先の見えない霧の中へ

 しん、と、空気が停止した。


「入ってきなよ。お店の修理費も、しっかり弁償してもらうからね」

 

 天窓から、バラリと縄がおろされた。

 いつのまに開けられていたのだろう。イアンを部屋の外に逃がしておいて、良かった。

 

「こいつで縛るかわりに、大人しく俺達に同行して貰う。お前が何もしなければ、国に帰るまでは殺しはしない」

「ふぅん……それで、君達の国に着いたら、僕はどう扱われるんだい? 楽しい旅のお誘いにしては、ちょっと酷いんじゃない?」

「お前をどうするかは、帝国が決める事だ。俺達は連れて行くだけ。それまでは身の安全は保障する」


 帝国。

 世界地図上でその名称を冠するのは、北方の大国、リーオレイス帝国だ。


 こんなに平凡に生きてきたのに、行ったこともない国に突然連行される意味がわからない。

「よく分からないんだけど、人違いじゃない?」

「いや、占い師セト=リンクス。お前で間違いはない」


 ふと、今日最初にひろげた絵札が脳裏に浮かんでくる。

 平凡な日々。人と関わりながら、人と交わることのない、占い師としての日々。

 精神力と時間だけを使う、割の良い仕事だ。

 だけど、それだけ、というのも、飽きてきたかもしれない。


「……治療費と修繕費、あと迷惑代。きちんと支払ってくれるなら、つきあうよ」

「帝国人の名誉にかけて、弁済する」

 窓から落ちてきた縄を掴むと、ぐん、と窓の外に一気に引き上げられた。




 床にバラバラと何かが落下する。

 急いで扉を開けてみつけたのは、盛大にちらばった貨幣と、中途半端に投げ出されたままの荷物。

 そして無人の室内だった。

「セトさん?!」

「あそこだよ、天窓!」

 貨幣を投げ込んだらしい手が丁寧に天窓を閉めて、走り去る足音が屋根に響く。

 追いかけなければ――――と思いながらも、イアンは、呆然と立ち竦んでしまった。


「なんてこと……連れて行かれちゃったの」

 店主がイアンを押し退けて、部屋の中に残されたセトの荷物を手に取った。その拍子に占いの絵札がこぼれ落ちる。


「俺……」

 呆然としながら絵札を拾い始めると、隣で店主が貨幣を拾い始めた。

 どうして投げ込まれたか分からないが、結構な金額になりそうだ。

「守らせて下さいって言ったのに……」

 呟きが自分の中に重く落ちていく。


 なんとなく言葉が見付からないまま、黙って絵札を拾い続ける。

 突然、店主が貨幣をイアンに投げつけた。


「おい! しっかりしろ、この若造!!」

 いきなりの店主の強烈な形相に、滅茶苦茶びっくりする。


「ウジウジ言い訳する脳があるなら、取り戻す方法を考えれば?! ぼーっとしてないで動きなさい。どうすればいいのかなんて、動けば見えてくるものなのよ。脳味噌で考えるだけで、しかも解決しないでぶつぶつ言ってるだけなんて、最っ低だわ!!」


 ものすごく、その通りだ。

 ただ絵札を掴んで座り込んでいても仕方ない。

 熱くなった目を擦って、手にした絵札を急いでセトの荷物に詰め込んだ。

 ぎゅっと袋の口を結んで背負う。


「俺、追いかけます。どこまで出来るか、分かんねーけど……行ってきます」

 店主は満足したようにニッと笑うと、片手の貨幣をイアンの外套に突っ込んだ。

「遅い。早く行く!」

 小気味良い命令に背中を押されて、大きく、踏み出した。


 足音が消えた方へ、と勝手口から外へ飛び出す。

 だけど、唐突に不安に襲われた。

 霧の中に包まれたこの村は、自分達の動揺とは関係無く、いつも通りの眠りの中にある。

 本来なら、自分もこの眠りの中にいた筈だった。


 けれど。

 毎日同じように働いて、飯食って飲んで寝てという事を繰り返す。

 それはそんなに大切な事だろうか。そんな小さな事の為に、立ち竦んだ自分が、嫌になる。


 あらためて息を吸って、霧の中へ、駆け出した。

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