第8話 夫が失踪し、働く自信が戻ってきた
夫が失踪した。
季節はいつしか夏になっていた。
浮気相手である近藤さんという女性が乗り込んできてから数週間後、忽然と夫が姿を消したのだ。仕事にも行っていないらしく、会社から「無断欠席が続いているのですが……」と連絡があった。
こういうとき、失踪届を出すべきなのだろうか。でも、それだとまるで帰ってきてほしいみたいではないだろうか。帰ってきれくれなくていい。でも、だからといって放置するのも、あまりにも人の情けがないと思い、形だけではあるけれど失踪届を出しておいた。
「行方不明? ただの家出じゃないですか?」
警察官からそっけなく言われても、そうかもしれません、としか答えられなかった。うちの夫は家出なんかしませんと言える夫婦ではなかったことが悲しく、それでいてもうどうでもいいという気持ちもした。
専業主婦だった私は、夫の失踪により無職の女性という立場になった。外に働きに出なければ。そんなこと以前はとても無理だと思っていたけれど、夫のいない日々を過ごすうちに、だんだんと「もしかしたら自分でも働けるかもしれない。だめでもともと、頑張ってみよう」という前向きな気持ちになってきていた。
生理痛の痛みも、以前より軽くなった気がする。婦人科の先生にそう伝えると、「生理痛はストレスの影響も大きいですからね。何か環境の変化でもあったんですか」と言われた。心当たりはある。夫がいなくなった。あと不倫した。もちろんこんなことを人に言うわけにはいかないけれど。
私はハローワークに通い始めた。
彼からはしょっちゅうスマホにメッセージが送られてきている。
「会いたい」
「プールではいつもあなたを探してしまう。どこにもいなくて、がっかりします」
電話がかかってくることもあったが、出なかった。
わざわざ別れを告げるなんてことをしなくても、連絡を断てば自然とフェードアウトできると思っていたが、私が間違っていたようだ。彼からは決まって毎日1通のメッセージが届く。電話はもうかかってこなくなったが、メッセージだけは律儀なほど毎日来るのだ。
着信を告げる振動とともに罪悪感がわき起こり、さらに罪深いことに、私はどこか嬉しい気持ちでいた。そんな自分に吐き気がした。こんなことなら、ちゃんと会って、別れを告げるべきだった。
だから、その日、夕立があがり、灰色の雲の向こうにオレンジ色の空が顔を覗かせたころ、駅近くのコンビニ前に立つ彼を見かけて、これは運命なのだと思った。
アスファルトで熱せられた空気の中に浮かび上がる蜃気楼のように不確かで不揃いな通行人たちの向こうに、彼だけがくっきりとした輪郭を持って存在していた。
きちんと終わらせなさいと神様が言っているのかもしれない。きっとそうだと自分に言い聞かせながら、彼に近寄った。
彼は電話で誰かと話しているところだった。
「ふざけんなよ」
怒ったような声。
「弟を病院につれていくって話だっただろ。だから1万貸してやったんじゃん。なんだよ、パチンコですったって。弟はどうしたんだよ」
しばらくの沈黙。
「それならいいけど。……だから、貸さないって。なんでおまえのパチンコ代を僕が出すんだよ、ばっかじゃねえの」
彼がスマホをおろした。通話が終わったのだろう。彼はなぜか周りを見回して、立ち尽くしている私を見つけた。目が限界まで見開かれる。
「
しどろもどろで弁明する彼に、いいよ、と私は笑う。
「今時の男の子だもん、友だちと話すときはそういう口調になっちゃうよね」
「いや、でも、あの……」
「言葉遣いはともかく、話の内容自体は乱暴じゃなかったよ」
「怖く……なかったですか?」
「怖くないよ」
「良かった……」
私は少し息を吐いて、思い切って口を開いた。
「
彼は私の手を握ると、何も言わずに歩き出した。
なんとなく会話を避ける空気をまとった幸希くんに何も言えなくて、私も黙ってついていく。
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