怨念の壺・阿修羅

 地獄の果てに縫いつけられ身動きが取れない阿修羅の元には、無数の怨念が吸収されている。際限がないほど、いくらでもその身に吸収してしまう彼の体は汚れ切った気を吸い込めば吸い込むほど体が黒ずみ、今は膝下まで闇のごとく真っ黒に染まっていた。染まってしまった部分は動きが鈍り地面に縫い付けられたようになってしまう。

 

 この地獄に生える多くの枯れ木と思しき真っ黒な木々は、彼のように怨念の壺となってきた者たちの末路だとも言える。

 地獄には何百、何千もの枯れ木が枝先を垂れ、この名もなき地獄の最果てに立っている。しかも、枯れ木となって生えていても彼らはそのままの姿で生き続けることを定められていた。


 これほどまでに多くの怨念の壺として立てられた者たちが、立ち並ぶのには人それぞれの怨念を貯め置ける許容があるためだった。早いものでは数年で受け入れられなくなってしまう。


 ところが、阿修羅はもう何百年も多くの怨念や嫌悪を吸い続けているというのに、膝下までの闇深さで済んでいるのが不思議なほどだった。

 膝から下が枯れ木のように地面に埋もれ、そこから動くことは出来ないにしてもまだ膝から上は動くことが可能だ。

 そんな彼が、ここ最近になって僅かに反応を示すようになっていた。


 彼に反応を示させる切っ掛けになった人物がいる。それはかつて、ひなを乗っ取り操り好き勝手していた香蓮だった。


 彼女は麟によって魂を無に還されたものの、まさに蛇のように執拗な憎悪を地に吸わせ続けていたため、それがゆっくりと時間をかけ、やがて怨みつらみが凝縮下重油のように一滴の雫となって阿修羅の元に辿り着いた。

 真っ黒く重たさを秘めたそな雫が、ぽたりと頭上に堕ち、浅黒い阿修羅の肌をゆっくりと滑り落ちてやがて吸収されていく。

 様々な記憶、様々な思い、その中から選び抜かれた負の感情が彼の身体に満たされて行く中で、無反応だった彼が唯一反応するものが見えた。

 

 明るく慈愛に溢れた女性。

 幼さの中にしっかりとした芯を持ち、真っ直ぐな心根を持った人間。

 そんな人間こそ汚したい欲を思い出させる。

 

 彼は気付いたのだ。

 ひなの存在に。そして、その彼女を庇護する麟の存在に。


「……」


 阿修羅は2人の存在を認識してからブツブツと誰にも聞こえないひとり言を常に呟くようになり、時折楽しげにくっくっと笑い肩を揺らすようになった。


 気が触れたかのようにも見えるその様子は、帝釈天以外には知るところにない。

 ゆらゆらと体を揺らしながら、阿修羅は同じことを繰り返し口にするようになる。それが誰かを呪う恨みのような呟きであることは明らかだった。


「……雪那ァ……」


 ボソボソと呟いている言葉の中でハッキリと呟いたのは、雪那と言う名前だった。その声はゾッとして背筋が凍てつくほど不気味で、気味の悪いものだった。

 憎悪にも、執念にも聞こえる薄気味悪さ。ニヤニヤと口元に笑みを浮かべて笑う様は、何とも言い難い。

 その後も、阿修羅はただひたすらに体をゆすり続け、薄気味悪く笑い続けていた。






 ゾワリとした奇妙な寒気が、仕事に当たっていたヤタの背筋に走り抜け、思わず手に持っていた巻物をバラバラと床にばら撒いてしまう。


「八咫烏? 何だか顔色が悪いわよ」


 すぐ傍で他の仕事をしていたマオが不思議そうに声をかけると、ヤタは慌てて落とした巻物を拾い、棚の上に並べた後自分の体を抱きしめるように肩から腕にかけて擦った。


「いや、何か急に寒気が……」

「大丈夫? 風邪でもひいたんじゃないの?」


 あやかしが風邪をひく、と言うのもおかしな話ではあるがそれでも体調を崩さないわけではない。マオ同様にヤタもまた働き詰めであるのも事実。体の不調を訴えたとしても何も不思議はない。


「八咫烏、体調が悪いのか?」


 マオが八咫烏の額に手を当てていると、出掛け先から戻った麟が仕事部屋に戻って来るなり驚いたように声をかけて来る。

 ヤタは麟の姿を見た瞬間、額に当てられていたマオの手を藪から棒に振り払う。

 当然、マオは急に手を外されてムッとしたのは言うまでもない。


「あ、麟。戻ったのか?」


 麟は自分の仕事の席に着きながら頷き返した。


「あぁ、いつまでも仕事を空けている訳にはいかないだろう? お前たちの心遣いで充分楽しませて貰ったよ。それよりどうしたんだ」

「いや……何か、一瞬誰かに睨まれたような変な寒気を感じてな……」

「……」


 ヤタの呟きに、麟は眉間に皺を寄せる。

 麟自身も、屋敷に戻って来るまでの間に似たような状態になっていた。身の毛もよだつような、背筋が凍り付くような得も言われぬ感覚。

 ひなは急に黙り込んだ麟を見て心配そうにしていたが、仕事を休むわけにはいかないと何とか彼女を説得して仕事に戻ってきたところだっただけに、嫌な予感がする。

 麟はチラリとマオを見て、口を開く。


「マオ。悪いが少し頼まれてくれないか」

「え? はい。何でしょうか?」

「八咫烏の為に薬湯を作ってきて欲しいんだ。それを飲ませたら、今日は八咫烏には休んでもらう」


 マオは納得したように頷き「承知しました」と言い置いて、いそいそと部屋を後にする。

 部屋に残った麟はヤタに声をかけた。


「八咫烏。部屋の扉を閉めてくれるか」

「お、おう……」


 言われるまま、部屋の入り口を閉めると麟はヤタをじっと見据えて口を開いた。


「……嫌な予感がするんだ」

「嫌な予感?」

「誰もいないか?」


 念を押してそう言うと、ヤタは今一度閉じた引き戸を開けて周りの様子を伺い、麟を振り返る。


「誰もいねぇよ」


 そう言いながら引き戸をしめて麟の方へ向き直ると、麟は腕を組み顔をしかめていた。


「お前が感じたその悪寒、ここへ戻るまでの間私も同じものを感じた。ただならない気配だったように思う。もしかすると、何か起きる前兆なのかもしれない」

「何かって……、もしかしてさっき言っていた阿修羅ってやつと関係が?」


 違うだろうと思いながらもそう訊ねると、麟は神妙な顔つきで頷く。


「確証はない。が、可能性はあるかもしれない。だからお前には閻魔の元へ向かって、状況を聞いて来て欲しいんだ」

「地獄にか? そりゃ構わねぇけど……」


 阿修羅に関する情報をいち早く手にするのには、地獄へ赴くのが一番手っ取り早い。ヤタは翼があり、どちらの世界にも自由に行き来する権利を持っている。ならば文を待つよりも彼に確認をしてもらう方が確かだ。


「くれぐれも、他の者たちに気取られないようにな」

「承知」


 その時、閉じられていた戸がノックされ、「失礼します」と一言声をかけて薬湯を持ってきたマオが中に入ってくる。


「八咫烏、薬湯持ってきたわ」

「ああ、悪い……」

「マオの煎じた薬はよく効くからな。しっかり飲んで、今日はゆっくり休むと良い」


 まるで何事も無かったかのように麟はニコリと微笑んでそう言うと、手元の仕事に取り掛かる。

 マオから受け取った薬湯を、ヤタもまた何事も無かったかのように啜る。


「……にっが」


 口に含んだ瞬間の独特な苦味に思わず思った事が口をついて出る。


「良薬口に苦し、よ。それ飲んで寝ればすぐ良くなるわ」

「……」


 ほこほこと立ち上る温かな湯気の向こうで微笑むマオに、たっぷりと注がれた薬湯を飲み干せる自信がないヤタの微妙な顔がさらに歪んだ。


(飲み干せる気がしない)


 ヤタが麟に対して目で訴えると、麟はニコリと微笑むだけ。

 せっかく淹れてくれたものを無碍にするなと言わんばかりの笑みに、ヤタは覚悟を決め鼻をつまんで一気に喉の奥に流し込んだ。


「う……ゲホゲホッ!!」

「ちょ、何やってんのよ! ゆっくり飲まないと効果薄くなるわよ!」

「……帰る」


 苦すぎる薬湯を無理やり飲み干したせいで、逆に具合が悪くなりそうになりそうだと思いつつ、ヤタは部屋を後にした。

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