第6話 広がる知識、そして友達Ⅱ

 どこかで水の滴る音がする。先程までは奥から上級生の声が木霊していたのに、すっかり聞こえなくなってしまった。


「ちょっと寒いかも。何だか……不思議な空間だね」


 生き物の気配も全く無い。イリーナは常に辺りを見回し、ふとした拍子に気が抜けそうになるのを抑えた。


 相手はいつ、どこからやって来るかも分からない。


「ウォルバットって、いつもは壁に張り付いてるんだよね?」


「その通りだ。住処では動かずに獲物を待ち構え、油断した所を襲ってくるぞ」


 一歩後ろを歩いていながら、クリスの足取りと口調には達観しているような余裕がちらちらと垣間見えた。


「……ところで、君たちは一体何をしている?」


「えっ?」


 何とは、とイリーナは振り返った。彼女の指はこちらの持っている杖を差している。


 思わず力が抜けてしまうような大きなため息をつき、クリスは手に持っていたランタンを数回叩いた。


「フラッシュ・ライトは魔力の消費が大きいぞ。いざ敵が現れた時、減りに減った力でどう戦うつもりだ?」


 魔法をかけるとランタンが燈る。優しい光だったが、杖を使った時よりも洞窟の全体像がはっきりと見えた。


「こういう時こそ魔石の出番だ。君もこっちを使うと良い」


「あ、ありがとう……」


 予備の二つを手渡される。部屋で見た時は重いと思っていたのに、使ってみると意外と気にならない。


 魔石は欠かせない、エルアの話にようやく実感が湧いた。


「そういえばさ、魔石を使う時の呪文ってどうしてレ・ムルバなの?」


 心が少し軽くなり、辺りと共に暗い空気に陥っていた三人にもちょっとずつ綻びが生じ始めた。


「レはレンタルの略だ。魔石に込められた魔力はボクたちの意思によって必要な力を与えてくれる。だから仕組みというよりも、力を貸して下さいという意味合いの礼儀だな」


「あれは魔法使いが魔力を凝縮させて生み出した物なんだよ。努力の賜物だから、みんなへ感謝が必要だってこと」


 クリスたちの言葉にイリーナは驚き、柔らかく掴んでいたランタンの方を見る。


 何だか偉大な存在に見えてきて、頭をふっと下げた。


「そうだったんだ……今まで助けてくれてありがとう」


 立派な魔法使いにはまだ遠い。けれどまた一つ、大きなことを知れたような気がした。




「待て、今のうちに杖を出した方が良いだろう」


 クリスが前に出て止めに入ったのは、その話があってからしばらく経った後のことだった。


 今まで気付きもしなかった。だが目を凝らしてみると……


「いるね、まだ動いてないけど」


「起きればあっという間に取り囲まれる。落ち着いて、一体一体を確実に倒すことに集中するんだ」


 警戒が強まる中、一体のウォルバットが静かに目を開けた。


「キッ……キキィ!」


 連動して一体、もう一体と羽を動かして徐々に飛び始める。


クリスの言葉通り、瞬く間に数え切れない量の相手が行く先を阻むようになった。


「これ、私たちだけで戦えるかな?」


 やられても死ぬことは無い。それが分かっていても、いざ対面してみると不安が蘇ってきた。


「ボクが先陣を切ろう。取り残した分はサポートを頼む」


 ランタンを優しく地面に置き、杖を構えるクリス。その覚悟に満ちた声を聞きながら、イリーナたちも隣に並ぶ。


「クリス……」


「案ずるな、ボクは世界一の天才になるべき魔女見習いだぞ」


 大丈夫かと目で聞けば、誰に聞いていると態度で答える。


「行くぞ……アザー・ディメンション!」




 鋭い声で魔法を唱えると、手元に光り輝く魔石が現れた。


「ランド・レ・ムルバ!」


 そして降り注ぐのは、土砂崩れのような大地の唸り。多くの岩がウォルバットを呑み込み、土埃が大きく舞い上がる。


「けほっ、こほっ……あれ何!?」


「土魔法だよ。でも、あんな純度の魔石をどこから……」


 まるで手品のようだった。使い終えた魔石は光となって虚空に消え、すぐさま次の石が杖から出現する。


 永久機関。彼女の光景を目の当たりにして、真っ先に浮かんだのはそのような言葉だった。


「予め魔法で取り込んでおいたのさ。わざわざ持ち運ぶのもナンセンスだからねぇ」


 構わず押し寄せる次の大群に、クリスは次の一手を放つ。


「ダーク・レ・ムルバ」


 姿が一瞬にして掻き消える。いいや、よく見ると影だけがぬるぬると洞窟を駆け回っていた。


「油断したな……そこだあっ!」


「キキィ!」


 数瞬後、背後から飛び上がって敵を切り落とした。相手の視線が追い付かないうちに隠れ、一撃、もう一撃。


 時に距離を取り、突然懐に飛び込むことで攪乱を図る。


「さて、的が十分に固まってきたな。本領発揮といこう」


 準備は整った。クリスは戦場の中でも自信満々の表情を崩さず、遂に今まで収めていた能力を引き抜く。


「サンダー・ランス!」


「あの魔法は……まさか!?」


 短くも凛としていた髪が緩く逆立ち、クリスの全身から電撃が溢れ出るように放たれた。


 杖が光と共にぐんぐん伸び、制裁を下す雷の槍となる。


「そうさ。ボクの本領は雷魔法だ」


 決めてやるぞと言わんばかりに、変わり者のヒーローはにやりと笑う。




「ひれ伏せ、人の血を喰う悪しき魔獣共め!」


 目にも留まらぬ一閃。目を開けると、身体を引き裂かれたことさえ分からないウォルバットが爆発四散した。


「サンダー・ムルバ!」


 まるで、雷を操る神のよう。槍から放たれた電撃は敵に真っすぐ命中し、放射線状に伸びて弱き獣を焼き尽くした。


 ピシャリ、ピシャリと、技を放つ度に必死に打ち鳴らすような音が洞窟中に響き渡る。


「凄い……あんな魔法の使い方もあるんだね」


 魔石を使い、魔法でとどめを刺す。今までに見たことの無い多角的な攻め方に、イリーナは感嘆の声を漏らした。


「使い方だけじゃないよ。魔法を放つタイミングや手数も、何もかも全部計算されてる」


 ミシェルも大きな強さと高い壁を肌で感じ取った。これが属性科の中でも一目置かれる、そんな天才の戦い方。


 今までのやり方では、とてもこの子の舞台には届かない。


「サンダー・ジャッジメント!」


 すると、怒りを滲ませて飛び交っていたウォルバットの動きが停止した。槍が地面に突き刺され、電気の枷として敵を縛り付ける。


「キィ……」


 さて、とクリスは力を込めて槍を掴んだまま振り向く。


「とどめはお譲りするよ。これが刺さっている限り、奴らはどう足掻いても動けない」


「……えっ? ああ、分かった!」


 同級生の勇姿を見届け、次は私たちが二人で頑張る番。


 一歩一歩をゆっくりと踏みしめ、イリーナとミシェルは大挙したウォルバットの前に立った。


「バサッといくよ、試験の時みたいに!」


「了解。フレイム・ソード!」


 隙も、後先も、その時になってから考える。ミシェルは止まった的に焦点を置き。弾みをつけて炎の剣を投げた。


「テレポーテーション・フロート!」


 空を描き、そのまま地面に落ちると思われた剣は、イリーナの魔法で宙に浮き上がる。


 ブーメランのように回転し、一体残らず対象を切り裂いた。


「よし、これで討伐は完了だね」


「キィッ、キ……!」


 大爆発と共に、剣がこちらに戻ってきた。ミシェルが身を翻し、イリーナやクリスと共に来た道を引き返す……


「キィィィ!」


 そのはずだった。残された一匹が断末魔のような叫びをあげ、歪な超音波を発するまでは。


 その場にいた全員が耳を塞ぎ、驚きで思わず目を瞑る。


「こ、今度は一体何なの……!?」


「分からない。もしかしたら仲間を呼んでいるのかも……」


 残りは上級生たちが倒してくれる。そんな淡い期待を打ち砕くように、先程よりも大きな轟音が辺りを包んだ。


「ギギギッ!」


 そして目の前に現れたのは、今までとは比べ物にならない威圧感を放つ等身大のウォルバット。


 まさしく、弱いコウモリたちを統べるリーダー格の存在。


「ギィヤァァッ!!」




 震える程の雄叫び、だが、ここで退くわけにはいかない。


「アイス・ムルバ!」


 イリーナは迷わず羽を狙って冷気を放った。だが、一瞬凍り付いてもすぐに砕け散ってしまう。


「嘘でしょ……!?」


「それなら、私が止める!」


 血の気の引く程真っ白な牙を剥くウォルバット。ミシェルが炎の剣を持ち、一気に間合いを詰める。


「ギィッ!」


 鋭い噛みつきと、燃え盛る斬撃が双方衰えずに衝突した。


「くうっ、硬過ぎて全然通らない……」


 勢い余ってよろめく親友をイリーナが支えた。まだ手が震えている、二撃目に繋げられない。


「上級生のお残しか。意気揚々と出撃した割にはズボラな奴らだ、なぁっ!」


「イギッ、ギャァァッ!」


 相手の牙が届く。そう感じて後ろに下がりかけた刹那、勢い良く投げられたサンダー・ランスが制した。


 槍が中心に刺さり、不規則に蠢く巨体が悲鳴を上げる。そんな中、クリスが走って合流してきた。


「どうする? ここで友情の必殺技はリスクが高そうだが」


 敵をもう一度観察する。彼女の言葉通り、即席の合体技でどうにかできるような相手では無いと見える。


「私が奥の手で一気に倒す。イリーナ、奴の目を引き付けられる?」


「分かった……よく分かんないけど、やってみる!」


 一呼吸置いて、覚悟を決めたミシェル。クリスの驚きを含んだ視線を振り切り、イリーナが杖を持って飛び出す。


「アイス・シールドッ……!」


 どこから襲ってくるか分からないウォルバットの動きに、氷の盾を上に構える。何度か押し負けそうになっても、感情の奔流で抑え込んだ。


 言われなくても、振り向かなくても大体理解できた。今は大事な、相手を倒す為の溜めの時間。


「燃え盛る炎よ。大切な人を守るために、私にもっともっと大きな強い力を……」


「まさか……君は」


 どうにか懐に潜り込めた。ここで、相手の目を確実に取る。


「フラッシュ・ライト!」


 至近距離でイリーナが杖を光らせる。その輝きに、ウォルバットはしばらく動きが止まった。


 槍を引き抜き、すぐさま身を翻して安全な場所に退避する。


「目潰ししてごめんなさい……今だよ、ミシェル!」


「了解っ!」


 改めて彼女に視線を向けると、既に紅い炎が起爆寸前のように美しい光を放っていた。


「フレイム・エル・ムルバ!」


 破滅の一線が飛び退くイリーナを回避し、巨体のウォルバットを真っ直ぐ貫く。


「ギュァ……!」


 洞窟全体が唸りを上げ、地響きと共に煙を噴き上げた。




 そこから先は、別の意味でどうにもならない状態だった。


「ミシェル、大丈夫? もうすぐ外に出られるからね」


「うん。ちょっと無理し過ぎちゃった……」


 盛大に魔力を切らしてしまったミシェルはイリーナの背に乗り、どうにか夕焼けの見える所まで辿り着いた。


「大技なのは分かってたんだけど……二人とも凄く頑張ってたし、ここで私が迷っちゃダメだな、って」


 完全に力が抜けているように感じられた。こんな状態のミシェルを見るのは、もしかすると初めてかもしれない、


 それでも、彼女が自分を頼ってくれるだけで嬉しかったし、疲れで動けなくても自然と足が前へと進んだ。


「無茶無謀も大概だな。慣れない魔法を使って戦場で魔力切れを起こすなんて、ボクらがいなかったら殺されていたぞ」


「あははっ……やっぱり、そうだよね?」


 張り詰めた気力が解け、不満をぶちまけるクリス。言っていることは正しいが、やっぱりちょっとショックかも。


 しかし小さな笑みと共に、思いもよらない言葉が出てきた。


「だが、あの時はきっとボクも同じ判断をしていた。賭けに負け、全身を貪り食われていた可能性も十分にな」


 イリーナと、背負われていたミシェルが同時に振り向く。


「君たちの友情というのは本当に恐ろしいな。ボクがここまで考えを巡らせて、計算をしても余裕で乗り越えてくる」


 考えても、結局理論では解明できない。脳をぐるぐると回し、クリスの至った結論がそれだった。


「……だから、これからゆっくり時間をかけて解明していきたい。天才のボクが難問だと感じたんだ、きっと正しい答えには誰も辿り着いちゃいない」


「クリス……!」


 イリーナの目がキラキラと輝いた。この状態でなければ、すぐに飛びついてハイタッチをしたい気分。


 珍しい真っ直ぐな笑顔には、同じく正直な笑顔で返す。


「あと、それとだな。こんな時に言うのは無粋かもしれないが……ボクも君たちの仲間に入れてはくれないだろうか」


 友達として、とクリスはイリーナたちに手を伸ばした。


 二人は立ち止まって顔を見合わせる。もちろん、彼女らの答えは即答かつ同じもの。


「もちろんだよ。これからもよろしくね、クリスっ!」


 まずはイリーナとクリスが握手を交わし、彼女の上にいるミシェルとも。


「こちらこそよろしくな……それと、君にはこれも」


「むぐうっ?」


 思い出したかのように、クリスは懐から取り出した豆のような物をミシェルの口に運ぶ。


「ここで危険な物を手渡す程、ボクは意地悪じゃあないよ」


 噛めと言われてその通りにすると、言葉にし難い不思議な味に包まれる。


「杖の材料に使われるルクシアの樹液と、薬草を混ぜた特製の回復薬だ。即効性は無いが次の日からは楽になる」


「あっ、ありがと……」


 出口はもうすぐ。さて、あの先生にどう報告するべきか。


「礼を言うのはこっちの方だ。ウォルバットを倒してくれて、どうもありがとう」


 だが、クリスも他の二人もこれからのことは考えなかった。


 今はただ新しい友達ができたことに喜び、胸を高鳴らせながら仲良く三人で帰ろう。


「みんな……本当にお疲れ様っ!」




その日の夜、繁華街ボストレンの路地裏にある小さなバーに一人の女性が訪れた。


「もうっ、マリンを振るなんて有り得なくないですか!?」


 顔を真っ赤にしてワインを飲み干す。するとバーテンダーの男性がグラスを優しく置き、次の一杯を出してくる。


「外出するときは一言伝えてくれってお願いしたのに、隠れて浮気してたんですよ? 問い詰めてもはぐらかすし、終いに束縛が酷いから別れるって……」


「ほうほう、それは間違い無く相手の男が悪いね」


この店を経営するオーナー、リューズ・ファスタ。美形という言葉が誰よりも似合う長身の青年で、彼と話をするために来店する常連客も数多い。


今もこうして、悩みを抱えた一人の客を相手にしている。


「君のように誠実で真っ直ぐな女性はいない。一等星のマリンちゃんには、その輝きに見合うような男がお似合いさ」


 浮気男のことなんて忘れなさい。リューズは首を左右に振り、暗雲のように残った未練をバッサリと切り捨てた。


「やっぱりそう思いますよね!? あぁ、リューズ様のような人がパートナーだったら良かったのにな……」


「ははっ、僕なんてバーテンダーとしても経営者としてもまだまだだよ。君を支える前に、ここの経営が立ち行かなくなって潰れてしまうだろうさ……」


 都会に憧れ、修行と研鑽を重ね。それでも手にしたのは薄暗い辺鄙な場所の一角だけ。


 お金を稼ぐという野望も、今はすっかり消えてしまった。


「だがもし……もしも奇跡が起きて、ワズランドに店を構えることができたなら、その時はパートナーとして君を招待しよう。タキシードを着て、馬車でお迎えをして、な?」


 先を憂く瞳にほんの少しだけ光を灯し、リューズはカウンター越しからマリンの手を掴んだ。


「リューズ様……ありがとうございます、私一生リューズ様についていきますっ!」


 暖かい……を通り越して、熱い視線に身を当てられた。


「おいおい。まあ、元気が出たのなら何よりかな」


 こうして今日も夜が回っていく。誰かの悲しみを、他の誰かがすうっと受け止めて。


 するとその時、二人の新しい客がドアをノックしてきた。


「おいおい、またオメーはナンパしてんのかよ?」


「入るわよ、リューズ……」


 やかましいのが一人、待っていたのが一人。リューズはゆっくりと視線を向け、切り替えるように声色を戻した。


「ごめんねマリンちゃん、今日はもう店を閉めなくちゃ……」


 パタリと餌を貰えなくなった雛のように、マリンは悲しみの混じった声で縋り付く。


「えっ、もっと飲みたいですぅ!」


「外せない用事ができてしまってね、申し訳無いのだが」


 他の客たちもすぐに立ち去れるような雰囲気では無い。彼女の手を握ったまま、リューズはどうにか言い包める。


「夜更かしは君のお肌にも良くない。また明日にでも来て、今日よりもっと綺麗な君を見せてくれないか?」


もう一度、ワインとカウンター越しに温かみが広がった。


「リューズ様……分かりました、絶対にまた来ますからね!」


「そう言ってくれて嬉しいよ。またね、マリンちゃん」


 姿が見えなくなるまで、お互いに手を振った。残っていた数組の客もそれに続き、まだ賑やかな夜の街へと。


「さて、それじゃあ会議を始めようか」


 店が静まり返った後、リューズはドアに鍵をかけた。




 リューズの他に残っていたのは、可愛らしさと艶やかさが共存する黒髪の女性。そして……


「リーダーぶってんじゃねえよ。取り敢えずジュース寄越せ」


 店の雰囲気と比べて明らかに浮いている、態度だけは大きい十歳前後の少年だった。


「分かったからちょっと待て……メラトはどうする?」


「何でも良いわよ。それと、カルミラ遠征の件はどうなったのか聞かせてくれる?」


 メラトと呼ばれた女性は結論を急かす。リューズはやれやれと言った表情で、棚から一冊の本を取り出した。


「オオカミになった男を顕現させた。結果はまちまちだったが恨みの力は無事に蓄積、ジョン様にも報告済さ」


 三人の間に音を立てて置かれ、開かれたそれは呪術の書。


 各ページには異形の怪物が載っており、絶望した人間を苗床にして顕現させることで負の感情が本に込められる。


「収穫はもう一つある。そのオオカミを倒した魔女の卵だが、三種の魔神器のうち一つを所有していることが確認された」


 三種の魔神器、その言葉が耳に入ると、どこか冷めていたメラトの反応が一気に変わった。


「……ならどうして殺さなかったのよ。卵なんでしょう?」


「それもジョン様の見解が理由だ。以上全てを報告した所、あの方は経過観察、つまり現状維持をお選びになった」


 ワインを一口飲む。グラスの中にあるもう一つの世界は揺らいでいて、血のように紅く染まっていた。


「もし卵が魔神器に適合すれば今までに無い光景が見られるだろうし、適合しなければ魔法使い……ミシェル・メルダは自ら死を選ぶこととなるだろう」


 語り口は淡々としている。少なくとも、先程マリンを口車に乗せていた時とは大きく違う。


「だから、そのミシェルをよく観察するのです。だとさ」


「ハッ、ふざけているのか真面目なのか」


 せっかく自分たちの理想に一歩近付けたというのに、手を出さずに様子を見ろというのは少々歯痒い。


 隣に座っていた少年、グレオは両手で荒々しく机を叩いた。


「……結局の所、オメーは負けてきたってことじゃねえかよ。魔女見習い如きにやられて悔しくねえのか?」


 リューズは頬杖を突いて唸る。悔しくないわけなんて無い、今ここで何も言い返せないことも含めて。


「兄貴がどう言おうが関係ねえ。そっちの都合で焦らされるくらいなら、俺は今ここで決着をつけてやる!」


「……これは?」


 グレオが指した本のページには、今まで顕現していなかった新たなストーリアの姿があった。


 三等分の子豚。絶望を覚えた豚がそれぞれの感情に応じて分裂し、自身を傷付けた者たちに復讐する物語。


「結局最後に勝つのは、小細工よりも力と数なんだよ」


 命令に背こうとも頂点に辿り着いた方が正義。そんなグレオの想いに応えるような怪物だった。


「悪趣味の一言に尽きる。とても美しいとは言えないね」


 だが、それを見つめる二人の反応は対照的に冷ややか。


「相変わらず単細胞なこと、もうちょっとじっくり考えたって遅くないのに」


「逃げたら手遅れ。獲物は思い立ったが吉日ってやつだ」


 小難しい言葉。きっとあの人から教えて貰ったのだろう。


 まだ話も終わっていないはずなのに、制止も聞かずに彼は立ち上がった。


「そいつらはカルミラに留まっているのか?」


「ワズランドにいるらしい……全く、血の気の多い奴だな」


 適当に暴れたら引き付けられるだろ、と言い残し、グレオはジュースも残して旅立とうとする。


「それじゃあ、そんなお前に精一杯のエールをあげよう」


 言うなら今しか無い。リューズはそう思って呼び止めた。


「せいぜい奮闘して派手に負けてくることだな。お前の泣き喚く顔が、僕たちの明日の活力になる」


 彼は振り返らなかった。だが、表情は見なくても分かる。


「言ってろ、ナンパジジイ」


 お前こそ派手なお祝い用意して待っとけよ。わざわざ閉めたドアを開け、グレオは手を振って去っていった。




「素直じゃないのね、本当は心配な癖に」


 嵐のような少年が去り、残ったのは黙々と酒を用意するリューズとそれを飲むメラトだけだった。


 退く気配は無い。良いだろう、元々そのつもりだったから。


「お世辞や発破……この世界にはね、ついて良い嘘もたくさんあるのさ」


 ああ言えばきっとあの子もやる気になるだろう。手を振った時、きっと彼は表情を解して笑っていた。


「邪魔者はいなくなった。さあ、まだ飲めるかい?」


「もちろんよ。ボストレンの夜はまだまだ長いのだから」


 星が良く見える。こんな日は、動かずにただ時間の流れを楽しむのも悪くないだろう。


 静と動が交差し、綺麗なグラスがぶつかり合った。


「星降る夜、愛する女神と共に……乾杯」


 それがお世辞か本当かどうかを知る者は、少なくともこの世界には誰もいない。




 続く

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る