月夜の糞


 郡司真結衣の自宅に招かれたその日、僕は家に帰ってきてからというもの、ずっと一階の演奏部屋に引きこもっていた。

 何をするわけでもなく、僕はただ漠然とした心もちで濡羽色のピアノを眺めているだけ。

 今週の日曜日。

 その日に僕はクラスメイトの女子生徒の家にお邪魔する。

 しかもそれはただのクラスメイトではない。

 僕が三年間毎日想い続けてきた、世界で最も愛くるしく完璧な女性だ。

 学校で彼女に誘われたときは舞い上がっていたのでよく理解できていなかったけれど、帰宅をして一人になり冷静に考えてみれば、僕は今ありえないほどの幸運に見舞われていることに気づく。

 こんなことになるなんて数日前には夢にも思わなかった。

 これほどの幸せを僕みたいなうんこ野郎が享受していいのだろうか。

 何か後で盛大なしっぺ返しをくらうのではないかと逆に心配になってくる。

 これまでの人生はクソを塗りたくられるばかりでロクなことがなかった。

 そう思えばたまにはこんなご褒美があっても構わないのではないかと感じなくもない。


「……なあ、お前はどう思う? 僕、素直に喜んでいいのかな?」


 昨日からカバーを外したままのグランドピアノは何も語らない。

 もちろんこれはただの独り言だ。

 返答なんて元々期待していない。

 でも身動き一つせず静かに佇む彼女をじっと見つめていると、どことなく浮かれすぎている僕を心配している気がした。


「なに。誰と話してるのよ」


 いきなり聴こえるのは気だるげなハスキーボイス。

 うんこだけでなくとうとう鍵盤楽器の声まで幻聴し始めたのかと一瞬思ったが、べつにそういうわけではなかった。


「……い、いつからそこに?」


「今から」


 慌てて振り返ってみれば、演奏部屋の入り口扉付近に僕より数センチ背の高い女性の姿が見える。

 冷然とした雰囲気を全身に纏わせていて、一重の流し目からは鋭い眼光が覗く。

 男勝りなベリーショートの髪は脱色しているのか、それとも反対に染めているのかわからないけれど、卯の花のような純白。


「珍しくこの部屋の灯りがついてるから母さんがもう帰ってきたのかと思ったわ。あなただったのね、アマヒ」


「姉さんこそ、珍しいじゃん。こんな早くに帰ってくるなんて」


 久瀬夜月くせよづき

 僕より一つ上の姉は感情が全く表上していない顔で僕の方までやってくると、何も言わずに鍵盤の上に手を乗せる。

 やがて奏でられるのは、跳ね飛びまわるような陽気なリズムで有名な作曲者不明の傑作である猫踏んじゃった。

 姉は知らないだろうけれど、僕の大好きな曲の一つだ。

 姉の弾く猫ふんじゃったは、無表情な横顔には似合わず実にカラフルな音色を描いていた。


「またピアノ、弾くの?」


「べつに。そういうわけじゃないよ」


「……あっそう」


 テン、テン、テン、とひとしきり指を叩くと、そこで姉はピアノから手を離した。

 それなりに幾つかの簡単な曲を弾くことはできるけれど、それだけだ。

 僕がピアノを本格的に弾くようになった頃には、もう姉は音楽にあまり興味を持っていなかった。

 姉の関心はもっぱら美術方面に向いていて、同時にその才覚にも恵まれている。

 僕とは違い大きな挫折をすることもなく姉はその天才性を発揮し続け、今では同年代はおろか、国内でもトップクラスの次代を担う芸術家として名を馳せていた。


「今日は欲しい色の絵具が手に入らなかったから、早めに帰ってきたのよ」


「え? ……あ、ああ。なるほど。そうなんだ」


 いきなり話が飛ぶので何かと思ったけれど、ただ僕が少し前に言った問い掛けに対する返事をしただけらしかった。

 姉は会話の進め方が少し特殊で、よく話を後ろの方に巻き戻す癖があるので時々喋っていて混乱することがある。


「じゃあなんで」


「え? なにが?」


「なんでこの部屋にいるのよ」


「あ、ああ。そういう意味か。……べつにいいじゃん。僕の勝手でしょ」


「避けてたのに」


「避けてた? 僕がこの部屋を? そんなことはないよ。ただこれまではここに来る理由がなかっただけ」


 淡々とした調子で姉は言葉を重ねていく。

 夜に似た暗色をした瞳から僕は目を逸らす。


「避けてるのはそれだけじゃないわ。それも勝手だっていうの?」


「何のことだよ。わかりやすく言って」


「まあ、勝手かもね。たしかに私がどうこう言う問題じゃない」


 段々と僕は苛立ちを感じ始める。

 姉はいつだって言葉足らずで、誰かに自分の事を伝えようと努力するタイプではなかった。

 だけど姉はそれでよかった。その努力を放棄することを許されていた。

 なぜなら姉は才ある表現者だから。

 姉の事を理解しようとするのは、僕たち才なき傍観者の役目なんだ。

 その月を思わせる光を宿した瞳には、きっと僕の事は映っていない。


「それで理由ってなに」


「……なんだよ。いつもは僕の事なんて少しも気にしてないくせに、今日はやたらと質問してくるね。欲しい絵具がなかったからって、もしかして僕に八つ当たりでもしてるの?」


「八つ当たり? そんなこと私、してないわ。ただ知りたいだけ。アマヒがまた灯りをつけた理由を」


 暇でも持て余しているのか、姉は中々僕から離れてはくれない。

 普段は時間があれば絵ばかり描いている姉だけど、どうも今日は落ちぶれた弟に絡むこと以外やることがないみたいだ。


「……僕の名前は朝日だよ」


「知ってるわ。でも私にとってはアマヒだから」


 姉は昔から僕のことを変なあだ名で呼んでいた。

 アマヒ。

 その意味のわからない呼称について尋ねたことがあるけど、これまた意味不明な説明をされるばかりで結局由来は知らないままだ。

 どうせ“甘ったれのアサヒ”の略とかその辺りだろう。

 無価値なうんこになり果てた弟に対しての嫌味に決まっている。

 でもよく思い出してみると、天才児、モーツァルトの再来と呼ばれていた頃から姉は僕のことをアマヒと呼んでいた気がする。

 姉はあまりクラシックは聞かないが、唯一モーツァルトだけは好きだと言っていた。

 もしかしたらその大好きなモーツァルトに例えられる僕のことが気に食わなかったのかもしれない。


「気にしてないのは本当よ。私はあんたのことなんて全然気にしてない。でもそれがアマヒに声をかけない理由にはならないわ。私には理由がなかっただけ。あんたに声をかける理由がなかった。でも今は理由がある。知りたいって理由がある」


 不規則なテンポで、また姉は会話の流れを一変させる。

 日頃は僕に対して興味を抱いていないことはやっぱり否定しないみたいだ。

 僕はすでに自分の姉がどんな人間かよくわかっていたけれど、こう改めてはっきりと無関心を本人の口から聞くと悔しいけれど若干の寂しさを覚えた。


「……たいした理由じゃないよ。ただ、落ち着くんだ。ここ最近、僕が昔ピアノを弾いていた頃を思い出す事が多くてさ。それにもしかしたら、近いうちに僕はまたピアノを弾かなくちゃいけなくなるかもしれないし」


 僕の言葉に、姉は目を細める。

 極端に色に乏しい表情からは何も読み取れないけれど、直感的にあまり良い感情は抱かれてないことだけはわかった。


「弾かなくちゃいけなくなるかもしれない? それは綺麗な言葉じゃないわね」


「綺麗な言葉じゃないって、どういう意味だよ」


「自分の意志でないなら、弾くべきじゃない。芸術の発露のために、自分以外の理由を求めるのはよくない」


「うるさいな。誰もまだ本当に弾くなんて言ってないだろ。それに芸術だなんてそんな大袈裟なものじゃない」


「べつに大袈裟だなんて思ってないわ。だけど自覚すべき」


 抑揚のないハスキーボイスが、僕を責め立てる。

 何も知らないくせに、僕の事なんて何も知ろうとすらしなかったくせに。

 糞貯めで食べる菓子パンの味を知らない奴の眼差しから、それでも僕は逃げ続けることしかできなかった。


「……前から思ってたんだけどさ、姉さんは怖くないの?」


「質問の意図がわからないわ」


「もし、この先自分がいつか急に絵が描けなくなったらとか、考えたことない?」


「そういう意味ね。たまにアマヒは話が飛ぶから、混乱するわ」


 姉さんにだけは言われたくない。そう思ったけれど実際に口にはしない。

 言いたいことをよく胸の奥に無理くりしまい込んでしまう癖は、自分でも悪い癖だと感じる。

 でもOIBSと同じ様に、この悪癖も今のところ治る気配はしなかった。


「怖くないわね。だって絵は私の全てじゃないもの。絵が描けなくなったからって、私という存在を失うわけじゃない。それに私にはあかりがある。私がどんな暗闇に落ちても、照らし出してくれるが」


 いつも通り前触れなく話を戻した姉は、少しの逡巡もなく僕の問いに答えを返す。

 月光のような煌めきと絶対性がその口振りには秘められていて、それは決して僕が手に入れることのできないもの。

 たしかに感じた羨望にすら気づかないふりをする僕には相応しくない輝きだった。


「でも偶然ね、私も最近よく思い出すの」


「え? 何の話?」


 再び時を超える姉の言葉に今回はついていけない。

 白霧に包まれたような気分の中、僕はただ姉の声に耳を澄ます。



「アマヒの弾くピアノの音を思い出すのよ。そうすると、心が落ち着く。ただ、落ち着くの」



 窓の外側に広がる夕暮れの中に何かを見つけたのか、姉はおもむろに長い間ずっと閉められっぱなしだった窓を開く。


 鼻先をすっと吹き抜ける風からは、まだ陽の匂いがする。



 そしてしばらく風に白い髪を揺らしていた姉は、月が夜を連れてくる前に僕の傍から姿を消した。





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