ワイルドハントの黒妖犬
からっ風文庫
第一部序章
石炭の煤が世界を覆っていた時代があった。一九一四年のロンドン。あの頃は夜の霧が死人の肺に残った息のように、病を運ぶと信じられていた。
だから四月二十九日のこの日も、老婆マルガレーテは家族のために家中の空気を入れ替えようと、早朝五時から窓を開けて回っていた。通勤ラッシュで七時には煤埃が舞ってしまう。その前に掃除も終わらせて窓を閉めるのが、マルガレーテの日課だった。
「かわいいお姫さま、入るわね」
五歳の可愛い盛りの孫娘を起こさないようにそっと、二階にある日当たりの一番良い部屋に入り、おチビさんの額にキスをするのも日課のうちだ。暗い部屋のカーテンを音を立てないようにそうっと開けてから、小さなベッドに目を向け、そして眉間に皺を寄せた。ベッドはペッタンコだった。
慌てて布団に手を入れ、まだ温もりが残っているのを確認して、マルガレーテが声を張り上げた。
「アプフェル!いる?!」
一階の、おそらく玄関から、犬が鼻を鳴らす声がした。次いでガチャガチャと慌てて扉を開けようとする音が聞こえてきたので、マルガレーテはスカートの裾をたくし上げて階段を駆け下りた。
「こら!エリーザベト!」
「マルガレーテ、リーザは外には出たのか!?」
夫のヘルマンがパジャマに上着を羽織った格好で、遅れて二階からやってきた。そしてしっかり妻が、五歳の孫娘を捕まえたのを確認すると、残り二段をゆっくり下りながら、優し気な眦を吊り上げる。
「リーザ。一人で外に出るのは悪いことだと何度も教えただろう」
群青の瞳は泣き出しそうなのに、唇を不満げに窄ませて、小さなエリーザベトはヘルマンに対し首を大きく振った。
「アプフェルといっしょだもん」
赤い目の大きな黒犬が名前を呼ばれて鼻を鳴らした。そして謝ったほうがいいよとエリーザベトの頬を舐める。
「アプフェルと二人でも悪いことだと教えたはずだよ」
そうヘルマンが言うと、黒犬のアプフェルはピーピーより激しく鼻を鳴らし、エリーザベトに早く早くと急かす。何度も口を酸っぱくヘルマンが教えたことを、エリーザベトが破ったことをアプフェルも分かっていたからだ。
しかしエリーザベトはしっかりアプフェルに抱き着くと、くぐもった声で言った。
「大丈夫よ、アプフェル。今日こそ二人に分かってもらうわ」
「いいですか、エリーザベト」
我慢がならないとマルガレーテが口を開く。
「貴女はいまいくつですか?」
「もう五歳よ」
「まだ五歳です。十五歳になったら一人でも外に出ていいと、何度も言っているでしょう」
変わり映えのしないマルガレーテの返答に、ますます口を窄めたエリーザベトは頬をリスのように膨らませた。
「どうして十五歳なの?」
変わり映えのしないエリーザベトの返答に、目をつむり天を仰いだマルガレーテから言葉が漏れ出た。
「貴女こそどうしてアプフェルと二人で出かけることに拘るの?」
「アプフェルと二人で冒険がしたいからよ。それも偉大な冒険を!」
ヘルマンがマルガレーテの肩を軽く叩いて引き継いでから、膝を折りしっかりとエリーザベトと目を合わせた。エリーザベトがきつく怒られるのではと心配したアプフェルが、ヘルマンに体を摺り寄せるのを窘めながら、彼は続けた。
「偉大になりたいなら、おじいさまとおばあさまが心配する気持ちを受け入れなさい。お前のお母さまみたいになって欲しくないんだ」
ヘルマンは冬の痛ましい風に晒されたような表情をした。
「何度も言うように、お前の母親のイルゼは社会主義に染まり、処刑をされた。貧しい人のためにばかり心を砕いて、私たち家族のことは鑑みてくれなかった。大事な人のことを一番に考えられる、そんな人が偉大なんだ」
真剣な祖父の目が放つ光の強さに耐えきれず、エリーザベトは目をそらした。
家族の中にその名は時折、冬の冷たい風のように漂っていた。夫妻にとって娘のイルゼは春風のような人だったから余計に、社会主義に傾倒し、処刑された最期が受け入れ難かった。
「でも私は受け入れてばっかりよ」
「分からないなら、分かるまでおじいさまとお話しよう。マルガレーテ、このお姫さまのことは任せてもらえるかい?」
「ええ」
ヘルマンがエリーザベトを抱き上げたのを確認し、立ち去ろうとするマルガレーテのスカートの裾をアプフェルが咥えた。そしてヘルマンを止めるように目を潤ませて訴える。
「アプフェル、お前はこの子の味方をするのはほどほどにね」
そんなアプフェルの頭を愛おしく撫で、マルガレーテは日課の続きを再開した。
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