第28話 絶望からの再起、すると転機Ⅲ

「忍び込むのは簡単だったわ。ここにいた頃、クリスが色んな抜け道を教えてくれたもの」


 シルビアは退屈そうに、髪をいじりながら口を開いた。


 何を言えば良いのだろう。緊張で汗が滲み出る中、イリーナは僅かに身を乗り出す。


「貴方、は」


「ゴオツでの戦い。見てたわ、無様なものね」


「……あっ」


 剣のように、心に言葉が突き刺さった。血は出ないけれど、ズキズキと痛む。


 それはまさに、自分が自分に思っていたことだった。


「命の取捨選択もできずに、依頼者も見殺しにした。優しさだか何だか知らないけど、戦いとしては三流以下ね」


 視線が徐々に泳いでいく。机と、ベッドと、鞄と、一巡して、もう一度シルビアのもとへ。


「力は伴っていないけど、クリスの方がまだ根性があったわ。あんたは根性も力も無い。魔法以外に何の取り柄も無い、ナメクジも同然よ」


「それ、は……」


「それとも、虫けらと言う方が分かりやすいかしら?」


 耳鳴りがする。本当は分かっていたはずなのに、胸が苦しくて、無意識に目を背けたくなったこんな時でも、心の奥底から題病な感情が溢れてくるなんて。


 頭を抱えた。曝け出される弱さと卑屈さに、再び胃の中のものが浮き上がってくる。


「私は事実を言ったまでよ。気に入らないなら、こっちに来て私をブン殴れば良いじゃない」


 シルビアが立ち上がり、こちらの手を掴んだ。


 半ば無理矢理握り拳を作られ、何も分からないまま彼女の胴体に当てられる。


 自分と同じくらいの背丈。しかし、自分よりも遥かに力強い気配を感じる。


「不満があるなら怒って、悔しいなら立ち上がる。そんな根性も無い凡人に、戦士が務まると本気で思ってるの?」


 顔を寄せられる。右を見ても、左を見ても、彼女の視線がそれを追いかける。


 逃げ場が無い。二者択一を、目の前に突き付けられた。


「何時ぞやの決着を付けてあげる。あんたの全てを、ぶつけてきなさい」


 机上に置いていた自分の杖を、胸に押し付けられる。


 戦えば、何かが変わるかもしれない。部屋の中に閉じこもって、何もできなかった、自分が。




 しかし、自分は最後まで気を出すことができなかった。


「もういいよ……お願い、私を倒して」


 押し付けられた杖が手から零れ落ちる。コン、と乾いた音がした。


 戦って、また失敗したらどうしよう。今までの責任を、どうやって償えば良いのだろう。


 絡まった糸が捩れて、もう、解けなくなってしまった。


「はっ……?」


「私が憎いんでしょ? 私も、私が憎いの」


 一思いに倒して、と頭を下げた。何かを告げられるよりも先に、自分が口を開く。


「聞こえるんだ。任務で死なせた人たちから、どうして生きてるんだ、って」


 目を閉じれば、アセビの言葉が浮かんでくる。隣にいたのが自分以外なら、と何度も思った。


 ルヴェルも、バレーナも、そしてガルドも。道を間違えなければ、救えたかもしれない。


 これ以上前に進もうとして、また踏み外すのは耐えられなかった。


「そうだよ。私だけ残っても、何にもできないのに」


「あんた……」


「色んな失敗をして、みんなにたくさん迷惑かけちゃった。だから、その責任を取りたいの」


 シルビアが一歩後ろに下がる。静かな室内で、その足音ははっきりと聞こえてきた。


「やり残したこと。たくさんあるけど……できそうにないや」


 お世話になった人たちに、戦いの中で恩を返したい。その願いは、結局叶わなかった。


 カルミラのみんなは、きっと怒るだろう。親不孝な自分を叱って、そして、悲しんで。


 けれど、やがてゆっくりと自分たちの人生を歩み始める。


「……ごめん、なさい」


 誰に宛てたものかは、自分自身でさえも分からなかった。




「あんた、ふざけるのも大概にしなさいよ!?」


 しかし自分の望んでいた言葉は、いつまでもやって来ない。


 代わりに勢い良く右腕を突き出したシルビアは、胸倉を掴んで自分の身体を壁に叩き付けた。


「えっ……」


「自分勝手も甚だしい。私に喧嘩売ってきたくせに、都合が悪くなったら逃げるつもり?」


 強い力で押さえ付けられる。鋭い視線と、結ばれた唇。


 不快よりも、驚きが勝る。一人でも多くの魔法使いを倒すことが、彼女の本望だと言じて疑わなかった。


 舌打ちの後に、腕が降り上げられる。殴られたのは、隣の壁だった。


「あんたが死のうがどうでも良い……でもね、一度戦うって決めたのなら、泥に塗れても、血を吐いてでも最後まで戦いなさいよっ!」


 左耳に突き刺さる打撃音。やがて壁から離れた彼女の手は、赤くなっているのが見て取れる。


「で、も……」


「言い訳するな! 自分が弱いって分かってるのに、変わろうともせずに一人で勝手に腐るなんて、クズのすることよ!」


 烈火の如き言葉を浴びた頬が、痺れているかのように震える。


 心が割られ、踏み潰され、そして放り捨てられた。シルビアの瞳だけが視界に入り、それ以外の、自身を取り巻く全てから隔絶される。


「……勘違いしないで。死にたがりを死なせるために、私は杖を握ってるわけじゃ無いの」


「だったら。どう、すれば?」


 不意に手が離された。一気に力が抜け、支えを失った身体がその場に崩れ落ちる。


「選択肢なんて最初から無い。このまま死ねば腰抜け。決断を先延ばしにすれば、腑抜けになるだけよ」


 恐る恐る、シルビアの顔を見上げる。怒りが収まり、代わりに呆れと軽蔑がその表情を満たしていた。


 足がすくむ。空っぽになった自分から、立ち上がる力が抜け落ちてしまう。


「今のあんたには、殺す価値も無い。見損なったわ」




 箒を持ち、窓に手をかける。去り行く彼女に縋る気持ちで、手を伸ばした。


「待って……シルビアっ!」


 まだ自分は、答えを見つけられていない。方法さえ、分からないのに。


 言葉は耳に届いても、心にまでは響かない。瞬く間に、目の前にあった身体がどんどん遠くなっていく。


 這いながら進もうとする。程無くして、部屋のドアが開け放たれた。


「大丈夫か、イリーナ!?」


「っ……!?」


 クリスの声。倒れかけていた自分の身体が支えられ、隣にあったベッドまで運ばれる。


 息が荒い。張り上げられたシルビアの声が、隣の部屋まで筒抜けだったことを察する。


 既に彼女の姿は、青空の向こうに消えてしまっていた。


「今のは……シルビア?」


「うん。いきなり、窓の外からやってきて」


「そうか。ひとまず、怪我は無いか?」


「だ、大丈夫」


 椅子を手繰り寄せ、傍に座ったクリスと目線が合った。


 包帯は未だに巻かれていたが、以前のそれよりは一目見て小さくなっている。


 五感に頭が追い付かず、ぐるぐると回る。深呼吸をして、思考を一巡させた。


「……決着を付けないかって、言われたの。でも、もうわたしっ、魔法を使うのが怖くって。だからもういっそ、倒してくれって」


「そう、彼女に言ったんだな?」


「ん、うん。そしたら、戦いから逃げるな、って怒られて」


 思い描いているものよりも、出てきた言葉は継ぎ接ぎだった。伝わっているかも怪しい、形を成していない剥き出しの感情。


 それでも、彼女は何度も深く頷いて耳を傾けてくれた。


「無神経なものだな。もう少し、言い方というものがあるだろう」


 手を握られる。シルビアの力強いそれとはまた異なる、温かい指先。


 気を遣ってくれている。そう頭に浮かんできた時、堪えられなくなって瞼の奥が熱くなった。


 取り繕っていた、聞こえの良い空元気が飛び去り、本音だけが喉元に残される。


「ううん、私が悪いんだ。みんなを守るって誓ったのに、途中で逃げたから」


「イリーナ……」


 視界がぼやける。思えば、クリスの前で崩れたのはこれが初めてのような気がした。


 手を握られたまま、包帯の巻かれたもう片方の手で涙を拭い取られる。そして、また零れ落ちていく。


「私、もう何もかも嫌だって、思っちゃったの。おかしいでしょう? でも色んなことがグルグルして、意味分かんなくなって、自分でも、何が、したいのか」


「大丈夫だ。ここに、君を変に思う者はいない」


「何だか、生きてるだけで……みんなに、迷惑、かけてる、気が、しちゃって」


 口を開けば開く程、頬に涙が垂れていく。決して怪訝な顔はされず、代わりに頭を、ゆっくりと撫でられた。


 いつもとは違う、弱くて臆病な自分を受け止めてくれることが、何よりも……


「うっ……うっ、ごめんなさい、クリス……」


「何も気にするな。安心して、ゆっくり休むんだ」


 優しさを向けられることが嬉しくて。けれども、申し訳無くて。


 涙が枯れるまで泣き腫らし、再び話せるようになるまでは、果てしない時間を要してしまった。




 窓の外から、爆発の音が聞こえた。そして、飛び去る箒。


「ミシェル……」


 顔を上げる。姿こそ見えなかったが、クリスはそんな予感がした。


 いつの間にか、イリーナは泣き疲れて眠っていた。瞼にはまだ、腫れ上がった涙の跡が残っている。


 生きているだけで、周りに迷惑をかけていると思ってしまった。そう叫んだ彼女は、心の中にどれ程の傷を抱えていたのだろう。


 自分には分からない。肝心な時に近付けない自分が、何よりも不甲斐無かった。


「すまない。少しの間、留守にするぞ」


 彼女の頭を撫で、乱れていた前髪を軽く整える。


 瞼は開かなかった。代わりにほんの少しだけ寝息が柔らかくなり、微笑んだように見える。


 やるべきことは決まった。誰かのために命懸けで戦うイリーナを、少しでも支えられるなら。


「……誰が何と言おうと、君は大切な友だ。それだけは、忘れないでくれ」


 布団を直し、深く被せた。最後に一度手を振って、音を立てずにゆっくりと彼女の部屋を後にする。


 足早に自室のクローゼットへ駆け込み、外に出るための上着を手に取った。




「……何、これ?」


 爆発のあった現場に向けて、ミシェルは箒を走らせる。


 建物のひしめく、市街地。その中に、ぽっかりと穴が開いたように爆心地があった。


「酷い、こんなの」


 煙が残る。逃げ出したのか、そこに残っている人はいない。


 石畳はひび割れ、洗濯物と瓦礫が無造作に散らばる。箒を降り、杖を取り出し、身構えながら歩き始めた。


 しかし、音の消えたその街には、呪術師やストーリアの姿もまた見られない。


 敵はどこに。目を細めた瞬間、凄まじい地響きが耳に入る。


「ウウ、ァァァッ!」


「はっ……!?」


 四階建てはある集合住宅が壊れ、怪物が眼前に躍り出る。


 土埃に思わず目を覆う。鋭い羽音を轟かせ、こちらを威嚇する、蜂の姿をしたストーリア。


 鋭い目が日に照らされ、こちらに向けて殺気を放った。


「ドウ……シテェェッ!」


 叫び声と共に、数十本もの針が尾から射出される。


 空気が斬られる音。杖を炎の剣に変え、身を翻しながらいなしていく。


「うっ……!」


 仰け反りそうになり、踏み止まった。少しでも動きを誤れば、串刺しになるのが肌で伝わる。


 弾かれた針が地面に落ちる。横目に見ても、足一本には相当する長さ。


「はぁっ!」


 右へと飛ぶ、瓦礫のうち、片手で掴める程の大きさを探す。


 射出する針に向かって放り投げた。狙いは当たり、真正面から衝突したそれは砕け、土埃を放つ。


 ストーリアの視界が一瞬だけ遮られ、動きが止まった。


「フレイム・エル・ムルバ!」


 生まれた隙で、魔力を溜め込む。魔法陣から、一直線に貫く火炎が噴き出す。


 打ち出された針を溶かし、そのままの勢いで胴体を掠めた。


 呻き声。羽の動きが鈍り、地面に落ちかけるが、致命傷には至らない。


「キェ、ァァ……!」


「くっ……仕留め損ねた!」


 不規則な飛行。剣を構え直すが、狙いが定まらない。


 足を僅かに広げ、一呼吸。しかし飛び出そうとした瞬間、視界に何者かの影が入る。


「後ろだ……よォ!」


「うぁっ!?」


 考えるよりも先に、横への斬撃。オオカミの爪と、炎の剣が眼前で衝突する。


 首の寸前で爪が制止した。力を込めて、押し戻す。


 薄気味の悪い笑い声。姿を一目見る前に、呪術師、グレオのものだと分かった。


「元気そうで何より。倒し甲斐があるってモンだ」


 身体の熱が上がる。剣の炎が、より強く燃え上がっていく。


「グレオ……よくも、抜け抜けとっ!」


 両手の爪を弾き返した。身を乗り出し、彼の首に剣を突き付け、振りかぶる。


 しかしグレオの姿は、塵さえ残さずに消え失せてしまう。


「消え……!?」


「アーマメント・ホース!」


 振り向く。瓦礫の奥に瞬間移動した彼の足は、燃え盛る馬の蹄へと変化していた。


「どう、すれば……」


 狙いを定めれば、その瞬間に残像となる。目の前に現れたかと思えば、手の届かない所まで。


 瞬きをする間に正面へ躍り出た彼に、舌を出された。


「よそ見すんなよ、バーカ」


「……あっ!」


「ギュァァァッ!」


 不意に視界が上がっていく。ストーリアの両足に、身体を掴まれた。


 身をよじって抵抗する。しかし胴体に剣は通らす、そのまま高度が上がり続ける。


 まずい。顔を上げた瞬間、四階分の高さから離された。


「くうっ!」


 目線の下には、石畳。杖に魔力を込め、箒を浮遊させる。


 まずは右手でそれを掴んだ。落下の勢いを落としながら左手も上げ、ゆっくりと高度を下げていく。


 しかし地上に立つ前、グレオが爪を突き立てながら飛び上がった。


「隙だらけだぜッ!」


「……うぁっ!?」


 一かハか。箒を両手で掴んだまま、宙を舞って一回転。


 掠めた勢いで額に風が吹き付ける。間一髪、刺突を潜り抜けた。


「私が……やらなくちゃ」


 地上に降り、後ろに下がって距離を取る。窮地を脱しても、立ち込めた緊張は晴れない。


 一帯が影で覆われる。グレオとストーリアが並び立った。


「威勢は良い。だが、オメー一人で何ができる?」


 剣を持つ手が震えた。今までの魔法で、双方の術を同時に乗り切る術は残されていない。


 杖に身を任せれば、と一瞬考えた頭を必死に振り払う。


 力尽き、倒れるまで戦い抜くしか無い。向かい風で、長い髪が巻き上がった。




「一人でできないなら二人でやる。本当の友とは、そういうものだ」


 だが意を決したその瞬間、グレオのそれとは違う足音が断続的に聞こえてきた。


「待たせたな。無事か、ミシェル?」


「く、クリス……!?」


 鋭い視線。しかしその表情に、いつものような朝気は見られない。


 腕には、白い包帯。生活ならいざ知らず、戦いにはあまりにも程遠い姿。


 しかし整然と並べられた言葉には、微塵の弱々しさも感じられなかった。


「クリス……怪我は」


「足手まといにはならない。約束する」


 腰を曲げ、怪訝な顔をするグレオ。一呼吸を置き、奇怪な笑い声が聞こえてきた。


「飛んで火に入るアホの虫だなァ。死にに来たのか?」


「違う。生き残るために、ここに来たのさ」


「あぁん?」


 優しく、肩を叩かれる。大丈夫なの、という間いに静かに頷き、隣に並んで杖を握った。


 拭い切れない不安を、彼女は滲み出る気で振り払う。


「ボクは友と、肩を並べて共に明日を創る。一人で逃げた先に、未来なんて無い」


 杖は、雷を帯びた黄金色の槍へと。風切り音を立てながら手で回転させ、最後に硬い地面に突き刺した。


「イリーナに救われた命。その恩を、今ここで返してみせる!」




 視界が真っ白になり、外の世界から分断された夢の中。


 そこで、誰かが自分の頭を撫でてくれたような、そんな気がした。


「……あっ」


 ベッドで目を開け、起き上がると、イリーナは大きく頭を振った。


 何度も見た景色。日が差していることは分かったが、今の時間がすぐに思い出せない。


 記憶が徐々に戻っていく。そういえば、クリスが傍にいてくれた。


 薄暗い部屋を見回す。あれからどれ程の時間が経ったのか、彼女の姿はもうどこにもいない。


 未だに残る、涙の跡。色んな感情が混ざり合って、みっともない姿を見せてしまった。


 眠い目を擦り、窓を開く。近くの街から煙が上がり、住人たちの声が騒がしく……


「……クリ、ス?」


 雷を帯びた魔法と、爆発。その時、胸の奥に嫌な感覚が生じた。


 まさか。彼女が以前、シルビアと決着を付けるために、戦いに出た時を思い出してしまう。


 手負いの状態なら、尚更無事では済まない。窓の浅に手の震えが伝わり、軋んだ音を響かせた。


「どう、しよう……どうすれば」


 戦いに出なければ。しかし、身体が思うように動かない。


 怪我をしている以上に、中途半端な意思で戦いに出向くことは命取りになる。救える命も、救えなくなってしまう。


 答えがすぐに思い浮かばず、恐怖と迷いで数歩後退ってしまった。


「んっ……?」


 その時、ベッドの傍に置いてあった鞄に踵がぶつかる。


 床に倒れ込んでしまう。留め具が外れていたからか、そのまま中身が散乱した。


 膝を曲げ、すぐに拾い上げようとするが、その瞬間に目を丸くする。


「これ、は……」


 授業で使っていた、教本や魔石。しかしそこに紛れて、一枚の手紙が床に飛び出していた。




「イリーナ・マーヴェリさん、貴方宛てにお手紙ですよ」


 ゴオツに赴く任務を控えた前日の夜、寮長にふと呼び止められた。


 隣にいたミシェルと顔を見合わせる。何度か村に手紙を出したことがあるが、送られてきたのは初めてのこと。


「えっ……誰からですか?」


「レイミア・マーヴェリさんからです。お母様でしょうか?」


「あっ!? そうです、ありがとうございます!」


 渡された手紙を受け取る。赤いリボンが描かれた封筒に、思わず心の中で飛び上がってしまう。


 レイミア。見ているとどこか安心する、子供の頃から目にしていた母の字。


 ミシェルも思わず、こちらを覗き込んできた。高揚感と同時に、羞恥心も少し湧き上がってくる。


「心配して、送ってくれたのかな?」


「そうかも。ううっ、何だか恥ずかしいな」


 意味も無く裏返し、表に戻しを繰り返しながら、寮の廊下を歩いていく。


 等間隔に置かれた灯りに、封筒がぼんやり照らされた。うっすらと文字が書いてあることは見えたが、外側から文面は読み取れない。


 戻る片手間に読んでしまうのは、あまり良くないように思えた。


「部屋に戻ったら、ゆっくり読もうかな」


 見えない所から、勇気を貰えた気がする。どこかで失くさないように、手紙は鞄の中に入れた。




 しかし鞄に入れたまま、その日は忙しくて読むことができなかった。


 親不孝。任務中もすっかり忘れてしまい、眠らきたまま月日が過ぎてしまうなんて。


「……ごめんなさい、ママ」


 自分で自分の頬をつねる。こんなことをしても、取り返しはつかないだろうけど。


 封を開け、中の手紙を慎重に取り出す。思っていた通り、上下の隅まで文字が張り巡らされていた。


 無意識に涙が出そうになるのをぐっと堪え、呟くように読み上げる。


「久しぶり。定期的に手紙を送ってくれて、ありがとう」


 届いていたのだと分かり、胸を撫で下ろす。属性科に入ったことや、新しい友達ができたこと。


 母と比べれば拙い字だけど、嬉しかったことを伝えていきたいと思い、密かに書いていた。


「イリーナが魔法学校に行くと決めたとき、最初はちょっと心配もあったけど……今では、送り出して良かったと思っています」


 窓を背に、一つ一つの言葉を噛み締めた。手紙り上半分が光に照らされ、字が黒い艶を放っている。


「愛する娘に色んな友達ができて、新しい世界に出会えたと分かったから」


 鉛のように重たかった全身がふわりと持ち上げられ、浮き上がった。




 ずっと、魔法使いになることを夢見てたよね。


「ベルドールさんみたいな魔法が使えたら、私だって凄い魔女になれるのになぁ……」


 私には魔力が無いけど、イリーナが誰よりも優しい魔法使いになれたことは、私にとって一番の幸せです。


「よしよし、強い子だね」


 そして、そんなイリーナの傍に、ミシェルちゃんがいてくれたことも。


「こら、そんな小っちゃい子をいじめるな!」


 友達はみんな大切だけど、環境が変わっても、一緒にいてくれる子がいるのは、本当に心強いよね。


「それでも……何もしないより全然マシだーっ!」


 だからこそ、一人で何でも抱え込むのは良くないよ。


「怖かったよぉ。殺されるかもって思ったら何も考えられなくて、ずっと震えっぱなしで!」


 寂しい時に寂しい、助けて欲しい時に助けてって言葉にすることは、決して恥ずかしいことじゃ無いから。


「ありがとう。何かすっきりしたよ」


 弱音が零れたって、失敗をしたって良いの。たくさん転んでも、最後に夢を叶えることが、何よりも大切なんだから。


「私は迷惑だなんて思わないし、ミシェルを避けることなんてするわけない。私たち二人はずっと一緒。普通の人でも、魔法使いでも、それが変わることなんて無いんだよ!」


 絶対、無理はしないでね。自分のペースで、少しずつ前に進んで。


「一緒に行こう、魔法学校に!」


 学校では難しいこと、辛いこともあるだろうけど、困った時はいつでも連絡して下さい。


「必ず一月に一回は手紙を書くから! 早寝早起きもちゃんとするし、それと……それと!」


「頑張れ、魔法使いのイリーナ!」


 私たちはいつまでも、頑張るイリーナの味方だからね。




 誰かの視線を感じて、顔を上げる。こちらを見つめる、母の優しい表情があった。


「私……前に進んでも良いの?」


 間を置かず、彼女は頷く。きっと幻だろうと、本当は分かっていた。


 都合の良い夢だとしても、正面から受け入れる。今の自分に欠けているものを、母は教えてくれたから。


「もちろん。誰だって、進みたいと思った時がスタート何だから」


「でも私、今まで……」


「それば、イリーナだけが背負うことじゃ無いよ」


 手紙を畳み、封筒に入れて懐に仕舞う。じんわりと、暖かさが伝わってくるような気がした。


「いつだってイリーナは、大切な人を守るために戦ってきた。力が及ばなくたって、イリーナのお陰で救われた命も、たくさんある」


 目を細める。そうだよね、と胸を張って言うことはできない。


 自分で無ければ、もっと救えたのかもしれない。自分より早く、より多くの命を……


「そう、なのかな?」


「そうだよ。強くなるのも大事だけど、もっと自信を持たなくちゃ」


 背中にかかる重り。それでも、母は真っすぐこちらを見つめて逸らさなかった。


 一歩、また一歩と歩み寄ってきた。開かれた掌が肩に触れ、震えていた手足に動くための力を与えられる。


 目の前に聳え立っていた壁が壊され、取り払われた。


「一番は、イリーナのやりたいこと。それを教えて」


 未だに、頭の中では呪いのような言葉が何重にも渦巻いて離れない。


 自分にはできない。叶わない夢ならば、最初から持たない方が良い。


 でも、母は自分を信じてくれた。能力が優れていなくても、前を向いて良いのだと教えてくれた。


 叶える根拠は持ち合わせていない。でも、もう誰かを裏切りたくなかった。


「……みんなを、守りたい。一緒に戦ってくれたミシェルと、クリスのために、街を壊す呪術師を止めたい!」


 ぐっと息を吸い込む。頭の中に出てきた言葉を、そのままの形で声にしていく。


「あっ……」


「最初から諦めたらダメ。強い心があれば、叶わない夢なんて無いんだから」


 カルミラで、起きた奇跡。ルヴェルを守るために、杖を持たずにストーリアと戦った。


 想いは力になる。そうなりたいと、願えばいつか。


「忘れないで。戦う貴方の背中には、いつも私がついてる」


 鞄から、杖を取り出す。使われるのを待っていたかのように、手に取ると微かに光を放った。


 自分は孤独だと、思い込んでいただけ。目を閉じればいつだって、みんなの暖かい言葉が耳に入ってくる。


 涙が零れそうになるのをぐっと堪え、大きく、頷いた。


「あり、がとう。ママ」


「感謝なんて良いよ、子供を守るのが、母の役目だから」


 手を伸ばされた。母の背後には、外に続く部屋の扉。


 暗く。重苦しい気配。しかしその隙間からは、僅かに光が漏れ出ている。


「行きましょう。かけがえのない友達を、守るためにね」


 自分なら、できる。そう信じて、優しく微笑む母の手をしっかりと掴んだ。




 続く

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