たとえ破滅するとしても婚約者殿とだけは離れたくない。だから、遅れてきた悪役令嬢、あんたは黙っててくれないか?
桜枕
第1章
第1話 ゲームの中に転生してた
ピロン!
【ようこそ、『ブルーローズを君へ』の世界へ。あなたはブルブラック伯爵家の嫡男です。あなたの婚約者はこのゲームのヒロインですが、あなたの素行不良により婚約は破棄され、他の男性とハッピーエンドを迎えます】
気持ちの悪い浮遊感と聞き慣れない電子音。
無機質な声が淡々と説明文を読んでいるようだった。
ピロン!
【主な原因はあなたの情欲です。つまり下半身のだらしなさにより、その身を破滅させるのです】
意味の分からないことを言う電子音はそこで途切れた。
すっと目を開ける。
俺の部屋じゃない。直感的にそう思った。
「ウィル? どうしたの? 気分が悪くなっちゃった?」
弱々しくも優しい声。
ベッドから体を起こした女性は手招きして、俺の頭をそっと抱き締めてくれた。
ここは俺の母の部屋だ。
だけど、本当の母ではない。俺の母はこの世界にはいない。
だって俺はこの体に転生しているのだから――。
「お、お母様?」
「はい。あなたの母ですよ」
何がきっかけになったのか分からないが、俺の中にあるもう一人の記憶を取り戻した。
日本、下校中、交通事故。この世界にはない言葉たちが浮かび上がってくる。
「ウィルフリッド。私の可愛い息子」
そう言いながら頭を撫でてくれた。
ここはどこだ。
俺がこの世界の住人ではないことはおぼろげに分かった。でも、ゲームの中だと言われても実感がなかった。
『ブルーローズを君へ』なんてゲームは聞いたことがない。
あの電子音によれば俺には婚約者がいて、いずれは破滅するらしい。
しかも、俺の性欲によってだ。
ふと自分の体を見下ろしてみる。
ウィルフリッド君の記憶通りなら年齢は九歳。
元の世界では小学三年生。こんな時期から下半身の心配をする子供なんていないだろう。
少なくとも当時の俺はそんなことを考えたことはなかった。
ウィルフリッド君の母にちょっと待って、と断って部屋に置かれた全身鏡で自分の姿を確認する。
強気で生意気な目元は直前まで泣いていたのか目尻が赤くなっている。
ぷにぷにのほっぺに、つやのある紫がかった黒髪。
念のために頬をつねってみる。当然のように痛い。
髪にも触れてみれば絶対に指先が絡まることはなかった。
「これが、俺?」
全身をぺたぺた触りながら鏡の前でクルクル回り始めた俺を不審に思ったのか、母は心配そうに眉を下げた。
「ウィル、お父様の稽古で頭でもぶつけたの? それなら早く冷やした方がいいわ。すぐにセバスチャンのところへ行って」
そうだ。
俺は父に剣の稽古をつけられていた。
やりたくもないのに無理矢理に強いられ、怒鳴られながらボコボコにされたから逃げ出したんだ。
そして、病床に伏せる母の元を訪れた。
「いや、大丈夫。もう平気だから」
「どこが平気なものですか。話し方も随分と大人びてしまって。お顔をよく見せて」
そうだ。今の俺は九歳の子供だからこんな話し方はしなかったはずだ。
それにここはどう見ても庶民の家ではない。
俺は伯爵家の長男らしいからそれなりの教養を身につけているが、まだまだガキだ。猫を被らないと。
「ううん。本当に平気だよ、お母様。やめてよ、くすぐったいよ」
声代わりのしていない幼く高い声で、すらすらと出てくる
しかし、これらは母だけに向けられるもので、その他の家人にはもっとつっけんどんな態度を取っていることを思い出した。
「お父様は少し厳しいところがあるから。でも、これだけは分かって頂戴ね。お父様はあなたが憎くてやっているのではないの。全てはこれからのブルブラック家のことを思ってのこと。あなたには辛い思いをさせてしまうけれど、どうか耐えて。立派な貴族の仲間入りを果たして欲しい」
母は何度も涙声で謝り、励まし続けてくれた。
俺はこの人の息子であって息子ではない。
それなのに、こんなにも胸が熱くなるのはウィルフリッド君の気持ちが強いからか、それとも前世の俺が母の愛に飢えていたからか。
「ありがとう、お母様。もう行きます。体調が悪いのにごめんなさい」
「いいのよ。辛いときはいつでもいらっしゃい」
俺は名残惜しつつも母の元を離れ、部屋から出た。
今更、父親の待つ中庭に戻るのは気まずいが、これ以上の逃げ場はこの屋敷内にはなかった。
「探しましたぞ、坊ちゃま! 急いでお戻りください。これまで勉学、剣術、魔術から逃げておられましたが、旦那様が戻られた今、それも通用しません。私めにできることはもう……」
息を切らして廊下を走ってきた初老の男性。イメージ通りの執事姿に思わず、口を開けてしまった。
このままではいけない。訳も分からない世界で人知れず破滅などできるものか。
ぴっちりと口を閉じて、生意気な目つきで執事長を見上げる。
「セバス、僕はもう逃げも隠れもしない。ブルブラック伯爵家の長男として、心を入れ替えるよ」
「ぼ、ぼぼぼぼ、坊っちゃま!? 何があなたを変えてしまったというのでしょう! あの怠惰で傲慢なブルブラック家の恥さらしとまで言われた坊っちゃまが!?」
この人、本当にこの家の執事長か?
本人を目の前にして、ものすごく失礼なことをペラペラ言っているけど。
「なんでもいいよ。とにかく中庭へ行くから」
膝から崩れ落ちそうな勢いのセバスを置いて、廊下を進む。
この日から周囲の俺に対する評価が一変した。
この世界の言語、剣術、馬術、礼儀作法などなど。
ありとあらゆる勉学と実技に励んだ。
最初なんて、五分もの短い時間を机に向かっただけで周囲が
メイドは顎が外れるほど口を開けたし、執事は泣いて喜んだ。
家庭教師は俺の両手を掴んで、「よくぞ!」と感涙を流したほどだ。
俺のやる気がない、と諦めていた家庭教師は俄然燃えて問題を出すようになり、反対に堕落しきっていた家庭教師は父にチクって解雇にしてもらった。
代わりにやってくるのは、やる気と情熱のある家庭教師だ。
彼らのレベルアップに伴い、俺の学習レベルも上がるという熱血スパイラルが加速する。
父はいつの間にか口癖だった「嫡男なのだから!」を言わなくなり、かつてないほどに甘いご当主様になった。
周囲の者からすれば、それが本来の父の姿らしい。俺への期待が大きすぎた反動が一時的に父を変えてしまったとか。
だが、彼らはまだ気づいていない。
なぜ俺がこんなにも一生懸命なのか、ということに。
ふふふ。
俺は破滅したくないのだ。
俺の脳は頭にある! 決して下半身ではない!
あの日以来、聞こえてこない電子音を信じるならば、俺自身に暇を与えなければいい。思考をピンク色に染めなければいいだけの話だ。
元々が彼女いない歴=年齢の俺だ。
自分自身を制御する手立ては確立している。
婚約者殿の顔は思い出せないが、他の男性とハッピーエンドを迎えられる程度には可愛いのだろう。
だが! 俺は決して婚約者殿には屈しない!
そして、他の女子にも屈しない!
メイドさんだろうが、女家庭教師だろうが、貴族令嬢だろうが、絶対にだ!
そう意気込んだばかりなのに……。
慌てたメイドに連れられて玄関に行ってみれば、見知らぬ男の背中に隠れる小さな子供がいた。
チラチラみえるピンクブロンドの髪がかすかに揺れている。
緊張している?
いや、怯えているのか?
すぐさまウィルフリッド君の記憶を遡ってみれば、彼女には初対面で最低な対応をしていたことが発覚した。
「こんにちは、ウィルフリッド君。あなたが変わったと聞いて来てみたが本当のようですね。目つきが全然違う。ほら、リューテシア」
イケオジに背中を押されて前に出た女の子は天使だった。
自分と同じ空気を吸って生きているのか不思議になる容姿の女の子は、不安げに瞳を揺らし、小さくつぶやいた。
「お久しぶりです、ウィルフリッド様」
「あ、あぁ。お、お久しぶりでございます」
度肝を抜かれた俺は掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。
拝啓、親愛なるお母様。
あなたの息子は今すぐにも破滅してしまいそうです。
これは何かの罰なのでしょうか。
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