた。


「ひな?」

「……さっきの、きっと本当なんだよね」

「さっきのって……」

「私が、雪那さんと阿修羅の子供だって話……」

「確かに信憑性は高いかもしれないが……まだそうだと決まったわけじゃないだろ」


 ひなはヤタの言葉に俯いたまま首をゆるゆると横に振った。


「たぶん、そうなの。私、お母さんの記憶が全然なくて。お爺ちゃんやお婆ちゃんに聞いても知らないの一点張りだった。でも、二人ともお母さんの話をするとずっと顔が強張っていたの。まるで、化け物を見るかのような……」

「ひな」

「現世でのお父さんは、お母さんが大好きで……周りも、私の事も見えなくなってしまうくらい大好きで、それで蒸発しちゃったんだよ。お爺ちゃんとお婆ちゃんは、その事でも怒ってた。お爺ちゃんたちにとってお父さんは大事な子供だもん。その子供が快く思っていない女性の事だけを思って蒸発しちゃったなんて、しかもその子供が私だなんて、許せなくても仕方がなかったんだよね」

「……」


 ぎゅっと拳を握り締め、ひなは下唇を噛んだ。

 雪那と阿修羅の子供だと言う事へのショックにも似た衝撃。百歩譲って雪那の子供であることは構わない。ただ、自分に阿修羅の血も通っていると思うと怖かった。そして何よりそう考えた方が合点が行く事ばかりだ。

 祖父母が自分に対して冷たかったことも、感情の高ぶりで発生した破壊的な力の事も、居なくなってしまった父の事も全てが抜け落ちていたパズルが埋まるように綺麗に収まる。

 ヤタは言葉に詰まり、思わず口籠ってしまう。


「この前、夢に知らない女の人が出て来たの。髪が長くて、銀髪のようにも見えた女の人。それから、阿修羅が私の夢に感化して来た時に見せて来た雪那さんは、今思うと同じだったと思う」


 ひなはヤタを振り返り、寂しげに眉を寄せもう一度視線を下げた。

 色々な情報が一気に雪崩れこんできてどう処理をしていいか分からない。


 自分はこれからどうなってしまうのか。また何か問題が起きた時、ヤタや麟を傷つけてしまうんじゃないか。力が暴走するんじゃないか……。考え始めるとどんどんがんじがらめになってしまうようで、それでも考えずにはいられなくて……。


 ぎゅっと自分の右腕を握り締める手に力が入る。


 ヤタはひなの頭にそっと片手を置くと、何も言わずに自分の方へ引き寄せた。

 抱き締めるわけではなく、自分の胸元に引き寄せるだけの簡単なハグだった。


「……どんな状況になったって、俺たちがやることは変わんねぇよ。お前は、雪那以上に麟が見染めた相手だ。麟が見染めた相手なら、俺は全てをかけてお前の事も守る」

「でも、その私が二人を傷つけるようになったら? ……私、そんなの嫌だよ」

「変わんねぇ」

「……っ」

「何も変わんねぇから、心配するな」


 安心させるように静かにそういうヤタにひなはポロポロと涙を流し、小さく頷き返した。

 愛情希薄な状態でこれまで育ってきたひなには、今までと同じで何も変わることは無いという言葉は何よりも気持ちを落ち着かせる言葉だった。


「シナ。ひなを少し休ませてやってくれ」

「……」


 傍に控えていたシナはヤタの言葉にこくりと頷くと、ひなを連れて部屋の中に戻って行く。それを見送ったヤタは、自分の手の中に残るひなのぬくもりを包むようにぎゅっと握り締めた。



                 *******



 あぁ、また夢だ。


 ひなはいつの間にか眠りに落ちていたが、夢の中でも自分は今夢を見ていると分かった。それもそのはずで、目の前には背筋をしゃんと伸ばして座っている雪那の姿があったからだ。彼女の表情は咎めるわけでもなくふんわりと柔らかな笑みを浮かべて見つめている。


『そこへ、座ってちょうだい』


 夢の中の雪那は自分の目の前に置いてある座布団に座るように促して来た。

 ひなはまた何か良くない事があるのではないかと疑いを持ちながら、言われるままにその座布団に座ると、雪那の表情に少し陰りを見せてくる。


『今あなたの夢に感化しているのは私だけです。阿修羅も入り込めないよう結界を施してありますが、絶対と約束できるものではありません』

「……」

『……もう、分かってますね?』


 分かっているか。その問いかけにひなはぎこちなく頷き返すと、雪那は力を抜くように肩を落とした。その表情はとても寂しそうで、それでも慈愛が溢れていて攻撃的ではない。


『あなたには、申し訳ない事をしました』

「……雪那さん」

『こうなる前に、私は自分自身の手で魂を消してしまえばよかったと、ずっと後悔しているんです。でも出来なかった。あなたが私に宿っていると知ってしまったから。でも、消せなかったからこそあなたがしなくてもいい苦労をしている……。それは、そうさせてしまった私の大きな過ちです』


 そう言うと、雪那は両手を膝の前に付き深々と頭を下げた。


『本当にごめんなさい』

「や、やめて下さい。そんな……そんなこと、して欲しくないです……」

『……』

「……っ!」


 僅かに顔を上げた雪那の目元からハラハラと涙が零れ落ちているのを見て、ひなは一瞬怯んだ。


『……私が人として生きていた時は、自分自身のしたことでこんなにも胸を痛めることはなかった。幽世で新たに生を受け、生前と同じように審判の時まで生きていれば大丈夫だと思いあがっていた……。だから、私は足元を掬われてしまったのね。だから、私は今になってどうにもならない苦しみを背負ってる』

「……」

『そして今になって、自分の中にあった黒いものを知ってしまった。でも、それ以上にあなたの事が愛しい。愛しくて愛しくて、仕方が無いの』


 雪那はゆっくりと顔を上げると流れる涙もそのままに、ひなの目を見つめ返した。ふんわりと微笑みながら、何かを口にしたそうに何度も口を開きかけては躊躇いがちに口を閉じる雪那に、ひなは不安そうな目を向けていた。だがやがて、雪那は膝の上に添えていた両手をぎゅっと握り締めるとそっと片手を差し伸べて来る。


『……ひな?』


 躊躇いがちにひなの名を呼ぶと、ひなの目からもツーっと涙が流れ落ちた。

 優しさに溢れるその呼び声。ずっと欲しかったその声に自然と涙が零れ落ちて行く。同時に、ひなの胸にも込み上げる「甘えたい」という感情が溢れ出し差し伸べられた手をすり抜けて真っすぐに雪那の胸に飛び込んだ。


「お母さんっ!」


 ずっと呼んでみたかった言葉が、何のためらいもなくひなの口から出る。

 突然の事に驚いた雪那だったが、彼女もずっと呼ばれたかった「お母さん」という言葉に胸がいっぱいになり、目を閉じてぎゅっと抱きしめ返しその頭に頬ずりをする。


『私の可愛いひな。こうなると分かっていたのに……。あなたが生まれてすぐ私が持つ妖力を全て使い、私の記憶と同時に阿修羅の力を封じ離れて行くしか出来なかった私を許して……』


 ひなは何度も頷き、顔を上げて雪那の顔を見上げる。


「……お母さんは、離れて行ってなんかなかった。本当はずっと私の近くにいてくれたのでしょう?」


 その言葉に、雪那は瞬間的に驚いた顔を見せたがすぐに笑みを浮かべて頷き返す。


『あなたの中に封じた、阿修羅の力を暴走させるわけには行かなかった。だけど、少しずつ片鱗を見せるようになってしまって……。だから、ずっと見守っていたわ。そして全てを知った今だからこそ、あなたに会いに来たのよ』


 雪那はひなの手をぎゅっと握り締め、じっと真面目な顔をして見つめ返してくる。


『あなたが背負う運命は逃れられない。でも、一人で背負い切れるものでもない。私にはもう何の力もないけれど、最期に言わせて』

「最、期……?」

『……私は間もなく無に還ります。ひな。麟の事を私以上に愛して。あなたの周りには多くの味方がいるのを忘れず、負の感情に振り回されないで。心の闇は阿修羅の力を容易く助長します。忘れそうになっても、必ず思い出すのよ。あなたを愛している者たちのことを。あなたを心から想い、愛してくれる人は必ずあなたの傍にいて助けてくれる』

「お母さん!?」


 握り締めている雪那の手が徐々に半透明になっていっている事に驚いたひなは、戸惑いながら母を見つめるが、雪那は語る事を止めようとしなかった。


『あなたを利用しようとする者たちに心を許してはダメよ。どうか強くいて。沢山周りに頼って、笑って、あなたの優しさを他者に分け与えて……』

「お母さん、待って……」

『私に出来なかったこと、沢山して。体を大切に。自分に正直でいて。無理をしないで健やかに。それから……』


 全ての体が透けてしまった雪那は、にっこりと微笑みかけ口を開いた。


――ずっと、ずっと大好きよ……。


「お母さん……っ!」


 光が弾けるように雪那の体はひなの前から消え去り、ひなの手の中には一片の桜の花びらだけが遺された。

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