負け犬うんこ


 川沿いの道を離れると都会とは思えない急峻な坂が見えてきて、その坂を病弱な僕は軽い眩暈を覚えながら登っていく。

 白砂のような色をしたコンクリートの坂道には、沢山の丸印が描かれている。

 僕にはその奇妙な模様の意味がわからなかったけれど、歩くだけでリズムゲームをやっているような気分になり少しだけ気分が高揚した。


「着いたよ。ここがうち。さあ、入って入って」


 僕がふらついた足取りで音程を取っていると、ふと先導してくれていた結希さんが足を止める。

 気づけば目の前にあったのは高級感あふれる駱駝色の大扉。

 扉の向こう側には都市部のど真ん中にしては広めの庭が見えて、奥行きのある西洋式の家屋もまた気品ある雰囲気をまとっていた。

 ここが郡司真結衣の自宅。

 いわば聖地だ。

 僕のような低俗な存在が踏み入れたら最後、何か浄化でもされて、骨まで灼き尽くされてしまっても不思議ではない。


「そこにスリッパがあるから、適当に履いて」


「あ、はい。お邪魔します」


 大扉の横に設置してあるまた別の小さな扉をくぐると、やっとそこに玄関口が見えた。

 結希さんは手早く鍵を開けると、まだ心の準備のできていない僕を中に招く。

 ありがたいことに、郡司邸の内側に入り込んでも、串刺しにされたり火炙りにされることはなかった。


「真結衣の友達がうちに来るのは結構久し振りだな。どっちかっていうとあいつは友達の家に行きたがるタイプで、自分の家にはあまり呼びたがらないからね。……久瀬くんは友達、でいいんだよね?」


「え? あ、そうですね。たぶん」


「たぶんってどういう意味?」


「あ、その、まだ友達っていうのもおこがましいかな、と」


「なんだ。そっちのたぶんか」


 結希さんの表情が一瞬爬虫類みたいに温度を失っていた気がするが、すぐに柔和な微笑みへ戻っていたのできっと気のせいだろう。

 それにしても言われてみれば、僕と郡司真結衣の関係性は実に曖昧なものだ。

 友人というにはあまりに接点が少なすぎる。

 知人といった方が正確かもしれない。

 僕はあらためて彼女との距離を実感し、心が重くなった。


「真結衣の部屋は上にある。今も中にいると思うよ」


 長い廊下の途中にある階段を結希さんは登っていき、僕もそれに続く。

 家の中は広さもあってかとても静かで、階段を踏む足音すらよく聴こえた。

 そして二階につき、軽井沢のペンションとかにありそうな振り子時計の置いてある突き当りを曲がった先まで行くと、そこにはMAYUIと書かれた可愛らしいプレートが見えた。


「おーい、真結衣。噂の伴奏者くんをつれてきたぞー」


 結希さんはその手作り感あるプレートの下がった扉を三回ノックする。

 僕は脇の匂いを確認しつつ、ベトベトとした手汗を服で拭いておいた。


「はーい。今開けるね」


 すると扉の向こう側から鼓膜を溶かすようなメゾソプラノが聞こえてきた。

 この一枚の薄っぺらい壁の向こう側に郡司真結衣がいる。

 僕はあまりに興奮し過ぎて心音がビブラートし始めるのがわかった。


「あ、言い忘れてたけど久瀬くん。そこに立ってると危ない――」


 ――しかし、ついに夢の世界へと続く扉が開いたと思えば、次の瞬間僕は凄まじい勢いで何かに突き飛ばされていた。

 勢いよく後頭部を床にぶつけた僕に、何か重みのある物体がのしかかってくる。

 すぐ耳元で聞こえるのはハァハァという荒々しい息づかい。

 ヌチャという生温かい粘液が顔に浴びせられて、追い打ちをかけるようにその粘液が僕の顔いっぱいに塗りたくられる。


「ワァオンッ!」


「ぶえっ! げほっ! げほっ! なにっ!? なにこれ……ぶげほぉっ!」


 僕の粘膜に押し付けられる何かザラザラとしたものから精一杯顔を背けるが、未知の攻撃からは中々逃れることができない。

 攻勢は加速し、次第に耳の裏まで魔の手が迫る。

 僕はどこか快感に近いものを覚え始め、色々な意味で身の危険を予感した。


「あ! ごめん久瀬くん! もう! ルートヴィヒ! だめじゃない。お客様にそんなことしちゃ!」


「あははっ、悪いね。久瀬くん。うちのルートヴィヒは人の顔を舐めるのが大好きなんだ。でも安心してくれ。ルートヴィヒはメスだよ」


 何とか身体を半分ほど起こすと、やっと突然の襲撃者の正体が発覚した。

 僕の顔を執拗に舐めるのは光沢のある黒毛をした大型犬。

 郡司真結衣の飼っているラブラドールレトリバーだ。

 どうやらルートヴィヒとかいう、ドイツの大作曲家みたいな名前をしているらしい。

 言われてみれば鳴き声が交響曲第九番に聞こえないこともない。


「久瀬くん大丈夫?」


「だ、大丈夫大丈夫。僕は全然平気だよ。はは、凄い、元気がよくて可愛い子だね」


 ワァオンッ! ワァオンッ! と相変わらずルートヴィヒは何が楽しいのか真っ黒な尻尾を休むことなく振り回している。

 もしかしたら尻尾を使ってオーケストラの指揮でもしているのかもしれない。


「ただその、今のでせっかく持ってきたケーキが崩れちゃったかも。もし崩れてたらごめん」


「え? あ、これお土産? うわぁ、ありがとう。ううん、大丈夫だよ。胃の中にいれちゃえば一緒だから。じゃあちょっとお茶の用意してくるね。結希兄さんもお茶いる?」


「いや、俺はいいや。そろそろ望結のところに戻らないと。なんか凄い電話来てるし」


「そう? わかった」


 僕が慎重にここまで運んできた手土産のケーキが入った箱は無残にも床に横転している。

 それを知ってか知らずか、僕の皮膚の味を大変気に入ったらしいルートヴィヒは角質を舐めとる勢いでひたすら舌を押しつけ続けていた。


「それじゃあ久瀬くんはちょっと部屋の中で待ってて。すぐ戻るから」


「え? 部屋って、郡司さんの?」


「ふふっ、そうだよ。私がいない間に変なことしちゃだめだからね?」


「し、しないよ!」


「ワァオンッ!」


 僕とルートヴィヒの威勢の良い返事を聞き届けると、郡司真結衣は可憐過ぎるはにかみを残して廊下の奥へと消えていった。

 郡司真結衣の部屋で一人待機。

 様々な意味で心配だ。

 勝手に呼吸とかしていいのかな。


「よーし、じゃあ俺たちも行くぞ、ルートヴィヒ。ここから先は若人たちの時間だ。俺たち年増の出番は終わりだ。……でも久瀬くん、若気の至りもほどほどにな?」


「ワォン」


 そして結希さんとルートヴィヒも、僕に意味深な一瞥をくれてから去って行く。

 やっと物理的な重量感から解放されたというのに、どこか心に重荷を背負わされた気分だった。


「……ふぅ。とりあえず、入ってみますか」


 ルートヴィヒの涎でベトベトになった顔を、リュックサックに予め入れておいたトイレットペーパーで拭いておく。

 意外なことに獣特有の生臭さはそこまでしなかった。

 舐められ過ぎて僕の鼻が機能不全を起こしたか、それか天使の飼うペットはそれなりの特別さを持ち合わせているかのどちらかだ。


「し、失礼しまーす」


 開けっ放しになっている扉をくぐり、僕はとうとう郡司真結衣の部屋へと足を踏み入れる。

 ふわっと鼻腔に飛び込んでくるのはどこか牧歌的で甘い香り。

 華やかな桜桃色と清潔感ある白で基調された内装は、たとえるならワーグナーの妖精だ。

 この部屋がオペラの舞台だといわれても何の違和感もない。


「や、やばい。僕いま、郡司真結衣の部屋の中にいるよ」


 感動のあまり身体が軽い痙攣をおこし始める。

 部屋の奥には普段使用しているであろうベッドがあり、若干乱れた毛布類が生活感を想起させた。

 まったくもって落ち着けない僕は、部屋の真ん中に立って挙動不審に辺りを見回す。

 どこに座ればいいのかもわからない。

 服越しとはいえ、こんなゆるゆるの肛門を間接的にであっても郡司真結衣の部屋に触れさせることには抵抗があった。


「やっぱり郡司さんってすごいバレリーナなんだなぁ」


 好奇心を抑えきれない僕は、壁際の棚に飾られた数々のトロフィーや賞状に目をやる。

 どれもこれもがグランプリ、最優秀賞、第一位入賞、など輝かしい記録ばかりだ。

 郡司真結衣のバレエの才能は、噂に聞いていた以上に卓越したものらしい。


「……うん? これは……」


 そうやって変質者の如く郡司真結衣の部屋を物色していると、僕は気になるものを見つける。

 額縁に飾られた一枚の写真。

 そこにはデンマーク王室の姫か何かと見紛うほど綺麗な顔をした美少女と、耳の上まで刈り上げた短髪が印象的な美少年が並んで映っていた。

 真っ白なドレスを着こんだ少女の方は満面の笑みを浮かべているのに対し、シックなタキシード姿の少年はつまらなそうな顔をしている。

 そして僕はおそらく、写真に映る二人を両方とも知っていた。


「……これ、ロリ郡司さんだよね。やば。超可愛いんですけど。持ち帰りたい」


 自然と危険な発言が口から洩れるほど眩い輝きを放つ少女の胸元には、“郡司真結衣”と書かれた名札が付いている。

 だけどもちろん、そんなものがなくても僕にはこの若き王女が何者かわかっていた。

 横に立つ無愛想な少年の名札は光の反射のせいかうまく読み取れないが、かろうじて“萩原はぎわら”という苗字が見える。

 でも彼の下の名前も、字こそ忘れたが僕の頭の中にはすでに浮かんでいた。


「……ハギワラシュウ。まさかこいつと郡司さんが知り合いだったなんて」


 僕は記憶からほじくり返した忌々しい名前を口ずさむと、写真の中のすまし顔が急に憎たらしくなってきた。

 あれは小学校一年生の頃。

 僕が初めてのコンクールに出場した時のことだ。

 自信過剰ともいえるほど調子に乗っていた僕は、最初のコンクールでいきなり第一位入賞をかっさらい、華々しく日本のピアノ界に久瀬朝日の名を轟かせるつもりだった。


 しかし現実は甘くなく、結果は第二位入賞。


 両親からおだてられ天狗になりまくっていた僕の鼻はポッキリと折られ、悔しさに一週間くらい毎日泣き喚いたことは今でも苦々しい思い出だ。

 そしてその時、僕を打ち負かし第一位入賞を果たしたのがこの萩原という少年だった。

 自慢ではないが、僕がコンクールで一番以外の賞を取ったのはそれが最初で最後だ。

 それからは連戦連勝。

 OIBSを発症するまで僕は天才の名を欲しいままにしていた。

 ただ初めてのコンクール以来、結局僕が萩原の名を目にすることは一度もなかった。

 小学校高学年にもなると、僕はもうコンクールで勝つことにすっかり慣れてしまって他の参加者の顔も名前も気にしなくなってしまったけれど、それでも萩原がいなかったことだけは間違いない。

 あの人生を舐めきった顔と、あの孤高かつ完璧な音色は忘れることはなかったから、もし彼が大会に現れればすぐに分かったはずだ。


「もしかしたらあいつも、郡司さんみたいに海外に行ったのかもなぁ」


 今更萩原が消えた理由を推測してみて、寂寥感に似た思いを抱く。

 もし僕がまだピアノを続けていたら、いつかどこかで彼にリベンジできる機会が回ってきていた可能性だってある。

 だけどあの初めてのコンクールでの借りを返す前に、僕はピアノの世界からドロップアウトしてしまった。


 彼は僕のことを覚えているだろうか。

 ただのうんこ野郎に成り下がった今の僕を見たらどう思うだろうか。

 負け犬だと罵るだろうか。

 それともまたあのつまらなそうな顔を向けられるだけだろうか。


 時の向こう側で優しく微笑む幼き日の郡司真結衣の前で、ただ僕は色褪せた追憶に脆く孤独な影を落とすことしかできなかった。




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