猫への興味

島尾

保護猫

 びっくりした。彼らの壁はあまりに分厚く、壊すことが出来なかった。

 先日、保護猫カフェに行った。普通の猫カフェには何度も行っているので、彼らと最初に仲良くなった時と同じように低姿勢でアプローチすればいい、そう思っていた。

 結果、尻を向けられた。別の猫にアプローチするも、全然私に興味を示さなかった。


 普通の猫カフェの猫は、信じられないほど元気だ。ガラス部分のある木製のドアをくぐる前から、バタバタしたり、手を右左右左とリズミカルに、交互にドアを引っ掻く。ドアを開けるやいなや、ダムが決壊したかのごとく3,4匹がドバッと脱走する。抱っこをしてはならないため、やむなく、足が床に付いた状態でずるずる室内に引きずり入れるも……別の猫がするり、またするりとドアの隙間をくぐる。私はまたも彼らをずるずる引きずるが、ドアの隙間を発見した猫の衝動は収まらない。5回ほどの攻防の末、キャバクラのような、否それより遥かに楽しい時間を過ごす。


 保護猫カフェには、そんな闊達な者は存在しなかった。皆、非常におとなしかった。そのおとなしさのすぐ向こうに、彼らの生い立ち・生き様が透けて見えた気がした。

 なぜおとなしいのか。

 猫たちは各々で固まって丸くなり寝ていた。そうでない猫も、皆寝ていた。その「寝る」という態度に、私は避けられている感を覚えた。

 彼らは子供の頃からさまざまな苦にさらされ、人を信用できなくなっている。あるいは人間を敵と見做して拒絶しつつも、生きるために、餌は人間に頼らねばならないという支配状況下で暮らしてきた。彼らにとって人間は、奴隷主なのだ。これがもし、港の泥棒猫なら話は違う。生きるために人間が釣った魚を横取りして逃げたり、ふてぶてしいヤツは釣り上げるのを私の横で待っているのだ。泥棒猫にとって人間は、魚を海から引き上げる機械だ。決して奴隷主などではなく、敵とも言いにくい(泥棒猫の敵は、別の泥棒猫であるという現場を何度も見た)。


 逃げたいのに逃げられなかった、繋がりたかったのにそうさせてもらえなかったこれまでだったのである。暴力やネグレクト、可愛さだけで購入され、後に見放されるという道具的扱い、多頭飼育の劣悪な環境しか知らない無学の幾年。猫キャバのように甘やかしに甘やかしてくれる場でもなければ、魚臭い港で泥棒の技術を鍛練・修得できる場でもない。保護猫の心は硬い鉄で覆われ、その外側に谷底のように深い溝があると感じた。私というよりは、人間全体に対する反発精神を見た気がした。


 彼らと対等に関わりたい。彼らの殻の中に隠された、とろけるような「甘えたい!」という気持ちに触れたい。尻をポンポン叩いて快楽を与えても意味がない。喉を撫でてゴロゴロ言わせても意味がない。そういう持続不可能な快楽でしか喜ばせられないままでは、彼らとの融和的関係構築ができない。殻を壊さねばならない。酸で溶かすようにじわじわと、あるいは隕石の衝突のように一気に。とにかくその殻は必要ない。


 だが悲しいかな、人間には彼らの殻を破る術はないだろう。前提として、彼らは「人間」それ自体に対して恐怖や不信、敵対心を抱いているのだ。こちらが何をしようとも無意味で、ではどうしたらいいのかというと……


「どうしたらいいのか」という、この言葉。これは危険な一面を持つ。猫を道具として見做し、何か機械的方法で簡単に解決したいものだという、人間の勝手な意思がみう見え隠れしている。

 猫たち自身が気づくしかないのに。


 人間は、別に怖くも何ともない。敵にするには弱すぎる。向こうから餌を与えてくれる敵に、わざわざ敵対心など抱かなくても良い。自分は猫だ、奴隷ではない、よって人間も猫だ、奴隷主ではない。猫の視点から見れば、これが正しい世の中の認知の仕方だと思う。人間を猫として見做して構わない。あんたが寄り添える猫たちと同じ、何ら危害も苦痛も与えない存在。もし危害を加える時があれば、怒りなさい。例え病院へ連れて行くためだとしても。撫で方が雑だったらシカトして構わない。「下手くそが」と思いながら撫でさせておくか、ウザく感じたならどっかへ去っても良い。キャバクラの猫たちは皆そうしているし、港の泥棒猫は逆に人間に損害を与える度胸を持って人間を試している。あなたがた猫には、その権利をいかんなく行使して、幸せに暮らすことが十分可能なんですよ……と伝えたい。

 伝えたところで、彼らが気づかなければ、何も状況は動かない。そこに絶望と、前の飼い主への激しい憤りを覚える。

「お前のせいでこの猫らはこんなふうになっとんのじゃ! 猫らの時間を返せ! 奴隷側に回れば即、どんだけ苦しいか分かるぞ、やれるんか? あ? お前はこの猫の命を台無しにした、罪人や! 消え失せろ」



 とは言うものの、人間社会にも同じ問題が横たわっている。猫に暴力を振るうしか知らない、手を差し伸べてあげるべき方がいる。いくら猫を保護しても、人間に優しい手を差し伸べることがなければ、猫放棄の問題は永するだろう。元の飼い主を悪者に据えて満足するのだけはやめないといけない。人間社会の側に何か致命的欠陥がある証が、今の猫放棄の問題を引き起こしている可能性が極めて大きいと思えてならない。

 本来猫と人間の関係で一番自然なのは、通行人が向こうから来てすれ違って視界から消えるという、特段何も無い流れだろう。猫、人の双方がそうできなくなっているのは、人間社会と猫社会の双方に致命的な欠陥があるためと思える。それら欠陥を、人間は根気強く埋めて行く義務があるはずだ。

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