50. 芸人なら、泣いている人を笑わせろ

 ぼくからの電話に出てくれるか、出てくれないか。その声を聞くことができる確率は、二分の一だ。だけど、そういう確率とはべつに、百パーセント出てくれるのではないかという信頼があった。そして、その信頼が立ち消えてしまうことはなかった。


「ユーリ、どうした? 今日は〈オンワン〉の予選じゃないのか?」


 その声を聞くと、目がじんじんと痛んで、瞬く間に涙がこぼれてきた。安心したのだ。うす暗い霧のなかを彷徨さまよっているうちに、晴れ渡る草原へ抜け出したように、ほっとしたのだ。ひくひくと肩が痙攣けいれんする。


 せっかく出てくれたのに、なにも言葉を切り出すことができない。そんなぼくを、絶叫さんは、泣きやむまで、静かに見守ってくれている。


絶叫ぜっきょうさん……」


 名前を呼ぶことしかできなかった。それに続く言葉は、土の中か雲の上にあって、つかみ取ることができない。


「これから、ひとを笑わせにいくやつが、泣いててどうするんだよ。泣いているひとを笑わせるのが、俺たち芸人だろう?」


 身体を震わせて荒い呼吸をするだけのぼくに、芸人の心構えを語りかけてくれる絶叫さん。


 ほんとうにその通りだ。これから、おもしろいことをしようとしているやつが、笑ってないでどうするんだ。いい加減に泣きやめよ、ぼく。涙をいて、立ち上がれよ。


「ユーリ、いまはネタのことだけを考えろ。大丈夫。即興で漫才ができて、ネタを作り続けて、真剣にお笑いに向き合っているユーリなら、きっとうまくいくから」


 ぐだぐだと話をしていてもしかたがない。そう言って、絶叫さんは一方的に通話を切った。ツーツーという音が、繰り返し鼓膜こまくを突いてくる。よろよろと、立ちあがった。ようやく、足が踏ん張ることを思いだした。


 昼ごはんを食べている暇はない。手提てさげを肩にかけて、雨がざあざあと降り出す前に、早足で会場へと歩を進めていく。泣き止んだばかりで、のどの奥がひりひりとして、目がじんじんとしている。たくさんの視線が、ぼくをとらえてくる。


     *     *     *


 ネタを披露ひろうするのはトリの前ということで、待機室たいきしつで身体を休めて、自分の番を待つ。奇抜な格好をした人も多いし、ヤバいことを口走っている人もたくさんいる。なんなら、動物もいる。


 噂に聞いていた通り、〈オンワン〉の1回戦は、とんでもなくカオスだ。地下にもぐっている「鬼才」たちが、自分の追究しているお笑いを披露している。ここで落とされてしまう芸人は少なくない。


 舞台から笑い声が聞こえてこないことが多々ある。とがったネタをしている気配だけは伝わってくる。斜交はすかいにあるコンビニで買った水で痛み止めを飲むと、間もなく眠気が顔をだしてきた。


 予選会場に行きたいというワガママを聞いてもらう条件として、必ず薬は飲むようにきつく言われている。というより、これを飲まないと、思わずうめき声を出しそうになってしまう。


 絶対に考えないようにしていたことが、ここにきて思い出されてきた。もう会場まで来ることができたという安心感からだろう。


(ムリをしてでも予選会場に行くべきだったのか? 来年でもいいんじゃないのか? そうした方が、しっかりと準備をしたネタを披露できるんじゃないのか? この身体中の傷は、こういう弱気を正当化できるほどのものじゃないのか?)


 こんな考えが頭の中を満遍まんべんなく支配してしまえば、〈オンワン〉の予選に出ると強く決意したあのときの自分を、いとも簡単に否定してしまうことは容易たやすい。


 だから、初心だけを考えるようにした。もう、ネタを披露しないという選択肢はない。


 眠気を振り払うために、フリップの整理をして、小声でセリフを暗唱する。もっちゃん主催の合同ライブでしたネタを、スマートにしたものを、このあと舞台の上で披露する。こぢんまりとしてしまった印象があるけれど、分かりやすくはなった。


 なぜなのだろう。こんなときに、この場とはまったく関係ないことが、記憶の底からひょっこり顔を出してきた。


芽依めいの誕生日に、なにを贈ろうかな)


 思わず、クスッと笑ってしまった。なにを考えているんだ、ぼくは。だけど、すっと緊張がほぐれていくのを感じた。

 ちょっと、かっこつけてみようか。


(二回戦に勝ち上がる。それが、ぼくからのプレゼントのひとつだ)

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