気持ち悪い先生と気持ち悪い僕はあの星で愛と呪いを分かち合う

@magyaku

第1話 加欖ダイチ


 青柳高校は、地域でも有名な進学校である。

 数々の有名大学への合格者を輩出してきたこの高校には、生徒へ勉強に適した環境を与え、考え方を常に更新し続ける優しさと、結果を残さない者は容赦なく切り捨てる厳しさが共存している。生徒のためを思って接することのできる律儀さを、二百年の歴史の賜物と褒める人もいる。

 けれど、この世界の二百年は、今までの歴史のどの二百年よりも価値がなく、進歩のない二百年だった。だから、青柳高校が二百年やってこれたのが、ただ変化がなかったから、という理由だとしても何ら不思議ではない。


 加欖ダイチは、青柳高校で現代文の教師をしている。教室と教室を行ったり来たりして目まぐるしく生徒を教えながら、一つのクラスの担任を受け持っている。その仕事量は、一般企業ならばブラックと言われておかしくないほどの激務だ。

 しかし、ダイチは教師になりたての若造ではないので、この忙しさにもだいぶ慣れている。なにせ、今年の夏で四十二になる。生徒からも、間違いなくおじさん教師と認識されていることだろう。

 そんなおじさん教師には、全く初めての業務というのはあまり回ってこない。子供とはいえ人間を相手にする職業なので、毎日が全く同じというわけではないが、新鮮かと言われるとそうではない。大体のことには対応できるし、そもそも職員室にいる同僚に対しても、教える側であることがとても多い。

 けれど、こればかりは初めてだった。


「橄原ミナト……」


 思わず、その生徒の名前を呟いてしまった。

 時刻は十七時を回っていた。青柳高校は部活動があまり盛んではないため、教室へと繋がるドアがいくつも並ぶ廊下はがらんとしていた。窓から差し込む夕焼けが辺りをオレンジ色に染め、いかにも夕方特有の切なさを感じさせる風景の中を歩いているダイチだったが、そんなことは全く気にならなかった。

 橄原ミナトは、ダイチの受け持つ三年一組の生徒だ。礼儀正しく、優しげな雰囲気を纏う穏やかな少年。去年までは成績も優秀で、テスト結果も常に上位に食い込んでいた。

 しかし、三年生に進級して初めてのテストでは、残念ながら成績上位者になれなかった。

 ダイチは今、三年一組の教室に向かっている。初めてのこと、に気を取られたせいか、普段はしない忘れ物をしてしまったのだ。明日の準備に必要な資料を、うっかり教卓の上に置きっぱなしで出てきてしまった。

 ちなみに明日の準備とは、授業の準備ではない。

 橄原ミナトの特別補習の準備だ。

 ミナトは、ほとんどのテストで九割以上の高得点を取っておきながら、ダイチの担当する現代文の点数だけが極端に低かった。いや、極端なんてものではなかった。誰がどう見ても不自然で、意図的と感じられるものだった。

 ある一定の点数を切ると、生徒にはペナルティとして『特別補習』が課される。真剣に勉強していれば取るはずのない点数だ。ミナトのような優秀な生徒ならば尚更、どう考えてもわざと回答用紙を埋めなかったとしか考えられなかった。

 あと数メートルで教室にたどり着くというところで、ダイチは足を止めた。

 無人のはずの教室に、誰かがいる。

 生徒が自分と同じように忘れ物をしたのだろうか。

 だとしたら、さっさと机から目当てのものを取り出して出ていくはずだ。しばらく待ってみるが、気配は動く様子がなかった。

 教室の中の気配は、もはや気配ではなかった。声として直接、ダイチにその存在を主張していた。

 その声は怒声だった。明らかに、特定の人物に向けられたものだった。人前で聞かせていいものとは到底思えない。


「なんとか言ったらどうなのよ!」


 ダイチは思わず唾を飲んだ。叫ぶ声に全く聞き覚えがなかった。

 それは明らかに、大人の女性の声だった。成長途中の高校生とは、明らかに質が違っていた。ということは、少なくとも忘れ物を取りに来た生徒ではない。

 校内にいる大人の女性といえば、残りは教師か事務員ということになる。聞き覚えがない以上、教師という可能性は低いだろう。だとすれば事務員の誰かだろうか。しかし、事務員の仕事に教室へくるような用事はないはずだ。ましてや、怒鳴るようなことなんて。

 自分が担任を受け持っている教室で起きている揉め事なのだから、ドアを開けて喧嘩らしき言い争いを仲裁した方がいい、とダイチは直感した。

 しかし、体が動かなかった。恐怖ではない。焦りでもない。この感情を目の前にするたび、ダイチは自分の性格に嫌気がさす。


「僕が悪かったよ」


 次に聞こえてきた声は、女性のものではなかった。

 ダイチは息を呑んだ。


「君をそんなに悲しませてしまうなんて、思わなかったんだ」


 悲しみを滲ませながらも、はっきりと発音される言葉。低くもなく高くもなく、耳に心地いい響きの声。大人と子供の間を彷徨っている少年だけが持つ不安定さを、音にすればこのようになるだろう。

 それは橄原ミナトのもので間違いなかった。


「思わなかった? 嘘、他の女の子と二人っきりで、こんなに近くで歩いている。この写真に至っては、二人はキスをしているのよ。私のことを少しでも思い出していたら、こんなことをしようとは思わないでしょう!」


 何かが叩きつけられる音がした。備品の机が壊れていなければいいが、とダイチは思った。


「まず、この子は知り合いで、恋人でもなんでもない。そういう関係にもなっていないし、最後のキスは迫られて無理やりされたものだ。それに、僕たちはこの後すぐに解散している」

「言い訳なんか聞きたくない! 女の子と二人きりで出かけること自体おかしいとは思わないの!」

「思わないね」


 ダイチはいつドアを開けようか迷っていた。何か大きな問題を起こされる前に、注意と事情を聞くぐらいで済む今のうちに介入するべきだという自分と、全て聞かなかったことにして逃げてしまえ、うまくいけば見て見ぬふりができるぞ、という自分が頭の中で戦っていた。


「なっ……」

「思わない。以前の僕なら。でも、今は違う。君が僕のことを好きなんだって理解した今なら、他の女の子と手を繋いで歩くなんて最低だと感じる」


 一歩、二歩、ドアの向こうで足音が聞こえる。


「やっぱり、僕が悪い。きちんとした告白をしていなかったから、ずっとすれ違っていたんだね。そもそも、あなたが僕のことを好きだなんて考えもしなかったんだ。どこにでもいるただの高校生を、あなたが好きになるなんて……」


 女性はさっきから一言も話していない。

 ダイチは段々と理解しはじめた。ミナトは女性を言いくるめている。言葉だけでこの状況を丸く収めようとしている。そして、その作戦は成功している。


「これからは、ちゃんとした恋人になってくれませんか。そうしたらもう僕は、あなたのことだけを特別扱いすると約束します」


 それから、少しの沈黙があった。

 ダイチは奇妙な静寂に妙な危機感を覚え、できるだけ足音を立てないようにしてその場から離れた。下の階へ向かう階段を目指して一目散に歩いた。

 結局自分は逃げてしまった──今までのダイチなら、そう感じていただろう。

 薄情で、面倒くさがりで、人の感情の機微を察することが苦手で、人と人とのやりとりを物事としか捉えることができない自分に、ため息をついていたことだろう。

 けれど、今はそうではなかった。

 橄原ミナト。彼はきっと、あの場を穏便に収めることができた。女性の求める言葉を正確に選び、自身の魅力を理解して正しく使うことで、『誑かし』たのだろう。しかし、そこに彼女への愛はない。ただひたすらに保身に走っただけで、相手のことなど一ミリも考えていない。

 彼らの事情を何一つ知らないのに、どうしてそんなことが言えるのか。これはもう、直感としか言えない。それも、同じものを持つ同士にしか伝わらない直感。

 ダイチにはわかった。橄原ミナトは自分と同じように、面倒ごとを回避するための嘘に躊躇いがないタイプだ。そんな彼が、わざわざ自分の教科でだけ低い点数を取り、特別補習に持ち込んだ理由とは一体なんだ。

 ダイチはとにかく職員室へ向かった。未だに多くの教員が机に向かっていて、ダイチが肩で息をしていることには気づかない。

 見慣れた自分のデスクに向かうダイチの頭の中は、橄原ミナトのことでいっぱいだった。

 穏やかで、成績優秀な少年。一方で、悪い噂もちょくちょく耳にする危うい存在。

 腕時計を見た。酷く動揺する持ち主のことなど知らないカラクリは正確に動き続けている。あと五分したら、もう一度教室へ戻ってみようと決めた。

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