第52話 小酌の終わり

 かつて、戦場に自ら赴こうとした母の言葉が過る。


『私は、女王という地位を前線に出てはいけない理由にする気はない』


 六師である自分が戦場に出て直接指揮を執らないのは筋違い。

 生真面目な性分からあの言葉が発せられたのだと思う。それは確かだ。

 しかし、それと同時に王という身分にとらわれて、本心を押し留めることもまた違うという意味もあったのではないだろうか。


 剛毅果断な母は、どんな場面であっても己の意志や感情を明確にしていた。決して、『自分』を押し殺さなかった。

 そんな母を、幼いながらも自分は敬愛していた。


「……なるほど。お前の気持ちはよく分かった」

「自分の気持ちはまだよく分かっていないみたいだけどな」


 さりげなく返された皮肉に反論しようとしたが、彼の言うことは正鵠せいこくを射ていたので渋々閉口する。しかし、すぐに理玄は微笑を浮かべた。


「ありがとう。仁鵲」


 面と向かって感謝の言葉を送られ、商風は気恥ずかしそうに再度頬を掻く。


「お前から素直に感謝されるのは、一体いつ振りなんだか……。まあ、本当に桂華国が再興されれば、お前たちの恋に誰も文句は言わないと思うけどな。あ、でもまだ白琳様がお前を好いていると決まったわけじゃないか」

「本当に口だけは達者だな」

「口だけはって何だよ。これでもお前の右腕として国政を担っているんだが?」


 おーい、聞いてるか、と酒興でほんのり赤くなった顔をこちらに向ける仁鵲だったが、理玄は眼中に置かずに内心独り言ちる。


 ――だがまあ、仁鵲の言うことも一理ある。


 両国が統合されるということは、それぞれの独立した王朝が消えるということ。そうなると、むしろ理玄たちの婚姻が国政的に推進させられる可能性も否めない。

 銀桂と金桂の血が交わった、新たな王族による統治が基盤となるだろう。


 ——あまり政治と恋愛を結びつけたくは無いが。


 少なくとも民の祝福を得られるのは、桂華国を再興させ、平和の礎を築いた後だ。それまで、自分たちが生きていられるかどうか。


 ――いや、そもそも恋愛関係ではないのだから……!


 理玄の百面相に、仁鵲は相変わらずにやりと口の端を吊り上げて席を立つ。


「じゃ、そろそろ俺はお暇させてもらうよ。時間も遅いことだし」


 空になった酒杯と余った金花酒を手に、回廊の方へと体を向ける。


「お前のおかげで良い月見が出来たよ」

「待て」


 親友の退出を制止し、理玄は王としての威厳ある面持ちに引き締める。

 仁鵲は振り返って理玄を視界に入れるや否や、丞相特有の聡敏な目付きに変わった。


「例の件はどうなっている」

「ああ……。俺の目からすれば、今のところ何の動きも無いように見えるけどな。強いて言えば、蒼鷹殿と鶖保殿の白琳様や俺たちに対する態度がきついから怪しいと言えば怪しいけど、お前たちが街に行っている間も特に変わった様子は無かったし。というか、こういうのは義隼さんの管轄だから、あの人の方がいち早く何か察知してるかもしれないな」

「そうか」


 白琳と金苑にいた際に聞いた、謎の足音。

 まさか、翡翠が心配でたまらなくなって思わずついてきたのではないかと、白琳との話し合いを終えて秋光殿に戻った後、念のため足音について聞いてみたのだが、


『いくら私とて、そんな無粋な真似は致しません』


 と、予想通りの答えが返ってきた。


 生真面目で誠実な彼が、平然と嘘をつくとは思えない。

 理玄は三公を収集し、足音の件について話した。そして、御史大夫である義隼を中心に、それとなく銀桂の三公陣と侍女二人を監視しておくよう指示した。自分と白琳の二人で話し合いをすると知っていたのは、金桂の三公身内と翡翠を除いてあの三人と、梟俊から事情を聞いただろう侍女二人しかいない。


「義隼と紅鶴にも後で聞いておく。明日には彼らもここを発つが、最後まで気を抜かないようにしてくれ」

「分かった」


 じゃあな、と仁鵲はひらひらと手を振りながら東屋を後にした。


「……嫌な予感がする」


 一体、足音の主は何を企んでいるのか。何がこれから起きようとしているのか。

 先の見えない未来に懸念を覚えながらも、しばらく金花の舞に見耽ってから理玄も私室に戻った。

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