29.騙されるな!

椿が花壇に水をやり始めるとすぐに一人の人物が近寄ってきた。


てっきり柳かと思い、少し落ち着き始めた心臓がまたトクトクと鳴り始めたので、椿は極力下を向きながら水をやっていた。


「オフィーリア嬢、ちょっといいか?」


「へ・・・?」


その声は柳ではなかった。

椿は拍子抜けしたように声の主に振り向いた。そしてその人物の登場に飛び上がるほど驚いた。


(ジャ、ジャック様!!)


ジャック・ブライトン子爵令息。

セオドアの従兄弟。そしてヒロイン・オリビアを巡っての恋敵。


ここに来てからメインキャラクターの一人である彼とは初めて顔を合わせたわけではない。ジャックとはクラスが違うのでほとんど会うことはないのだが、以前に廊下ですれ違ったことがあった。その時に彼は鋭い怒りの籠った目で椿を睨んできた。椿はその視線の矢に体をガッツリ突き刺され息が止まりそうになった。その時は慌ててトイレに逃げ込んだのだった。

それ以来、椿にとって彼は恐ろしい存在なのだ。


睨まれた理由は分かっている。オフィーリアをオリビア虐めの犯人と思っているからだ。

椿も理由は分かっていたので睨まれたことは仕方ないと思うし、怒りは無い。ただ恐ろしいことは変わりない。


そんなジャックが自分に声を掛け、厳しい顔で仁王立ちしている。

椿はヒュッと息を呑んで固まってしまった。


「オフィーリア嬢。話がある」


(山田はありません!)


そう言って逃げ出したいが、足は動かない。椿は両手でじょうろを持ってその場に立ち尽くした。

そんな椿の傍にジャックは大股で近寄ってきた。


「どういうつもりなんだ? 君は?」


間近に近寄るや否や、ジャックは声を荒げた。


「記憶を無くしたセオドアに取り入るなんて、汚いと思わないのか?!」


長身で椿を見下ろしているその目は怒りの色を帯びている。椿はその目に縮みあがった。


「記憶の無いことをいいことに、オリビアの事を悪く言っているそうじゃないか! その分、自分の事を相当良く言っているんだろう? セオドアを騙したって無駄だ!」


今にも胸倉を掴まれそうで、椿は無意識に防御するように胸の前でじょうろを抱きしめた。


「どんなに嘘で塗り固め立って、セオドアの記憶が戻ればすぐにばれる。その上、益々信頼を失う事になるんだぞ! そんなことも分からないほど愚かなのか、君は?」


「そ、そん・・・な、わ、わた、わたしは・・・」


ジャックの剣幕が恐ろしくて、椿は上手く言葉が出てこない。体も小刻みに震える。彼の圧力に押され、ジリジリと後ろへ後ずさりした。


「オフィーリア嬢、これ以上セオドアに近づくな・・・って、うわっ! 冷てっ!」


突然、自分の股間辺りに水をかけられ、ジャックは後ろに飛び退いた。


「おー、わりぃー、手元狂った」


「な、な、な、セオドア! 何をするんだ!」


「水やり? わりーな、手元狂ったわ。ま、邪魔な場所に突っ立ってるそっちも悪いけどよ」


「な、何だと!?」


「あーあーあー、そんな格好で凄まれてもなー。全然怖くねーっつか、逆に格好悪いぜー。もっと堂々としな」


無意識に濡れた所を押さえ前屈みになっているジャックに、柳は意地悪そうに笑って見せた。ジャックはハッとしたように股間から手を放した。恥ずかしさからか怒りからか、それともその両方からか、顔が真っ赤になっている。


「な、なんで、セオドアがここに・・・!?」


「あぁ? それこそこっちのセリフだ。何でお前がここにいんだよ? こんな朝早くによ。しかも裏庭の花壇。普通いねーわな?」


「お、俺は・・・」


ジャックは見たことのないセオドアの凄みの利いた笑顔に言葉を詰まらせた。


今までもセオドアらしくない態度を何度も見ている。その度に不愉快にさせられていた。だが、今の態度はこれまでに見たことがないほど、自分への怒りと軽蔑さを滲ませている。

セオドアの表情に怯みかけたが、ジャックは気を取り直して、フンと胸を張った。


「俺はオフィーリア嬢と話をしたくてだな、わざわざこうして会いに来たんだ!」


「へえ? こんな早朝に? この時間、オフィーリアが花に水をあげてるのはいつものことだけど。しかもたった一人でさ」


セオドアから冷たい笑みが消え、鋭い目線に変わった。


「その時間をわざわざ狙って来たわけだ。脅しても誰にも邪魔されないようにって。最低かよ?」


「脅すなんて・・・っ」


「俺にはそう見えたけど?」


柳は相変わらず冷ややかな目でジャックを見つめた。


「それにしてもお前、それ知ってたの? わざわざ調べたの? オフィーリアのストーカーかよ? 怖えな」


「セオドアだって知っていたじゃないか! だからここに・・・」


「はあ? 俺は知ってて当然じゃん。婚約者なんだから。付き合ってんだからよ」


「付き合ってるだって!?」


ジャックは叫んだ。


「付き合ってるだ? 婚約者だ? 何を言っているんだ! セオドア! いい加減目を覚ませ! お前はその婚約者様に騙されてるんだ! お前にはオリビアがいるだろう? 彼女はオリビアに嫌がらせをして悲しませて楽しんでた最低な女性なんだ! お前も知っているじゃないか!」


ジャックは柳の胸倉を掴んだ。


「オリビアが可哀そうだ! いきなり突き放されて! オフィーリアに何を拭き込まれたか知らないが、全部嘘だ! 嘘に決まっている! だから早く戻ってこい!」


そう喚きながら柳の体をユサユサ揺らした。


「騙されるな! セオドア!」

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