第5話 お爺さん 前編

「いいお天気ですね」


暖かい小春日和のなか、龍臣が店の前を掃除しようと箒を持って外に出ると、杖を持って帽子をかぶった年配のおじいさんが店先の花壇の脇にちょこんと座っていた。

帽子から見える白髪の髪から、そこそこ高齢だと感じる。

龍臣をにこにこと見上げており、笑顔が可愛らしいお爺さんだと思った。


「こんにちは。いいお天気ですね」


龍臣は微笑み、言葉を繰り返した。

お客さんではなさそうだが、近所の人でもない。見たことがない人だなと思った。

お爺さんは笑顔で頷きながら空を見上げた。

つられて龍臣も空を見上げる。

どこからかさくらの花びらが飛んできて舞っていた。


「こんな日はおばあさんと出会った日を思い出します」

「あ、そうなのですか? 良い日に巡り合ったのですね」


龍臣がそう言うとお爺さんは一瞬、悲しげな表情をした。

それを龍臣は見逃さなかったが、お爺さんは黙ってしまいそれ以上は聞けなかった。

言ってはいけなかった一言だったのだろうか。

龍臣は戸惑い、言葉をかけようとした。


「あの……?」

「あぁ、いやいや。すみませんでしたね、お店の前で」


お爺さんは微笑みながらすまなそうに立ち上がって会釈した。

その顔には先ほどのような悲しげな表情はない。

慌てたのは龍臣だ。


「いえいえ。ウチなんかでよければいつでも休んでいってください」

「ありがとう。でも今日はもう行かなくては。ではまた」


お爺さんは頭に乗った帽子を押さえながら紳士的にスッと頭を下げて挨拶をし、立ち去って行った。


「なんだったんだ?」


お爺さんの様子に首を傾げながら店の中へ戻ると、何かが近寄ってくる気配を感じた。

それは店の奥から真っ直ぐ自分の前までやってくる。

そうか、もうすぐ夕方になるのか、と思う。

その気配に龍臣は微笑んだ。


「おはよう、あずみ。気分はどう?」

「いいわ」


鈴を転がしたような可愛らしい声に、あずみの存在を確認する。

この記憶堂に住み着く幽霊のあずみは、龍臣には姿が見えない。

なのに、声と存在だけははっきりと感じ取れている。

しかし、あずみが幽霊だからと言って、恐怖感など一切なかった。姿が見えないだけで、ただの女の子と変わりないと龍臣は思っている。

箒を片づけようとすると、右腕がほんのり暖かく重くなる。あずみが腕に抱き付いているのだろう。

姿は見えなくても、あずみのしていることが目に見えているかのようにわかるから不思議だ。

龍臣はあずみがいるであろう右腕を見下ろす。


「どうした?」

「ねぇ、さっきのお爺さん、知り合い?」

「見ていたのか。いや、ただの通りすがりのお爺さんだけど」

「そう。棚の中から本が落ちたからお客さんが来たのかと思ったの」

「あぁ、本が落ちたのか」


右腕が引っ張られる感じがして、その感覚の方へ歩いていくと、棚と棚の間に一冊の本が落ちていた。

タイトルはない皮表紙の本。まさしく記憶の本だ。

龍臣はそれを手に取る。ずっしりと重い。


「これ、さっきのお爺さんのかしら?」

「さぁね」


誰の記憶の本かはわからない。きっと2、3日もすれば持ち主が現れるだろう。

しかし、龍臣はこの記憶の本の持ち主がさっきのお爺さんだと確信していた。

なぜそう確信できたかはわからない。

しかし、あのお爺さんに会った今、間違いなくこの本はお爺さんの物としか思えなくなっていた。

この不思議な感覚は言葉では言い表せないが、この記憶堂を継ぐ柊木家の血がそうさせているのだろうかと思っている。

お爺さん自身、さっきは何となくここに近寄っただけだろう。何となく足が向いた、そんな感じだったはずだ。

そしてきっと、今度ははっきりとした意志でここに訪ねてくる。


「あれ、今日修ちゃんは来ないの?」


あずみは今更といった感じで修也を探したようだ。

修也はまだ店には来ていない。


「どうかな、もうすぐ来るんじゃない?」


カウンターに記憶の本を置きながら答えると、「そっか~」とあずみの含み笑いが聞こえた。

と思ったら、今度は胴体が温かくなり、背中に何かが巻き付いた感覚がした。

あずみが抱き付いているとすぐわかる。


「あずみ」


龍臣が呆れたように声をかけると少し拗ねたようなあずみの声が胸元から聞こえる。


「いいじゃない。だってこういう時でしか龍臣に甘えられないんだもの」

「よく言う」


あずみからの好意はもうとっくに知っていた。

だからと言って、相手は幽霊だ。生身の人間ではない。気持ちに答えたところでどうにかなるものではなかった。

だからこそ、龍臣はあずみの背中に手を回せないでいる。


「修也が来るぞ」

「もうちょっと」


龍臣はあずみの姿が見えない。だから今、どんな状態か想像でしか出来ないが、あずみはピッタリ龍臣に抱き付いているのだろう。

しかし、修也はあずみの姿が見える。

二人きりの時ならまだ許容範囲だが、さすがに高校生の修也にこの状況を見られるのは少々気まずかった。


「はい! おしまーい」

「あぁー」


龍臣はあずみを振り切るように身体をよじり、はたきを持って本棚へ向かう。身体からあずみの気配は消え、代わりに後ろで拗ねたような声が聞こえた。

仕方ないだろ、そう思っていると案の定、店の扉が勢いよく開いた。

ほら、来た。


「ただいまー。龍臣君」

「おかえり、修也」


学生服で入ってきた修也は「ん?」と驚いた顔をした。そして軽く後ずさる。


「え? なんで俺、あずみさんに睨まれているの?」


カウンターの横にいるであろう、あずみの場所を見つめて修也は顔を引きつらせる。きっとあずみが修也を睨んでいるのだ。


「気にするな。ただの八つ当たりだ」

「あ、そう」


修也も何か察したのだろう。

あずみが修也に八つ当たりするときは大抵、龍臣といる時を邪魔されたと思っている時だとわかっていた。

タイミングが悪かったか、そう思ったがそれもいつものことであった。

修也はたいして気にする様子もなく、いつものように奥のソファーに身体を投げ出した。

そして身体を伸ばして「うぁ~」とおっさんのような声を出す。


「やけにお疲れだな、今日は」

「う~ん、三者面談だったんだ」

「へぇ、今日か。で? どうだった」


そういえば、先日散々進路に迷っていたなと思い出した。進路希望表と睨めっこをしていたが、提出をして三者面談が行われたのだろう。

つまり、修也のお祖父さんが学校に来たのだ。


「祖父さんに何か言われたか?」

「大学へ行けと言われた」

「そうか」


まぁ、予想通りだな、と龍臣は思う。

修也のお祖父さんのことだ、きっと大学まで入れたがるだろうとは思っていた。蒸発した自分の息子(修也の父親)とは似つかないくらい、厳格で頑固な一面を持っているらしい。


「で? どうすんの」

「夢がないのに行けないって言ったら、大学で夢を作れって言われた」


龍臣も一度言った言葉だ。もちろんお祖父さんもそう言うだろうと予想はつく。きっと教師にも同じことを言われたのではないだろうか。


「へぇ。まぁそれもいいんじゃない? 今の若い子なんてほとんどそんなもんでしょう」

「そうだけど……」


修也はため息をついた。

将来、やりたいことがないのに大学費用をだしてもらってまで行く意味があるのかと悩んでいるのだ。

ただ大学へ行って、なるべくいい会社に就職する。悪いことではないが、夢がない修也にとって、それはお金がもったいない気がしてならないのだろう。

進学するならなにか少しでも目標ややりたいことを見つけたい、そう思っている。

そんな修也を龍臣は羨ましく思った。

将来の夢のことで悩めるなんて羨ましい。

自分は大学は出たけれど、やりたいことなど見つけられなかった。夢を語るより、まずこの店を継ぐ道しか龍臣にはなかったのだ。

小さい頃から祖父にお前はこの記憶堂を継ぐ才能があると言われ、継ぐことは絶対だった。

反発しなかったのは、やりたいことや夢がなかったから。

もしこの家に生まれず、記憶の本を扱う能力を受け継がなければ自分は何になっていたのだろう。


「修ちゃんはバカじゃないんだからなんにでもなれるわよ」

「……なんか褒められているのに言葉にとげがあるよ、あずみさん」

「だって将来に悩むなんて贅沢な悩みよ。ねぇ、龍臣」

「いいんじゃないの、若い子の特権なんだから」


龍臣は苦笑する。幽霊のあずみにそんなことを言われると修也はもう何も言えない。


「まだお前は高校生なんだから、将来何て焦らずゆっくりでいいんだよ」

「うん……」

「そうよう。夢なんて持っても、考え何て変わるものだから。世の中には初めの夢とは全く違う仕事をしている人なんてたくさんいるわ」


あずみはさも世の中を知り尽くしているような言い方をしている。それが少し可笑しく切なくなって修也は「ありがとう」と体を起こした。


「俺にとっちゃぁ、お前なんてまだまだおもらしして泣いている時とそう変わらないからな。そんな子供が自分の将来を決定させるなんてまだまだ早いと思うぞ」

「龍臣君!」

「ぶぶ、おもらししていたの。修ちゃん」

「違うっ!それは小さなころのことだろ!」


修也は顔を赤くして抗議する。それに龍臣はニヤニヤした。


「俺にとってはこの間だけど」

「なにそれ! これだから大人は嫌だよ」


子どもの時となんら変わらない修也の拗ね方にますます龍臣は顔をほころばせた。

二日後。


「ごめん下さい」


午後の陽ざしが降り注ぐ時間に、穏やかな老男性の声が聞こえた。カウンターでうとうととしていた龍臣はハッと顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


逆光でお客の顔がよく見えないが、すぐに先日店の前であったあのお爺さんだとわかった。


「こんにちは」

「こんにちは。店主さん、ここに私の記憶の本はありませんかね? あるはずなんですが」


そう告げたお爺さんに、龍臣は目を丸くする。

ここに「自分の記憶の本」を探しに来たと自覚してくる人は少ない。

大抵は何となくここへ足が向いて、記憶の本を手に取るか、自分の本があるはずなんだがという漠然とした気持ちで来る人が多いのだ。

しかし、このお爺さんは自分の「記憶の本」がここにあるとわかっていた。


「どうしてそう思ったのですか?」

「いえ、どうしてでしょうか。年寄りの感なのでしょうかね。今朝、目が覚めたら、ここに来なくてはと思ったんです。そして、お店が近づくたびに、私は自分の記憶の本を探しに来たと思ったんですよ」


どこかしら戸惑ったように笑いながら、でも確信めいた言い方に龍臣は深く頷く。

お爺さんが言うように、感が鋭いのだろう。

そこに若者にはない、培われてきた人生の重みと感性と……さまざまな物が全て含まれているのだと思う。

記憶の本を自分で探し求めてくる人に年配者が多いのはそこだろう。


「お待ちしておりました。あなたの本はこちらですね」


龍臣がカウンターから本を差し出すと、お爺さんは顔をパッと明るくさせた。


「そうです。私が捜していた本はこれです。これは売っていただけますか?」

「申し訳ありませんがこちらの本はお売りできません」


記憶の本は外へ持ち出すことが出来ない。この店から出ると何故か消えてしまうのだ。

だから売ることが出来ないことになっている。


「そう……ですか」

「かわりに、あちらでお読みいただくことができます」


龍臣はカウンターの先にある、奥のソファーがある読書スペースを指差した。

お爺さんは持ち帰ることができず残念そうな表情をしたが、特に異を唱えるわけでもなく素直に奥へと向かった。


「ではしばしこのスペースをお借りしますよ」


そう告げると、お爺さんは大事そうに革表紙を撫でる。

そして、龍臣を一度振り返ってから、どこか覚悟したようにゆっくりと表紙を開いた。

そのタイミングで龍臣はパチンと指を鳴らすと――――……

スッとお爺さんは目を閉じた。


「いってらっしゃい。気が済むまで視てくるといい」




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