解放軍が駐留する場所からリーンを走らせる。さめざめと降る雨と夜の闇に紛れて、リーンの白い体は朧になる。馬上にはリーンの主であるリシェルが手綱を握り、ミーナが背中にしがみついている。

 天幕の見張りの気を引いている内にミーナを外に逃がし、誰にも気付かれることなくリーンに乗って駐留地を脱することに成功していた。聖獣たる白馬は雨にぬかるむ地面も宵闇も苦にせず、リシェルの手綱に従って駆け続ける。

 帝都パギンドゥからは城とその城下の明かりが堅固な隔壁の内側から漏れて見える。解放軍の駐留地はもう見えていない。帝都の壁を左手側にしながら走って南下しているということだけをリシェルは確かなものとしていた。

「止まって」

 ミーナの言うままに、リシェルはリーンを止めた。よく見えないが、走ってきた道程からして何の変哲もない草地にいるのは分かる。ミーナはリーンから飛び降りて、辺りを探る。リシェルも降りて、ミーナを見守る。闇の中に姿を見失わないように、動き回るミーナにぴったりとついていった。リーンも主人が何も命ぜずとも勝手にその後を追っていた。

 膝をくすぐる高さの茂みに入り、そこでミーナが立ち止まる。がさがさと音を立てながら草を掻き分けるミーナをリシェルは背後から見ていた。暗闇に慣れていたはずの目が、茂みを掻き分けて広がった闇の全貌を捉えられなかった。

 ミーナはぽっかりと開いた闇の洞を見下ろす。片足を闇の中に沈ませると、前に進む度に体が闇に飲み込まれていった。

「馬は此処まで。此処から先はお前とあたしだけで行く」

 リシェルはミーナに腕を掴まれて、闇の中に引っ張られていく。振り返り、リーンに慌てて言葉を残す。

「大丈夫だから、待っててね」

 リーンがそわそわしていて居た堪れなかったが、連れていけない理由を肌で感じる。この闇の圧迫感ではリーンが通れる空間がないことが分かった。リーンを残し、冷たい暗黒の中をミーナに導かれて進んでいく。

 下りが続く道は何も見えなかったが、これに近しい場所を記憶していた。グラネラの魔獣が潜んでいた洞窟、またはランベルの坑道。それらのような息苦しい通路を進んでいるようだ。

 完全なる闇が支配する通路をミーナは止まることなく進む。リシェルの手首を強く握り、歩調も合わせずに早足で進むので、リシェルは何度も躓きそうになった。長い道程だったが、どうにか転ぶことなく深淵を抜けることができた。雨の匂いが蘇り、窮屈な感覚も消えた。

 薄闇が映す光景ははっきりとしない。建物なのか壁なのか、よく分からない建造物の隙間に出て、その細い路地をミーナは突き進んでいく。もう手は離されていて、リシェルを置いていく速さで先へ行く。リシェルは急いで追いかけていき、その背に追いついた所で路地から抜けた。

 足元はぬかるんだ地面から雨に濡れて滑りやすくなった石畳に変わった。視界が開けて、リシェルは辺りを見回すと、すぐにそれが目に付いた。仄かな光を放つ巨大な城が、夜の雨雲を背景にして浮かび上がっていた。帝都パギンドゥの城。駐留地で見ていた時よりも大きく、近く感じられた。

 リシェルは自分がパギンドゥの中にいることに気付いた。よく目を凝らせば、周囲には背の高い建物がいくつも並んでいる。だが、不可解なことに人がいる様子を感じられない。建物の一つに近付いてみると、戸や壁は亀裂や破損が目立ち、窓にはガラスが張られているのに、割れてしまったまま放置されているようだった。

「安心しろ。この辺りは皇帝の息が掛かってる奴はいない」

 というよりも人が住んでいる様子すらない、とリシェルはミーナの言葉を受けて思った。

「此処は本当に帝都なんですか? 皇帝のお膝元だというのに、あまりにもうらびれています」

 他の建物も外観は立派な作りをしているが、欠損が目立つ。中で暮らしている人がいるのか疑問に感じた。

「汚らしいのはこの辺りだけだ。帝都のほとんどの場所ではマシティアの腐敗だとか化け物だとかとは無縁の連中が、民から搾り取った血税で優雅な生活をしている。此処は帝都にあって唯一の例外。捨て犬街と呼ばれてる、掃き溜めだ」

「捨て犬?」

「そうだ。ほら、丁度その捨て犬がお目見えだ」

 リシェルはミーナの視線を辿る。建物の戸が開き、人影が外に出てくる。明かりを持っているらしく、人影はそれと共に近付いてくる。人影が襤褸の外套を纏った男だと分かる距離にまで近付くと、ミーナはそれに向かって頭を下げた。

「ミーナか? どうして此処にいる?」

 明かりで浮かぶ顔から、壮年の男だと分かる。男はミーナとリシェルの顔を交互に見た。

「まさか、其方は……」

「積もる話もありますが、先を急いでおります。ミゲイル殿、抜け道を使わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「私にそれを決める権限はないだろうに。使いたければ使いなさい。しかし、どういうことだね。その子は真紅の聖女ではないのか?」

 リシェルは体を強張らせた。自然な動きを装いながら、剣の柄に指を掛ける。

「ええ。聖女様はこれから皇帝を討ちに行くのです。捨て犬の皆様にとっても、自分たちを不当に貶めた悪帝が失墜するのは本望でしょう?」

「無茶だ。奴と斬り合おうというのなら止める。ミーナに危険が及んでしまったら、トゥーダに顔向けできない」

 指に込めた力を緩める。リシェルはミーナとミゲイルという男の会話に耳を傾ける。

「あの御方は私に何の情も抱いていないでしょう。そうでなければ、私を囮にして自分だけ助かろうなどしないはずですから」

「違うのだよ、ミーナ。トゥーダから聞いた。ミーナに逃げる時間を稼がせること、それが目的ではなく、ミーナを解放してやることがトゥーダの真の目的だったのだ」

 察するにトゥーダというのはイルヴァニスのことを指しているようだ。リシェルはより注意深く二人の話を聞く。

「意味が分からない。私はイルヴァニス家に仕えることで生き永らえていたのに、その当主から暗に死ねと命じられて、何が解放だというのですか?」

 淡々とした物言いだが、語気に微かな強さが感じられた。

「トゥーダはお前がいつまでも心を開いてくれないことを憂いていた。食べる物も着る物も不自由ない生活を与えても、喜ぶ様子を見せてくれない。従者ではなく子として迎えようとしても、それを受け入れない。子供なら子供らしく生きてほしいのに、ミーナは人形のように表情を変えない。その原因が己にあるとトゥーダは考えた。皇帝の忠実な僕である自分を見て、ミーナもそれに倣っているのだろうと。だから、自分の傍にいるべきではないと思い、お前に囮を命じて、その身をイルヴァニスの鎖から解き放ったのだ」

「……あの人の思惑通りということか」

 ミーナはそう呟いた後、少し間を置いてから再び口を開く。

「ならば尚更、私に関わる意味はないでしょう。私はもうイルヴァニス家とは何の所縁もないんだから」

 ミーナはリシェルの手を強く引いて、ミゲイルの横を抜けていく。リシェルはすれ違いざまにミゲイルの顔を見た。やつれたその顔に悲嘆の色が窺える。見えたのはその一瞬だけで、ミゲイルはすぐにミーナに並んできた。説得の言葉を投げかけるが、ミーナを完全に無視して、足を速めて進んでいく。

 薄闇の道から廃屋のような建物の中に入っていく。朽ちかけた木造のその建物は内部も黴の臭いが充満し、埃も相まって息苦しかった。入って目の前にある階段は床が抜けていて、上に行けそうにはない。階段の横から真っ直ぐ伸びる廊下を進んでいる間も、ミゲイルはついてきていた。もうミーナを説得しようとはしなかったが、不安な表情でミーナの背を見ていた。

「あの」

 ミーナはもうリシェルの手を放していて、リシェルは最後尾からミゲイルに声を掛けた。

「ミーナさんに危険なことはさせません。城内まで案内していただいたら、引き返させます。その間も私が守りますので、安心してください」

 振り向いたミゲイルの顔は険しかった。どうとも返事をしないミゲイルに気まずさを感じ、話を変える。

「ミゲイルさんは、ミーナさんとはどういう関係なのですか?」

 それにはミーナが答えた。

「ミゲイル殿はイルヴァニス様に命を救われたんだ。彼だけじゃない。この捨て犬街には皇帝から身に覚えのない罪を負わされ、殺される定めにあった貴族たちがごまんといて、イルヴァニス様の温情によって命だけが匿われている。そのマシティア帝国から捨てられた犬たちにとって、皇帝は恨むべき人間であり、イルヴァニス様は恩ある御方であるということだ」

 イルヴァニスが皇帝から貴族たちの命を救っていたという。先のミゲイルの話でも、イルヴァニスが単純な理由で皇帝に仕えているわけではないことが悟れた。イルヴァニスはミーナを己の鎖から解き放った。その先にいたのはリシェルだ。彼が見ていたのはミーナの生き方であるが、あの瞬間に眼前にいた敵対者に何を思ったのかがリシェルは気になった。

「トゥーダも皇帝に仕えるのは本意ではない。イルヴァニスという家系が代々皇帝に忠義を尽くしてきたが故に、トゥーダも従わざるをえなくなっている」

 ミゲイルがそう言うと、ちょうど廊下の突き当りに着いた。正面に見える扉は壊れているのか、閉じ切ることができずに少し隙間が出来ている。ミーナはその扉を開けて無遠慮に中に入っていく。それに続くミゲイルを追うようにしてリシェルも扉の先へと進む。

 居間と思しきその部屋に入ってすぐ、中央にある綿の抜けた長椅子と楕円型のテーブルが目に飛び込んだ。その先、壁際に灰が残る暖炉があり、そこから離れた位置に空の本棚が二つ、ぴったりとくっついて並んでいた。

 ミーナはその本棚の片方を横に引き摺って動かす。本棚は擦り切れた黴塗れの絨毯を滑り、微かな埃を立てた後、背後に隠していた地下へと伸びる階段を露わにした。

「此処から城にまで繋がってる。此処も帝都に入った地下通路も、遥か昔からイルヴァニス家だけが利用してきたものだ。皇帝すらも知らない秘密の抜け道だったが……」

 そう言ってミーナはミゲイルを睨みつける。それ以上は言葉を続けず、視線を階段へと向ける。

「とにかく、城まで着けば皇帝のところまではすぐだ。ミゲイル殿、お見送りはもう結構です。巣へ帰ってお休みください」

「何を言っても無駄だというのなら、せめてこれだけは覚えておいてくれ。トゥーダは本当にお前のことを心配していたのだ。袂を分かった後も、お前が聖女の下で心を解きほどけただろうかと何度も零していた」

 ミーナはもう階段を降りていっていた。遅れてはならないと、リシェルもミゲイルに一礼をして降りようとした。その一瞬、ミゲイルがリシェルに言葉を向けてきた。

「皇帝を討つというのなら、奴に剣を抜かせるな。あの剣には何かがある」

 ザンティルからも聞いていたことだ。皇帝も神器を持っているということは。

「既に聞き及んでいます」

「ならば、用心することだ。いくら解放軍が真紅の聖女の齎した奇跡によって勝利を重ねてきたとて、あの剣を奇跡などでへし折ることなど出来はしないだろうから。奴が柄に手を掛ける前に、決着をつけるのだ」

 斬り合うことを前提に、殺し合うことを前提にして、ミゲイルは言う。リシェルの胸に濁った色の悲しみが一滴、落ちた。

 無言で相槌を打ち、階段を降りようとすると、ミゲイルが慌てて言葉を付け足す。

「もしトゥーダと相対することになっても、どうか剣を交えることは避けてくれ。あいつはミーナは勿論のこと、お前とも殺し合うことを望んではいない」

 それには言葉を添えて頷いた。

「無論、承知しています」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る