第3話 秘密の少年
特別補習の準備は元々家でするつもりだったので、ダイチは誘いを了承した。
黒板に字を書いていちいち説明していた時代もあったらしいが、今ではほとんどがプロジェクターに資料を投影する形で授業が進められている。今の形になったのは確か二百年近く前。それから校内の様子はほとんど変わっていない。伝統を守っているわけでも、異常に保守的な訳でもない。どの学校も施設も同じようなものだろう。
授業の用意は家でも学校でも同じように進めることができるので、職員室に残っている人たちは、家だと集中できないから帰らない、という場合が多い。家庭があったり熱中できる趣味があったりすると、なかなか仕事に取りかかれないのだろう。もっとも、ダイチにはどれも無関係な話だった。
松宮に連れられて入った居酒屋は、以前にも来たことがある店だった。どうやら行きつけらしく、松宮はリラックスした様子で入店し、店員に軽く挨拶をした。
「僕はビールにしますけど、加欖先生はどうします?」
おしぼりで手を拭きながら松宮が訪ねてくる。
「ウーロン茶にします」
「あれ。禁酒中ですか」
「そんなところです」
ダイチは元々、酒が苦手だった。弱いという訳ではないが、酔ったときについ本音が出てしまわないかと不安になってしまうため、できる限り人前では飲まないようにしている。
「じゃあ、居酒屋じゃなくてレストランの方がよかったですかね。最近、近所にパスタが美味しいって評判の店ができたんですよ。知ってます?」
松宮はメニュー表を眺めがら、忙しなく口を動かしている。
「いえ。初耳です」
ダイチは料理を眺めながらも、これと言って唆られるものがないので、松宮に任せようかと考えながら返事をした。
その旨を伝えると、松宮は特に困った様子も見せず、わかりました、と朗らかに返事をして、店員を呼び、さっさと注文を済ませた。
松宮はダイチの数少ない理解者でもある。人とは少し違った感性を持っていることを否定せず、寧ろそれを面白いと思って話しかけてくる。彼と一緒にいるときだけは、ダイチはある程度自分の思った通りに発言したり、常識の範囲内の疑問を素直に口にすることができるのだった。表面上は。
「今度、そのレストランにも行きませんか? 実は、僕もまだ行ったことがなくて」
松宮はメニュー表を畳んだ。
「いいですよ。下見ですか」
「下見……って、ちょっと。それじゃ僕が加欖先生のこと利用してるみたいじゃないですか」
「別に、俺は利用されていても構いませんが」
「もう。職場の同僚として、親睦を深めたいという思いで誘ってるんです。まあ、下見という意味も無くはありませんけど……」
急に歯切れが悪くなって、松宮は誤魔化すようにお冷やを一口飲んだ。
「彼女さんとは順調のようですね」
こういうプライベートに踏み込んだ会話は、比較的普通に近いのだろう。ダイチは自分が円滑に会話を進められていることに、なぜか満足感すら覚えていた。
「もう、やめてくださいよ。冷やかしですか? らしくないです」
言いながら、松宮はどこか嬉しそうだ。
「実は……今度、プロポーズしようと思っていて」
そのとき、店員が飲み物を運んできたので、松宮は慌てて顔をあげ、軽く笑顔を作って会釈をした。ダイチもそれに倣った。
店員が行ってしまった後、ダイチは胸の中で松宮の言葉を繰り返した。プロポーズ。
それはダイチの人生には縁のない……いや、ないほうがよいものだった。
「ご結婚、されるんですか」
目の前にいる男は、直接的な言葉を出された途端、どこか嬉しそうで、しかし言葉を選ぶのに時間がかかっている様子で、ジョッキグラスの持ち手を握ったり離したりした。
「ま、まだわかりませんよ。プロポーズしたいと思っている、それだけしか決まっていなくて……指輪だって買ってないし……」
松宮は、確か今年で二十九になる。三十になる前に籍を入れたい、とどこかで言っていたことを思い出した。
一回り下の男が、人生で数度もないであろう大きなイベントを前にあたふたしている様を、ダイチはどういった表情で見つめればいいのかわからなかった。
反応と言葉に困っていたところで、松宮がタイミングよく、ハッとしてダイチの方を向き直った。
「そ、そんな話をしにきたんじゃないですよ。危ない危ない、加欖先生ってそういうところありますよね」
そういうところとはどういうところですか、と聞きそうになるが、話を引き延ばすのも良くないと思ったのでやめた。
「僕の結婚の話なんてどうでもいいです。橄原くんの話をしにきたんですから」
ジョッキをテーブルに置きながら、松宮は無理やり話題を転換した。
ダイチはそれをきっかけにして、ずっと燻らせていた質問をようやく口にした。
「松宮先生は、去年一昨年と、橄原の担任でしたよね」
「ええ。仲が良かったというわけでないのですが、三者面談なんかはやってますから、他の先生よりは彼のことを知っていると思います。もちろん、進路のことも」
本題に入ると、自然とダイチの背筋が伸びた。
思い出されるのは、放課後の教室と、男女の会話、そして不自然な静寂だった。
「彼、『あのプロジェクト』の最終候補に選ばれているんです」
店員が冷奴とだし巻きを運んできた。松宮は会釈をしたが、ダイチは動けなかった。
松宮のいう〈プロジェクト〉とは、今日本で一番話題になっている、いや、物議を醸している……ミナト個人とは比べ物にならないぐらい、様々な噂と疑念の飛び交う〈オリーブ・プロジェクト〉のことだ。
「あくまで最終候補ですから、まだ決定はしていないんですよ。でも、本人は行く気満々みたいで。大学のことも全く考えていないんです」
眉間に皺を寄せた悩ましげな表情は、それだけミナトとの話し合いが難航したことを示していた。
「参加するとなれば地球を出なければいけませんもんね。確かに大学どころじゃない」
相槌を打ちながら、ダイチはプロジェクトの概要を頭の中で整理した。
十年前、地球から遠く離れた場所で発見された惑星。
その場所は限りなく地球に近い環境で、大気も水も安定している。それなのに、生物が存在しない。人類が地球以外の移住地を手に入れられるかもしれない大チャンス、これを実現するするために調査をするのが、プロジェクトの大まかな内容だ。
宇宙飛行士や専門家からだけではなく、一般人からもメンバーを募っているのは、とある重要な理由がある。
「行くと決まれば、そうですけど。橄原くんはまだ、学力テストと体力テストの二つをクリアしただけなんですよ。最終候補に残る人は結構多いって聞きますし、最後のテストは一番の難関なんでしょう? そこでほとんどの人が落とされるっていうのに」
愚痴を言っているのか、心配をしているのかわからない口調で、一息に松宮はそう言った。
「適性検査、でしたっけ」
「そうです。これは勉強や運動みたいに、鍛えてどうにかなるものでもないって聞いてます。生まれたときにはもう決まっているものだそうで。全体に比べて人数が少ないから、宇宙飛行士や専門の職業のみで考えると数が足りない。だから一般の人からも募集している。絶対通過する、なんて言い切れないはずなんです。どうしてあそこまで自信があるのか」
「その……適性検査って」
ダイチは珍しく、話題に興味を持っていた。特別補習を担当する生徒に関わる事柄だから、知っておいた方がいいと判断したのではない。ダイチ自身が、その詳細を知りたいと思ったのだ。
「具体的には、何を調べるんですか」
「それが、秘密なんですって。二つのテストを通過した候補者にしか知らされないらしくて」
言いながら、松宮は取り分けるために用意された割り箸で切り分けただし巻きを、自身の前の小皿に移し替えた。
「本当に、訳わからないですよ。進路のことも、今回のことも。現代文だけ十点なんでしょう? 橄原のことですから、狙わないとそんな点数取れませんよ」
「あの」
「はい?」
「松宮先生は、橄原のことを良い風に思ってないみたいですが、それは、どうしてですか」
「……ええと、そう見えますか」
「はい。橄原の悪口を言っている教師なんて初めて見ました。俺が知らないだけなのかもしれませんが」
松宮は悪い人間ではない。様々な性格や生き方に理解があり、生徒からも人気が高い。少々大雑把なところもあるが、適度に雑なところが親近感を覚えさせるのだろう。
だから、彼が生徒の悪口を言っていること自体が妙だった。
橄原ミナトは悪い噂が流れているとはいえ、優しげな少年と評される通り、人当たりはとてもいい。ゴシップ的に噂を囁くものの、橄原を明らかに目の敵にしたり嫌悪している生徒も教師も、ダイチは見たことがなかった。
だからこそ、どんどんわからなくなっていく。橄原ミナトという人間が。
どうして彼は、自分と二人きりになるような場を作ったのか。
「……すいません。教師失格ですよね、特定の生徒に対して苦手意識があるなんて」
松宮は自分を責めるような口調でありながら、どこか不満げだった。まるで、自分が間違っているのではないと拗ねる子供のような顔をした。
「正直、僕は橄原くんに嫌われている気がするんです。だって、他の先生や生徒への対応と、僕への対応が、どこか違うんですよ。橄原くんは、僕にだけ当たりが強いというか……言葉遣いそのものは変わらないんです。でも、嫌っているようなオーラがある」
本当に子供のような言い訳をしたので、ダイチは意外に思った。少なくとも松宮は、駄々をこねるような幼い大人ではなかったはずだ。
「加欖先生、橄原くんの目をみたことがありますか? 彼の目、とても綺麗なんですよ。だからこそ怖くて。まるで宝石みたいな……というと凡庸ですが、本当にそうなんです。ちょうど、プロジェクト・オリーブのあの星みたいに。研磨された最高級のペリドットみたいに……僕の思惑も視線も、全部反射して取り込んでるみたいで、なんだか、こう言っちゃいけませんけど」
松宮は少し言い淀んだ。
「気持ち悪い、っていうか」
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