紺碧の後悔

星野 ラベンダー

第1話「碧い記憶」

 砂浜に倒れている人を見つけたとき、あなたならどうするか。

海側を頭にして、波打ち際でうつ伏せになり微動だにしない若い男性を目にした瞬間、そんなナレーションが湊斗みなとの脳を流れた。


 とりあえず学生鞄から携帯を出し、警察か救急車どちらを呼ぶか迷ったときだった。男性の片手が微かに跳ねるようにして動いた。これで死体という落ちは消される。思わず吐いた息と重なるように、男性が何かを言った。波音にかき消され、上手く聞こえなかった。一歩二歩と近づき、恐る恐る聞き返す。


「あ……甘いもの、を……」


 は、と湊斗は呆けた声を漏らした。はやく、と掠れてしわしわになった声で急かされ、急いで鞄の中を探る。お菓子を持ち運ぶような習慣はないが、何かないか。


 すると鞄の隅に、サイダー味のキャンディを一つだけ見つけた。何かのおまけで貰ったものだったか。倒れている人に飴玉はいいのかと少し迷ったが結局封を切り、キャンディを顔の近くまで持っていった。


 男性は油の差していないロボットアームのような動きで腕を持ち上げると、キャンディを手にして口に入れた。しばらくしてぱち、と男性の目が開いた。


「はー、生き返る……! 危なかった!」


 男性は頭を押さえながらゆっくり上半身を起こした。直後、「あ、汚れてないか?!」と急に辺りを見回した。見ると男性の体の真下に当たる部分にスケッチブックと数本の鉛筆が転がっていた。男性は慌ただしくスケッチブックを開き、中身を確認して深く息を吐き出した。


「多分糖分不足だと思うんだけどなあ、これ滅茶苦茶集中しながら書いてたら急に意識が遠のいてね……。やっぱりごはん抜くのは良くないな、反省! あ、ところで君、本当にありがとう! 助かったよ!」

「いや、別に。じゃあこれで」


 湊斗は後ずさった。男性は寝癖がひどく、着ている服も皺だらけのパーカーを羽織りその下のシャツもよれよれという見た目をしていた。漂ってくる不審者の匂いが強すぎて、正直関わりたくなかった。


 足早に立ち去ろうとしたときだ。「……ん?」と男性が近づき、顔を覗き込んできた。仰け反った湊斗がなんですかと尖った声を出しかける。


「碧衣さん……?」


 ぽつりと呟かれた名前に、湊斗は耳を疑った。目を見張った。胸にさざ波が立った。


「碧衣のこと、知ってるんですか?」


 聞き返すと、男性も目を大きく見開いた。

「彼女の、知り合いかい?」




 たくさん佇むマネキンやトルソーは服を着ているものもあれば裸のものもあった。隣のハンガーラックにはずらりと服が並んでおり、そのデザインは様々だ。けれどよく見るとどこか似ている部分を見受けられて、同じ人が作っているのだろうとなんとなくわかる。

 本棚は服飾に関する資料や本を中心に並んでおり、傍の作業台にはミシンと大きな布がいくつか置かれていた。


 本当にファッションデザイナーだったのか、と湊斗はアトリエ内を見回しながら思った。窓の向こうを覗くと、男性が倒れていた浜辺が見えた。この位置からだと、岬に立つ白い灯台の姿もよく見える。


「突然呼んじゃってすまないな。あ、良かったらその辺に適当にかけてくれ」


 男性がサイダーの入ったコップを載せたトレーを手に部屋に入ってきた。髪は軽く整えたようだが、服はよれよれのままだった。これでデザイナーだと言われても誰も信じないだろう。湊斗もそうだった。


 倒れていた男性は浜辺で、こうという名前と職業を名乗った。携帯を使い、名前で検索をかけるとすぐに出てきた。二十代半で、若手の中で特に注目を集めている、その界隈では有名なレディースファッションのデザイナーだった。

 出てきた画像には、きりっと端正に映る滉の姿があった。目の前にいる男性と、真反対の印象だった。


 すぐ近くにあるというアトリエに半ば強引に寄っていくことを誘われた。話があるのだという。


 しかし湊斗は服のことはよくわからなかった。なので誘われたアトリエの中に入ってからずっと落ち着かず、作業台の傍の椅子にぎこちなく腰を下ろしていた。


 彼女なら、喜んだのだろうが。 


「碧衣さんと似てたから、一瞬間違えてしまった。君は碧衣さんのクラスメートだったんだね」

「性別が違うのにですか?」

「黒い髪や真っ直ぐな髪質や顔立ちや、あと雰囲気がそっくりに見えたんだよ」


 サイダーを机の上に置きながら言った後、滉は向かいの席に座った。あの、と湊斗は背筋を伸ばした。


「碧衣とは、どういう」

「僕に服を作ってくれないかと注文してきた、いわゆるお客様だったんだよ。碧衣さんとはたまたまあの浜辺で出会ったんだ。ずっと作業をしていたら、気づかないうちに何食か抜いてしまってね。浜辺でデザインを考えている最中に、急に力が入らなくなって意識が遠のいたんだ。まさに今日と同じような感じだな。そこに現れたのが碧衣さんで、僕を助けてくれたんだよ。それからちょっとした顔見知りになったんだ」


 滉は窓を指さした。青色に輝く海は波らしい波もなく、どこまでも穏やかで静かな空間が続いていた。


「実は、碧衣さんに服を作ろうと思っていてね。湊斗君には、その手伝いをしてほしいんだ」

「僕は服どころか裁縫もろくにできませんよ」

「服作りじゃなくて、碧衣さんについて知っていることを色々教えてほしいんだ。彼女をイメージした服を作りたいんだが、生憎僕は碧衣さんのことをよく知らない。でも同級生の湊斗君なら、色々彼女のエピソードとか知っているかと思って」


 頼めるかな、と滉は優しく尋ねた。湊斗は穏やかな眼差しを見返した。


「碧衣は、もういないのに?」

「だからこそ、だよ」


 滉は笑ったままだった。湊斗は顔を捻り、窓に視線を移した。空は青く、海はそれ以上に青い。開放感を抱くような澄んだ眩さが、網膜まで届く。


 とは大違いだと思った。

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