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帝都パギンドゥより南は情勢が複雑だった。反皇帝派の貴族たちが、北の解放軍の蜂起に呼応して反旗を翻し、各地で皇帝派の貴族たちと争っていた。その争いは帝都が陥落した後も続いているようで、リシェルたちの旅路の最中でも、兵たちが衝突する光景を何度も目撃した。
皇帝ゾギアは皇帝派の貴族に匿われているのではないか、とリシェルは指摘したが、ドライスがそれを一蹴した。
「ありえんな。現状、反皇帝派の勢いが強く、皇帝派の連中は押される一方だ。もし皇帝が皇帝派に匿われているなら、皇帝は各地の士気を上げるために所在を明かして、声明の一つでも出すはずだ。今のところ、そのような報せは何処からも聞こえない。だから、皇帝は俺たちと同じ、誰にも見つからないように身を隠して逃げ続けていると考えるのが自然だ。それに、だ。帝都を自ら手放して、剰え味方諸共破壊しつくす奴が、今更自分の家臣に縋るようなことをするとは思えん。故に皇帝派に匿われている、または匿われようとしているという線で追うのは無駄だと断言する」
リシェルに反論はなかった。納得できる部分は多かったし、難癖付けさせまいとする迫力が言い終えたドライスから感じられたからだ。
そういう理由で皇帝派と反皇帝派との争いに近付く理由はないとし、リシェルたちは密かに南下を続ける。廃村を発って三日経った夜、林冠の薄い森の中でドライスを見張りにして、リシェルは眠りに就こうとした。梢から見える星をぼんやりと眺めてから、目を閉じようとする。その時、頭の奥の奥、遥か遠くの何処かと違いない部分で一粒の砂くらいの暗い気配がぽつりと落とされる感覚を得た。
リシェルは跳ね起きて、その気配を見失わないように意識を集中させる。その様子をドライスは黙って見守る。焚き火が爆ぜる音だけが静寂を妨げるが、リシェルにはさして問題とならなかった。息をすることすら忘れて、気配を追いかける。
形は曖昧で、誰のものなのかは分からない。それでも、魔の気配であることは明らかで、光の弱い星のように頼りなく、少し目を離せば見失ってしまう貧弱な気配だった。その気配を手繰って、手繰って、手繰り寄せて、それがある方角を見つけ出す。
薪が大きく弾けた。リシェルは息を細く吐き、夜空を仰ぐ。今夜は本当に星がよく見えるな、と思った。
「見つけました」
ただそれだけを呟いただけだが、ドライスは理解した。
「何処だ?」
リシェルは指でその方向を指し示す。気配は小さいが、遠くはない。その場で留まったままで大きな動きもなかった。
「動いていないので、追いつくのなら今しかないかもしれません」
「急くなよ。馬を休ませてやる時間は必要だ。明朝に発つ。気配はまだ感じるか?」
「はい」
気を逸らしたら何処かへ消えていってしまいそうなほど小さな気配。絶対に手放してはならないと、意識を集中させたまま夜を過ごした。寝ずに夜が明けたが、眠気はなく、体に重さもなかった。
支度を手早く済ませて、リシェルたちは出発した。気配は昨夜から変化はない。リシェルが先導役となり、気配のある方へと馬を走らせていった。近付いているのは感じるが、魔の気配は不明瞭な形を保ったままだ。全く明らかにならないことを不審に思いつつも、街道を駆けていく。
道は頂上が平たい台地のような丘に続いていた。その頂上の一端に気配はあった。リシェルは、はたと止まった。なだらかな傾斜の草原の丘が、既視感を覚えさせる。まさか、と驚きで戸惑っていると、ドライスがリシェルの隣に馬を並ばせる。
「あの先にディアがある」
やはり、そうだった。魔の気配を辿っている内に、故郷に来てしまったようだ。あの丘の先に故郷があり、祖母がいる。目前に帰るべき場所があるというのに、リシェルは素直に喜べなかった。
「行きましょう。気配は丘の上にあります」
心が浮つくのを感じ、己を律するようにそう言った。今は魔の気配にだけ集中していなくてはならない。救うべき人を救って、何一つ憂いを持たずに帰還を果たしたいから。
今度こそ、ゾギアと決着を付けなくてはならない。強大な力を持つ魔剣の力に打ち勝つには、心の隙を作らないことが重要だ。邪悪な皇帝を倒してマシティア帝国との戦いに終止符を打つために、そして乱心のミーナを救うために、進まなければならない。
街道から外れて、丘を一気に駆け上がっていく。頂上に着いて見下ろすと、小高い丘に囲まれた町が一望できた。リシェルは一目見ただけで、すぐに目を逸らし、魔の気配の方へと視線を向け直す。そこにも記憶に残っているものがある。遠目に映る石造りの廃墟。幼少の頃、あの中に入ろうとする友人たちを諫めたことが思い出される。
廃墟から感じる魔の気配は小さく、儚ささえ覚えるものだった。ゾギアが持っていた魔剣の気配で違いはないが、剣の形を捉えられない。近付いてきたのに依然として曖昧なままで、はっきりとした形として感じることが出来なかった。
リシェルたちは丘を駆けて、廃墟を目指す。心地よいと感じるべき穏やかな風は毒気を帯びた空気を運び、不快感を覚えさせる。この淀んだ空気も、跋扈する魔獣も、リシェルが知っている故郷にはなかったものだ。それを齎したのは、あの魔剣なのだろうか。だとしたら、どこから魔剣が持ち込まれたのか。
ゾギアから死を売る商人と呼ばれていたディルク。その名称の意味を考えれば、ディルクが魔剣を持ち込み、マシティアを死に満ちた国に変えたのだろうか。幼少期に出会った赤い爪の男もディルクの仲間だとしたら、彼らの目的は何なのか。人の命を弄べるだけ弄び、一国を恐怖と混沌で溢れさせることで、何を得られるというのか。
それを考えたところで、酌量の余地はない。魔の神器の力を我欲によって使い、人々を苦しめた罪を償う義務がディルクにはある。当然ゾギアにもあり、ミーナもまた、己が犯した問われることになるだろう。
廃墟が目前に迫る。捨て置かれて原型のない古の家屋の跡をリーンは跳ねるようにして飛び越していき、形を保つ石造りの建物の前で止まる。入口に掛けられた暗黒の垂れ幕は幼少の頃から変わっていない。しかし、その奥には魔の気配が息を潜めて佇んでいる。
立ち入りを禁じられた廃墟に、自分が入ることになろうとは不思議な因果だ、とリシェルは感慨を覚えた。リーンから降りて、遅れているドライスの馬を待つ。その間、腰帯を外してローブを正した。
旅立ちの時には純白だったこのローブも、泥や血が染み込んでしまい、元の色には戻らなくなっていた。長い旅だった。決して順風なものと言えなかった。辛く苦しい思いもしてきた。それでも挫けなかったのは、胸に宿るマリーの意志が前に進む階となってくれたからだ。聖神アルテナの剣も大きな支えとなり、自分が正しいと思える選択をして戦い続けることが出来た。何の力もない、ひ弱な自分が此処まで来ることが出来たのは、彼女たちのおかげなのだ。
リシェルはアルテナの剣を鞘から少しだけ出して、白銀の刃に映る己と見つめ合う。この旅で自分一人で成し遂げたことなど一つもない。アルテナの剣が守ってくれて、マリーが背中を押してくれて、誰かが助けてくれた。出会いに恵まれた旅だった。自分が人より優れているものがあるとしたら、こういう部分を指すのかもしれない。刃に映る自分にさえ、笑みを向けてもらえる。
己と微笑みを交わした後、リシェルは刃を納めて鞘を腰帯に戻す。ドライスとロコロタも傍に来ていた。ドライスは剣と弓矢を準備し、膨らんだ布袋と松明をロコロタに押し付けた。
「最低限のことはやってもらうぞ」
ロコロタは嫌がる様子もなく、それを受け取る。
「英雄リシェルの物語の結末を最前で見させてもらえるのですから、これくらいお安い御用です。いざ、参らん。悪逆の皇帝ゾギアとの決戦の時です!」
高揚するロコロタに急かされるようにして、リシェルは暗黒の垂れ幕を潜る。屋根は完全に日光を遮っていて、中に入っても何も見えない。しかし、真正面で魔の気配が鎮座して待っているのは分かった。
ロコロタが松明に火を点ける。明かりがあっても、全てを照らし切れない。正面には人の影が浮かび上がり、それが剣を抜く。魔の気配が剣から噴き出し、巨大な手となって天井を殴る。
一点、穿たれた穴から光が射すと、それがじわじわと広がっていく。光と共に落ちてくる瓦礫はリシェルたちの所まで波及する。リシェルは咄嗟にアルテナの剣を抜き、防壁の力を行使して自分とドライス、ロコロタに防壁を纏わせた。
瓦礫が巻き起こした土埃が充満する。ぽっかりと開いた天井からの光は茶色く濁り、晴れるまで闇にいるのとさして変わらなかった。リシェルは辺りに落ちた瓦礫を払い除けながら、土埃の奥にある人影を凝視した。
その姿が徐々に露わになっていく。魔の気配を放つ剣を手にして冷酷な視線を向けてきたのは、ゾギアではなかった。予期しない人物が明らかとなり、リシェルは絶句した。
「よく来たな、真紅の聖女様」
黒い石を切り出して作られた台座のような物に腰を掛けながら、ミーナはそう言った。その傍らに、血に塗れた男が倒れている。仰向けであったがために、誰なのかが明瞭だった。身動きすらせず、息をしている様子さえない、土気色をした男こそ、怨敵であるゾギアだった。
リシェルの視線がゾギアに移ったことに気付いて、ミーナは魔剣の先でゾギアを突いた。
「どうだ? あたしが殺したぞ。お前が殺したくて殺したくて堪らなかった皇帝を、あたしが殺した。あたしなんかに先を越されて悔しいか?」
リシェルは首を横に振り、声を詰まらせながら言葉を返す。
「トゥーダさんを襲って、ゾギアを殺めて、貴方が何をしたいのか、分からない。何が不満で、こんなことをしてしまったのですか?」
「そう、分からないか。本当に、つくづく腹立たしい奴だ。じゃあ、次は誰を殺してやろうか。そこの御供を殺せばいいか? その後に故郷の婆さんを殺してやろう。そこまでしたなら、絶望してくれるか? 自分が愚かだったと、こんな小娘に情など掛けなければ良かったと認めて、後悔を残しながら死んでくれるよな?」
魔剣の切っ先がゾギアの体から滑り落ちる。同時に魔の気配が増幅し、魔手へと形を変化させる。膨らみ切る前に突き出されたそれは、揃った指先をリシェルに向けて貫こうとしてきた。
リシェルは鋭く尖った指を胸の前で受け止めると、防壁の力を行使して弾き返す。弾かれた魔手はミーナの下まで吹き飛ばされ、ぶつかる間際に消失した。
「やめてください! 貴方と戦うために此処まで来たんじゃないんです!」
悲痛の混じった叫びでリシェルはミーナに訴える。だが、その声は届かない。ミーナは再び魔手を作り出し、攻撃を仕掛けようとしていた。
「今のが魔剣から出てくる手の攻撃か? ちっとも目に見えたもんじゃないな」
ドライスが剣を抜き、リシェルの前に出てきた。
「状況が飲み込めないのは割り切れ。目の前で起きていることにだけ専念して知恵を振り絞るんだ。ああいう頭に血が上ってる手合いは、力尽くで大人しくさせるしかない。話がしたいのなら戦え。魔剣さえ奪えば、奴さんもお前の声に耳を傾けずにはいられないだろう」
ドライスの言葉はリシェルに冷静さを取り戻させた。一先ずは、ミーナから魔剣を奪取することを考えなくてはならない。心苦しいが、力で屈服させなければ話に応じてくれる様子ではなかった。ミーナの全身を魔の気配が這って伝っている。魔剣から溢れるそれを取り除いて、思いを届かせよう。
リシェルは剣に纏わりついていた魔手の残滓を払い落して前に踏み出す。既に完成している魔手が拳を握りしめて、ミーナの頭上からリシェルとドライスに目掛けて向かってきていた。気配を感知できないドライスが魔手に突撃していこうとする。
アルテナの刃が静かに鳴き、防壁の力がドライスに授けられる。魔手と防壁が激突したものの、互いに拮抗して弾き合う。魔手は消え、ドライスは後方へと吹き飛ばされてしまった。地面を転がるドライスだったが、防壁が衝撃を和らげてくれたので怪我を負わずに済み、転がる体を自力で止めて、すぐに立ち上がった。落とした剣を拾いつつ、リシェルに駆け寄ってミーナを睨む。
ミーナは休む間もなく魔の気配を凝集していく。ゾギアと戦った時と同様、防壁の力は魔手を防げるものの、体勢を崩されてしまって攻撃に転じる暇がない。魔剣の力とアルテナの力は互角であるようだ。魔手が無限に生成されるのならば、防壁を消耗するリシェルが劣勢になる。力と力のぶつけ合いに応じても、リシェル側には得がない。考えるべきは、魔手にどう対応するか。アルテナの剣を汗の滲む手で強く握りながら、リシェルは思案する。
ミーナの持つ魔剣を眺める。同じ剣でも性質は正反対だ。その性質が欠けた状態ならば、剣と剣を交えるだけで済むのに。剣での戦いならば、ドライスから学んだ剣術でミーナを傷付けずに無力化できる。
例えば、と想像を始めた途端、妙案が浮かんだ。剣で出来ることを防壁の力でやれば良いのではないか。単純に魔手を受け止めるのではなくて上手く受け流してしまえば、自身に掛かる負担を軽減させられるのではないかと思った。
刃を受け流す術は訓練で何度か教えてもらった。だが、アルテナの剣の性質上、刃が交わった瞬間に相手の刃が折れてしまうので、今日に至るまで実戦で試したことはない。その訓練自体もマシティアに入ってから行う機会はなくなったし、神器の力が作用する戦い方を念頭に置いた訓練しかしなくなったので、体が覚えきれてもいない。その何も残っていない剣の感覚を神の力へ応用するとなると、あまりにも未知数であり、リシェルも絶対の自信を持って挑むことは出来なかった。しかしそれでも、神の力を打ち破るには未知数の術に頼るしかないという窮地に立たされていた。
「下がっていてもらえますか」
リシェルは魔手を見据えたまま、ドライスに言う。
「私の後ろで待っていてください。魔手をいなしたら、一緒に飛び込みましょう」
「やれるんだな?」
「はい」
リシェルが短い返事をすると、ドライスは何も言わずに後退りをしていった。リシェルの視界に映るのはミーナと悍ましい魔の気配だけになった。その魔の気配は巨大な手となり、標的を死に至らしめんとして細かく震えながら握り拳を作る。
アルテナの剣から防壁の力が流れてくる。あらゆる外敵から否応なく身を守ってくれたこの力を、自分の体の一部として操ろうと試みる。体の表面を覆う薄衣のようなそれは、絶えず流動して、方向を定めながら一定の速さを保って循環していく。
リシェルはこの流れに意識を集中させた。自然に流れる防壁の力に指を入れる感覚。その指を左右に揺らせば、それに応じて流れも揺らぐ。激しく揺らしたり、乱暴にかき混ぜてみたりしても防壁に穴は生まれなかったし、崩れることもなく、その指に従って流れが変わるだけで済んだ。
この流れを一方向に強く、早くすることが出来れば魔手を逸らせるかもしれない。リシェルは意識を防壁の中に閉じ込めたまま、間もなく放たれるであろう魔手を漠然とした意識で眺める。肥え切った魔手はミーナが剣を振ると同時に、凄まじい勢いで突っ込んできた。
魔手の一撃をリシェルは真正面から迎える。防壁に魔手がぶつかり、リシェルの体は僅かに仰け反る。足にふんばりを利かせながら、防壁越しに魔手の力を読み取ろうとする。刃で刃を受けるのと同じ、相手の力の向きに対して無理をせず、逆らわずに、己の刃と力を一気にずらす。
防壁の流れを変える。激しい圧力を伴って防壁が歪み、それに沿うようにして魔手がリシェルの真横へと流れていった。瓦礫に突っ込んだ魔手はそのまま、静かに霧散した。
「今です!」
間髪入れずにリシェルはミーナに詰め寄る。号令が掛かってから動き出したドライスだったが、リシェルの前に素早く出て、先にミーナと対峙する。魔剣から感じる魔の気配は薄い。魔手を生成するにも間に合わないのは明らかだった。
ドライスはいつの間にか持っていた瓦礫の欠片を、ミーナに投げつけた。特段速さもない投擲をミーナは魔剣で払う。刃が瓦礫を捉えると、弾き落とされる前に瓦礫は粉々に砕けて消失した。それを見るや、ドライスはミーナが魔剣を握っていない左手側に回り込み、剣の柄頭で後頭部を打とうとする。
打つ寸前、魔剣から魔の気配がドライスに伸びた。赤子のような小さな手がドライスの首を掴んで押し倒した。リシェルは剣先をミーナに向けていた。あとほんの少し剣を振りかぶるのが早ければ、魔剣を叩き落せていたかもしれない。ミーナは鋭い視線でリシェルを刺し留めた。
「こいつを絞め殺されたくなければ、分かるよな?」
ドライスは不可視の手を剥がそうとするが、掴めずにすり抜けてしまうので抵抗が出来なかった。小さな魔手は魔剣から吐き出される魔の気配を取り込み、少しずつだが徐々に大きくなっていた。
リシェルは剣を下ろすと、「ごめんなさい」と呟いて投げ捨てた。それを見て、ミーナは更にリシェルへの眼差しを強める。
「なぜ斬らなかった。あたしがこいつを殺す前に、お前があたしを殺してしまえば済むことだろう。魔の気配が見えているのなら、尚更まだ猶予があると分かっていたはずなのに」
「ミーナさんを斬るなんて出来ませんよ。ドライスさんと同じくらい、ミーナさんが大事なんです。どちらも救うとなれば、剣を捨てるしかありません」
「この期に及んでまだそんなことを言うのか。どれだけ聖人を気取っていたいんだ? あいつみたいに、マリーみたいに綺麗事を都合の良い様に並べて、へらへら笑っていれば、救えるものがあると本気で思っているのか? あいつはあたしと父さんを救ってくれやしなかったんだぞ!」
突如、魔の気配が一気に溢れ出してミーナの頭上に集まる。ドライスに食らいついていた魔手も引き寄せられて気配の一部となった。雷雲のような気配の集合体はやがて黒と灰色が混じったおどろおどろしい皮膚に覆われた手となり、皮膚の下の赤黒い血液が透ける掌を見せて、澄んだ青の空に浮かんでいた。
「お前があたしさえも望んで救おうというのなら、それも壊す。何もかも全てを壊されて、諦めてしまえ」
宙に釣られていた魔手が落ちてくる。力なく、意志も見せず、ただミーナの真上に、リシェルとドライスをも巻き込もうとしながら落下してきた。
「リシェルさん!」
ロコロタの声でリシェルは魔手から目を離す。その姿を確認する前に剣が放り投げられてくる。柄を上手く掴むと、もはや慣れてよく馴染む感覚が体に行き渡る。それを刃の音なき響きとして波及させてミーナとドライスにも分け与えようとした。
ドライスの体は音が捉えて防壁で包まれた。だが、ミーナは捉えずに素通りしていってしまう。その原因を解明する猶予はない。リシェルは自身の防壁に先程と同じようにして手を加える。
影を大きくして迫る魔手の落下に、リシェルの機転が間に合った。体を巡る防壁をアルテナの剣に流して、全てを刃に集約させた。その刃を天に向けて掲げて、魔手を迎え撃つ。
短く細い剣が、巨大な魔の手を受け止める。切っ先の一点に流れる防壁の力に魔手は阻まれて目標を押し潰せずにいる。だが、それを助ける力があった。ミーナの魔剣から魔の気配が止め処なく溢れて、魔手と混じり合っていく。
リシェルはアルテナの剣を両手で支えたまま、ミーナを見る。ミーナは魔剣を握りながら両手と両膝を地面について、大きく肩で息をしていた。ふと上げた顔は、目と鼻、そして口から黒い血のような液体が流れて地面に滴り落ちていた。黒く濁った瞳は憤怒を滾らせてリシェルを睨みつける。
魔手の重さが増していく。防壁が削られてリシェルに掛かる負担が大きくなる。リシェルは体に残るありったけの防壁を刃に送り込んで耐えようとした。足りなくなってもアルテナの剣から防壁を引き出して、刃に送り続ける。魔手も魔剣から力を吸い取り続ける。ミーナは苦しそうに悶えるが、決して魔剣から手を離そうとしなかった。
苦痛に満ちた姿を見せるミーナを見て、リシェルは理解した。魔手はミーナの怒りと憎しみが形となっているのだ。差し伸べられた希望に対する拒絶と否定を己が生命すらも注ぎ込んで示している。ならば、答えなくてはならない。どれだけ拒絶されても、否定されても、ミーナを救いたいという気持ちが心の底から湧き上がっていることを。
アルテナの剣が高らかに鳴く。防壁が厚みを増して、魔手を押し上げていく。魔手も更に力を強めて防壁ごと全てを押し潰そうとする。聖と魔の奇跡は苛烈に衝突し合い、互いに限界に臨んだ瞬間、誰の耳にも聞こえる刃が弾けるような共鳴を起こして、消えた。
リシェルは腕をだらりと下ろした。上空は雲一つなく、温かな日差しを送る太陽だけがある。そこにあった魔手はそれそのものが初めからなかったかのように、跡形もなく消え失せていた。魔の気配は完全に絶たれた。魔手だけでなく、魔剣からも。
リシェルは剣を納めてミーナの前に膝を折る。ミーナは倒れ伏して動かなくなっていた。魔剣は握ったままだったが、そこからは魔の気配が全く感じられなくなっていた。肩を揺すって意識を確かめるが、反応は返ってこなかった。
ミーナの顔には黒い液体がこびり付いていた。リシェルはそれをローブの袖で拭ってやり、汚れの消えた顔を見る。怒りも憎しみもないその顔から、漸くマリーの面影を認めた。
「まだだ。気を抜くんじゃない」
ドライスがそう言って、周囲を警戒する。リシェルは切れてしまった集中力を取り戻さなければならなかった。魔剣を打ち負かして終わった気でいたが、まだ魔の力を持つ者が残っていることを、ドライスが思い出させてくれた。
ディルクは何処かにいるはずだ。リシェルは目だけでなく、気配にも注意を払う。魔の神器の力だろうか、ディルク自身の視認が遅れることを経験している。魔の気配とディルクの姿は忽然と現れる。その一瞬を逃してはならない。柄を握る指に力が入る。瞬きも呼吸も忘れて、空気の変化を待った。
遠くから迫ってくる魔の気配を感じる。一つではなく、いくつもの気配が凄まじい速さでこの廃墟に向かってきている。リシェルはすぐにそれが魔獣のものだと分かった。マシティアに来てから何度も戦ってきた犬型の魔獣の群れだ。最早、この魔獣がディルクが差し向けたものであることは明らかであり、今までのそれもディルクの手先であったことも判明した。魔獣たちに紛れ、隙を突いて攻撃してこようというのだろう。
「魔獣が来ます。大きい犬のようなものが、八匹」
ドライスは廃墟の入り口を見遣った後、視線を穴の開いた天井に向けた。リシェルも同様に天を仰ぐ。魔獣たちは壁を駆け上り、空を映す穴から降ってきた。感知した八匹全てがそこから現れたわけではない。二匹はまだ外にいて、何かに阻まれている。リーンがその二匹を請け負ってくれていると分かるのに時間は掛からなかった。外からはリーンの勇ましい嘶きが聞こえていた。
残りの六匹がリシェルとドライスの相手となった。魔手との攻防で、防壁の力はほとんど使い切っていた。魔獣全てをそれに頼って戦おうものなら、途中で使い果たしてしまい、無防備な状態をディルクに狙われてしまうだろう。防壁をディルクとの戦いに備えて温存しなくてはならず、己の剣術だけで魔獣たちを倒すことを強いられたが、リシェルに恐れはなかった。真っ先に降下してきて襲い掛かってくる一匹を、剣を抜き放ちながら斬り捨てると、刃を返して次に来た魔獣を仕留める。
二匹の犠牲を経て、残りの四匹は動きを鈍らせた。素直に突っ込んでくることはなく、リシェルたちを窺いながら周囲をゆっくりと巡る。魔獣たちはそれぞれ四方に散って、取り囲む陣形を作ると、牙を剥き出しにしながら攻め時を待っていた。
「あと二匹の姿がないぞ」
ドライスはリシェルと背中合わせになるように位置取って、背中越しに聞いてきた。
「リーンがやってくれています」
外の魔獣の気配が一つ潰えた。もう一つも相当に弱まっている様子だった。それを気にする必要はなくなり、あとは目に見えている魔獣たちと、機を待ち潜むディルクに用心すればいい。リシェルはディルクに聞かれまいと密やかな声でドライスに策を告げた。ドライスは無言で頷き、剣を構えたまま魔獣の動きを目で追い続けた。
魔獣たちはじりじりと距離を詰めてきた。リシェルは正面にいる魔獣に向かっていき、自ら攻撃を仕掛ける。途端に魔獣たちは駆け出し、四匹全てがリシェルに飛び掛かってきた。正面の魔獣はリシェルの剣が機先を制して、一振りで斬り伏せられた。残りの三匹は隙が出来たリシェルの背後と左右から息を合わせて襲い掛かった。
魔獣の牙はリシェルに届かなかった。防壁の力によって魔獣は弾き飛ばされて、壁や地面に体を打った。すぐに起き上がった一匹の目の前にドライスが立つ。ドライスは手に持つ長剣で魔獣の脳天を幾度も叩いて絶命させた。
残りは二匹となった。リシェルは翻って、壁に叩きつけられて動けなくなっていた魔獣へと駆ける。一つの慈悲もなく魔獣を斬り殺すと、素早く反転して急襲に備える。視線の先ではドライスが最後の魔獣と戦っていた。ドライスは牙と爪を鮮やかに躱し、刃を魔獣の喉に突き刺した。
刃が根元まで入ると、魔獣は虚しく足掻いた後に息絶えた。ドライスは死んだことを認めて、剣を引き抜こうとしていたが、何かが引っ掛かったのか上手く抜けずに手間取っていた。足で魔獣の喉を押して両手で抜こうと体勢を変えた、その時だった。
ドライスの背後に魔の気配を予兆として、ディルクが出現した。魔を宿す短剣を逆手に持って、ドライスに突き刺そうとする。まさしくこれこそが、ディルクの求めていた隙だろう。だが、その刃はドライスに届くことはなかった。
短剣が音を立てて弾かれる。ディルクも体を仰け反らせて後退りをする。ドライスは魔獣から剣を引き抜いて、その勢いのまま体を反転させて刃をディルクに向ける。何が起きたか分からないディルクは縺れる足でドライスから離れていく。
ドライスには授けた防壁が残っていた。それを盾としてドライスに囮になってもらい、わざと隙を作ってディルクを誘き出した。見事に策は的中し、ディルクは何も成し遂げられずに白日の下に晒されることになった。
「観念しろ、とは言わない。お前があの娘を唆してゾギアを殺めさせたのだろう。ファルーナから此処までちょろちょろと俺たちの邪魔ばかりしてくれたんだ。それも含めて、責任は取ってもらうぞ」
リシェルとドライスはディルクに詰め寄る。動揺しているためなのか、短剣からは魔の気配が滔々と漏れ出ている。リシェルは気を緩めずに、ディルクの細かな振る舞いと気配の揺らぎを注視した。そうして一切の油断を排除しつつ、ディルクを問い詰めた。
「私は幼い頃、このディアで人攫いに遭いました。その人攫いも貴方と同じ、赤い爪をしていたのです。その所業も踏まえれば貴方と無関係でないことは明白です。貴方たちはいったい何者なんですか? 何を目的として人々に不幸を振り撒くのですか」
ディルクもまた、緊張を保っているようだった。ドライスを視線で牽制しつつ、言葉だけをリシェルに向ける。
「難しい理由などないがな。死を売ることを生業としている、ただそれだけのこと。我々が生きていく唯一の道に、貴様のような存在が邪魔だから消さねばならなかった。この説明で分からないのならば、とても簡単な例えを提示しよう」
そう言うと短剣を持っていない方の腕を前に突き出して、拳を開く。掌の上には小さな円形の銅貨が乗っていた。その銅貨を指に挟み、器用に指だけで回して両面をリシェルに見せる。両面共に何か絵柄が彫られているようだったが、ファルーナでもマシティアでも、このコインを見たことはなかった。
「コインの表裏を決めるのは誰だと思う? コインを作った奴だなんてつまらない答えは用意していない。こいつを思い切り弾いて、地面に落ちた時に空を見上げられた面が表なんだ。そういう仕組みがこの世界では平然と成立して、疑問を抱く者などいない、いや、抱かせないようにしている奴がいるという、たったそれだけのことだ。我々は神などという存在に振り回された挙句、表裏を運命などという言葉で飾り立てられて承服することを強要されているのだ」
ディルクは銅貨を指で弾いた。激しく回転しながら天に高く舞い、与えられた力を失う高さに到達すると、回転を維持したまま落ちていく。落下した先には瓦礫の破片があり、銅貨はそれに当たって軌道を変える。リシェルはそれを目で追ってしまったがために、反応が遅れた。
短剣から感じる魔の気配の強さに気付いた時には、ディルクは眼前に迫っていた。リシェルは咄嗟に防壁の力を行使するも、先程使ってしまったが故に僅かな守りしか用意されなかった。アルテナの剣そのものでも短剣を防ごうとするが、それらを合わせても魔の力が遥かに勝っていた。
アルテナの剣が弾き落とされた。防壁の力も魔の力に打ち消され、無防備なリシェルを凶刃が襲う。死を想起する間もなく、胸に迫る短剣を見つめる。だが、それが命を絶つ極めて短い間断を異質な魔の気配が遮った。
小さな魔手がディルクの頭を掴み、地面に打ち付けた。掌をいっぱいに広げて、指でこめかみから額までを握っている。地面に押し付けながら指にも力を込めていて、ディルクは悲痛な絶叫を上げて藻掻いた。
硬質な木材が割れるような渇いた音が鳴った。叫び声は掠れて、徐々に消え失せていく。激しく動かしていた体も異常な痙攣を最後に、全く動かなくなってしまった。手からは短剣が零れ、虚しい音を立てて地面に落ちた。
魔手はディルクが動かなくなると同時に溶ける様にして消えていった。リシェルは腕のように伸びる魔手の軌跡を目で追う。その腕は倒れ伏すミーナから伸びていた。意識がないはずのミーナが助けてくれたのか。若しくは、リシェルの思惑を阻害しようと自分がディルクを殺そうと思っていたのか。ミーナの傍らに跪いて顔を見ても、瞼を重く閉じたままだった。体の力も抜けているのに、魔剣を握る手だけは頑なだった。
「起きたら、必ずお礼を言わせてもらいますからね」
リシェルはミーナの頬を優しく撫でた。
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