第一章 侯爵家へ契約婚!?⑬

 侯爵家で厨房を任されるほどの腕利きの料理人たちの目が注がれる中、一人で調理するのは緊張する。

 しかし、厨房に立った瞬間、多恵の意識は目の前の食材に吸い込まれるように集中していく。ザワザワと話す料理人たちの声も、いつしか聞こえなくなっていた。

 まず、土鍋にみずがめからくんだ水を入れてかまどにかけた。

 定食屋では出汁をとるときは昆布を使っていたが、昆布はうまみを引き出すためにはしばらく水に浸す必要がある。いまは時間がないため、かつおぶしを使うことにした。

 鰹節の塊を手に取り、鰹節削り器で手際よく削っていく。すぐに削り器には香ばしい削りたての削り節が山盛りになった。

 それを沸騰してきた土鍋の湯の中に投入し、を取りながら出汁をとる。削り節を丁寧に取り除くと、黄金色をした出汁が出来上がった。

 次に、大きなわんに卵をいくつか割って、さいばしでかき混ぜる。ある程度卵が溶きほぐせたら、今度は左手で斜めに抱えるようにして椀を持った。

 さっきとは違い、溶いた卵を菜箸で持ち上げるようにしながら円を描くように極力早く手を動かしてかき混ぜはじめる。こうやって、溶き卵の中に空気を含ませていくのだ。

 しゃかしゃかと小気味よい音をたてて、菜箸で溶き卵を混ぜ続けた。これが結構根気のいる作業なのだが、多恵は疲れも見せず手早く作業を続ける。

 周りで見ていた料理人たちは、多恵の手際の良さにしだいに目をきつけられていった。

「ほぅ……」

 嘉川の口からも、声が漏れた。しかしその声すら、多恵には聞こえなかった。

 そうしているうちに、溶き卵は濃い黄色から薄い黄色へと変わってくる。全体に小さな泡が沢山たってかさもましてきた。ふわふわもこもことしたそれは、もはや普通の溶き卵とはまったくの別物になっていた。まるで丹念に泡立てたせつけんの泡のような姿をしている。

 最後に、丹念にかき混ぜて泡状にした溶き卵を、熱々の出汁が香る土鍋のなかにお玉ですくいあげて投入し、すぐにふたをした。こうして出汁の蒸気で、泡状の溶き卵を蒸し上げるのだ。土鍋を手早く火から下ろして、台の上に重ねた布巾の上へと置く。

 数分待てば、できあがり。

 そこでようやく一息つくと、多恵は嘉川たちの方に顔を向けた。

「さあ、できました」

「こ、これでもうできあがりか? ああ、えと、ここでもらうよ」

 嘉川は狐につままれたような顔をしながら、台の前に椅子を置いて腰かけた。

 多恵は土鍋を、嘉川の前に置く。

「どうぞ、お召し上がりください」

 多恵が土鍋の蓋をあけると、ふわりと湯気が立ち上った。

 土鍋の中でできあがったものを見て、嘉川の後ろからのぞき込んでいた料理人たちから驚きの声があがる。

「な、なんだこれ!?」

「こんな料理みたことないぞ……」

 土鍋の蓋をあけると、土鍋一杯に薄黄色くて、ふんわりもこもことしたものが見える。泡状に溶いた卵がそのまま蒸しあがって、土鍋の中を黄色い綿菓子が覆っているような見た目となっていた。たっぷり空気を含ませて溶いてあるので、このように卵がふわふわとした形になるのだ。

 レンゲを差し入れると、ふわふわの卵の下にじゅわっと出汁が染み出してくる。

 出汁と一緒に卵を取り椀へと取り分けて、嘉川に差し出した。

「食べてみてください」

 多恵が促すと、ぜんとしていた嘉川は椀を手に取る。

「あ、ああ……それじゃあ」

 嘉川はレンゲでふわふわとした卵をすくい取ると、口に入れた。

 しんとした静寂がちゆうぼうに漂う。誰もが嘉川の反応を待っている。

 数秒あって、嘉川がうめくようにつぶやいた。

「……うまい」

 そう言ったかと思うと、いっきに取り椀の中身を食べ終えた。そして、しみじみとした口調で感想を述べはじめる。

「こんなに口当たりが柔らかな料理ははじめてだ。それにの旨みがうまいこと卵の中に溶け込んでいて、いくらでも食べられそうだな。こんな卵料理、食べたことがない。卵と出汁だけだってのに、こんなに美味うまいものがつくれるのか」

 この料理は名を『たまごふわふわ』という。静岡のとある宿場町で親しまれている料理なのだそうで、以前、定食屋に来ていた静岡に地元を持つ常連さんが、またあの味が食べたいとしきりに言っていたものだった。

 その人からどんな料理なのかを聞き取り、試行錯誤を重ねてつくりあげたのが、この料理だ。その人からも地元で食べたのと同じ味だとお墨付きをもらっている。

 それからは、定食屋のお品書きにはないものの、注文する人が絶えない人気料理の一つになっていた。

 嘉川は出汁までれいに飲み干すと椀を多恵に差し出す。

「お代わりをもらえるか?」

 緊張していた多恵の顔にも笑みが広がり、「はいっ」と元気よくこたえた。

 それを皮切りに、様子を見守っていた料理人たちも我先にと多恵の下へ寄ってくる。

「お、俺ももらってもいいか?」

「ずりぃぞ! 俺だって!」

「こっちも頼む!」

 一人一人に椀へ取り分けて渡すと、あっという間に土鍋は空になってしまった。

 料理人たちはみな美味おいしそうに夢中で椀をきこんだ。

 その姿を見ていると、熱い想いがこみ上げてくる。

 この屋敷にきてから、はじめて聖以外の人たちからも自分の存在を認めてもらえたような気がしたのだ。

 目じりににじむ涙をこっそり指でぬぐっていると、お代わりも食べ終えた嘉川が多恵に話しかけてきた。

「あんたの手際の良さも味加減も見事だった。素朴なものにこそ料理人の腕の良しあしが如実に現れる。この腕は一朝一夕に身に付くもんじゃねぇな。まして深窓のご令嬢がたしなみ程度で身に付けられるもんでは到底ありえねぇ。ずっと長い年月かけて真剣に向き合ってきたもんにしか出せねぇ味だった。……あんたさん、何者だ?」

 眼光鋭く尋ねられて、多恵は目をらしながら口ごもる。

「あ、えと……」

 多恵の様子を察して、嘉川は手で制した。

「ああ、やっぱいい。人に言えねぇ事情もあるだろう。それより、約束だ。この厨房、奥様の好きに使ってくれてかまわない。やかた様の奥方に腕試しさせるような生意気な真似しちまってすまなかったな」

 嘉川は、多恵に対して深く頭を下げた。

「あ、え? えと、あ、あたま上げてくださいっ」

 どうしていいのかわからず狼狽うろたえる多恵に、嘉川は顔を上げると険しかった顔をほころばせた。

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