第10話 どうしても
高校生になったダイチは、中学と変わらず柔道部に所属していた。木曜日を除いて毎日十八時まで練習があったので、帰りは中学に比べて更に遅くなった。それでも、メグミは毎日校門の前でダイチを待っていた。高校生になったばかりで気まずいだろう春も、日差しが眩しい夏も、ようやくクラスの友人と打ち解けてきたであろう秋も、雪の降る寒い冬も、毎日ダイチを待っていた。
だから、ダイチのクラスメイトは皆メグミのことを知っていた。他校の生徒でありながら、恋人のために毎日律儀に部活が終わるのを待っている少女。気が強そうではあるが気品のあふれるすらりとした立ち姿は、嫌でも男子の目を引いた。
ダイチはその頃、いかにも高校生といった雰囲気のありがちな短髪で、柔道部に属しているにしては体が細く、存在感も生命力もあまり感じさせない少年だった。
そんなダイチがそこにいることを思い出させるように、伊仙ショウタは短い黒髪を雑に、しかし決して痛くないように叩いた。
「昨日も見たぜ、ダイチの彼女。あんな寒いところで待たせちゃ可哀想じゃね?」
ダイチは恐る恐る顔を上げた。
一人でいるダイチを気遣って声をかけた、というような親切心を思わせるわざとらしさは一切なかった。ショウタはにこやかに返事を待っていた。
「なんで叩くんだよ」
「ぼーっとしてたから気合いいれてやろうと思って。あと毎日毎日彼女を待たせてるお前にちょっと腹が立って」
そう言いつつ、怒っている素振りは一切なかった。
「俺も申し訳ないとは思ってるよ。でも、近くに一人で待てるような場所もないし、ここでいいって聞かないんだよ」
「場所がない? そんなことないだろ。近くのコンビニとかでいいじゃん」
「育ちがいい子だからさ。親にいい顔されないのもあって、そういうのできないんだよ」
「ん……そうなの?」
ショウタは考え込むような表情になった。
「どうしても?」
「どうしても」
どうやらショウタは、メグミが毎日学校の前で部活が終わるのを待っているのは、ダイチがそう望んだからだと思い込んでいたらしい。そうでないとわかった途端、彼はするりとダイチの味方側に潜り込んできた。
「せめて学校の中に入れてあげられればなあ。やっぱり他校の生徒だから難しいのかなあ」
ついさっきまで茶化すような態度だったのに、いつのまにか彼は、メグミという知らない人間の境遇を真剣に考えていた。
彼がメグミについて触れてくるのは、珍しいことではなかった。寧ろ、話しかけるきっかけといえば大体それだった。ダイチは少しだけショウタのことが苦手だった。苦手というより、不可解だった。どうして毎回、大して興味もないだろうメグミのことを話題に出して、わざわざ自分に関わろうとしてくるのか。
ダイチは自分が周囲にとって不快な存在にならないよう人一倍気をつけていたが、それは誰かに特別な好感を持たせるような態度では決してなかった。だから、ショウタが自分をやたらと構ってくるのが不思議だった。
ショウタは突然顔を上げたが、何かいい考えが浮かんだというわけではなく、寧ろ考えるのを放棄したといったようなすっきりした表情をしていた。
「なあ、あの子、足が長いだろ。スカートと靴下の間に生足が覗いててさあ、それが寒そうで仕方なくて」
話題をどうでもいい方向に変えたいらしかった。ダイチは敢えて反抗的に返すことにした。
「人の彼女の足ジロジロ見るなよ」
「なっ」
ショウタは大袈裟にリアクションをした。
「みっ、見てねえよ! 見えただけ!」
そうやって反論した途端、周りで様子を伺っていた男子の何人かが二人の間に割って入り、ショウタをからかい始めた。人の彼女に手を出そうとしているだの、足フェチだの、冗談を浴びせながら彼らは笑っていた。彼らは、ダイチがいつも属しているグループのクラスメイトだった。
こうなると、ダイチは安心する。今まで振る舞ってきた当たり前を、そっくりそのまま再現すればいいからだ。誰かと一対一で会話をするよりも、大人数に溶け込む方が楽だった。
そんなことが何度か続いて、ダイチはショウタを警戒するようになった。
もしかすると、彼はメグミのことが気になるのかもしれなかった。
ショウタが何か行動を起こせば、彼女の精神的な面に影響を与えてしまう可能性は十分にあった。傷ついたり、悩んだりして消耗した彼女を慰めるのは、どう考えてもダイチの役割だ。しかし、ダイチはその役割を十分に全うする自信がなかった。
放課後が近づくと、この一件について考え込んでしまうことが増えた。このままの生活を続けるためには、ショウタがメグミに接触することをなんとしても避けなければならない。しかし、ダイチがあからさまに警戒しているような態度を表に出せば、友人としての関係が険悪になる。クラス内で同じグループに属している以上、異常を隠すのは容易ではない。気まずい空気を流してしまえば、ダイチが他のクラスメイトから距離を置かれてしまうかもしれない。
ダイチは専用のカードキーをドアの横にあるセンサーにかざした。無機質な機械がぴっと軽く音を立てると、自動ドアが静かに開いた。
その部屋は、一時期しか行われることのない柔道の授業の為に作られた、全面にマットが敷かれた運動用の教室だ。他のシーズンでは全く使われることがないので、柔道部が独占している。
いくら大会を目指さない緩い活動とはいえ、それなりに投げ技も、体を痛めない為の受け身も教わる。そして、それを実践する。もちろん怪我のリスクは高く、油断は禁物だ。目の前の動きに集中できないような考え事をするなど、もってのほかだった。
それでも、ダイチはこの日も当然のように校門前で待っているメグミと、それを気にするショウタのことで頭がいっぱいだった。
ぐるぐると回り続ける考え事を吹き飛ばしたのは、中指に走った電撃のような鋭い痛みだった。
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