君のいのちに花が咲く。

マフィン

第一話

「ただいまー! あといってきます!」

 帰宅した少年はおざなりな挨拶をして、玄関にランドセルを投げ出すと再び外へと飛び出した。母親の咎める声を背中で聞き流して、子鹿のような軽やかさで道路を駆ける。

 むわりと湿気を孕んだ空気。草木の匂い。夏に熱されたアスファルト沿いに咲く向日葵の横を通って、山のふもと、鬱蒼と繁る木々の中の階段を走る。上からは様々な蝉の声が降ってきた。昨日はここで隣町から来た友達と夕方になるまで虫取りをした。だけど今日は一人だ。あそこに行く時は、いつも一人だと決めているのだ。

 階段を登りきった先にあるのは小さな神社だ。上が緩やかに沿った石造りの鳥居と、綺麗に掃除された狛犬が少年をいつも出迎えてくれる。鳥居は最近修理されたので新品だった。裏には寄進した村の人間の名がいくつも刻んである。

 手水で手と口を洗う。彼は道の中央を歩かないよう注意しながら、よく手入れされた本殿の前に立つと、ポケットから十円玉を取り出した。鈴をガラガラ鳴らして賽銭箱に投げ入れる。二礼二拍手一礼。しっかりした作法で少年は神を拝む。村の人間、特に老人達はこの神社を篤く信仰していて、彼も祖父母に参拝する際の礼を習ったのだ。

(神様。いつもありがとうございます。今日も無事につくよう見守っていてください)

 心の中で感謝と願い事を告げると、彼は神社の裏、山の中に続く右の道へと足を進めた。この神社は祭りの時以外神主はいない。だから少年は隠れることなく、本当は立ち入ってはならない山に踏み込んだ。

 誰も入らない山なので草刈りなどはされておらず道もほとんどない。だが少年は膝ほどまで生えた草をかき分け、自分がつけた道標を頼りに山をすいすいと進んでいく。斜面を登って枝を折った木を過ぎれば、目的地はすぐそこだ。

 わしわしと生えた草木の奥には洞窟があった。そこだけ岩肌がむき出しになった地面に立つと、中から吹く空気が少年の頬を撫でる。友人の家に入るような気軽さで、彼は暗闇の中にするりと潜り込んだ。

 洞窟の中はいつ来ても同じ温度だ。夏は涼しく、冬は少し暖かくて過ごしやすい。ずっといても苦にならないだろう。もちろんそれはあの人の存在も大きいのだが。

 しばらく進むと、少年の足音だけが響いていた空間に別の音が混ざる。さらさらと耳に心地よい、少年の好きな音。やがて通路の先にぼんやりとした光が見えた。

 曲がり角の向こうには鉄格子があった。中は板張りで奥には畳が敷いてある。行灯や和箪笥に文机なども揃い、洞窟の中にあることを除けば普通の古い和室だった。隅に置かれた鏡台の前には人が座り、手に持った櫛で髪を梳かしている。

「お兄ちゃん」

 少年が弾んだ声をかけると、その人物は振り向いた。茶色の瞳が彼を見る。色の薄い形のいい唇が微笑んで、優しく彼に語りかける。

「やあ。また来てくれたんだね」

 その人は少年の知っている中で、一番うつくしいひとだった。




 彼に初めて会ったのは小学三年生の六月だった。死のうとして、山に入った時だった。

 少年はほとんど子供がいない小さな村で、自分以外生徒のいない分校に通っていた。そこが小学二年生の三学期で廃校となり、麓の小学校へ転校することになったのだ。

だが、初めての同年代との集団生活で彼はいじめのターゲットになってしまった。麓の町も村と同じく小さい町で、学校に通う子供達はみな昔からの顔見知りだった。その中に急に放り込まれた少年は一部の子供に異物とみなされ、迫害の対象になった。

 毎日リーダー格の少年に殴られ悪口を言われる。教科書を窓から投げ捨てられる。子供なりの狡猾さで、大人の目を盗んで行われる嫌がらせは、少年の友達との学校生活への憧れをくじき深い絶望をもたらしていた。他の同級生もいじめっ子が恐ろしいらしく、声をかけてはくれなかった。

 家族に相談しようとも考えたが、お前はいい子だからみんなに好かれるだろう、といつも嬉しそうに語りかけてくる家族の期待を裏切りたくなかった。幼心に心配をかけたくなかった。そして一学期も終わりに近づいた頃、いじめっ子のリーダーから投げつけられた言葉が彼の心をぽっきり折った。

『おめーみたいなバカが子供だと父ちゃんと母ちゃんがかわいそうだな! いやおんなじぐらいバカだから平気か!』

 自分はまだいいのだ。けど父と母の悪口は嫌だった。今までされたことの中で一番苦しかった。大好きな両親が悪く言われるのも、きっと、自分がいるから。いなくなれば。

 少年は死のうと決めた。追い詰められた心にはそれしか選択肢がなかった。だがこれまで自殺など考えたことがなかった彼は、どうやって死ねばいいのかわからなかった。毎晩うんうん唸って考えて、やっとひとつだけ方法が浮かんだ。

(山に行こう。山の中で迷えば出られなくなって死んじゃうってみんな言ってるし、蜂に刺されたり蛇に噛まれたらきっと死ねるんだ)

 決意を固めた彼は次の土曜日に神社の階段を登った。神社の先には入ってはならない山がある。あそこなら誰にも見つからない。土曜日は学校が昼で終わる。早く帰らなくてもどこかで遊んでいると思われて探すのもきっと遅くなる。だからきっと奥までいけると考えたのだ。

 死ぬ前に神社に参拝した。小遣いを全て賽銭箱に入れて、両親がもう馬鹿にされないよう、無事に死ねるよう神様に祈った。境内に誰もいないのを確認して、少年は帰れない旅に出た。死ぬのにはあまりそぐわない、雲一つない青空だった。

 下半身を隠すほど生い茂った草をかき分けて彼は山を登っていった。とりあえず高いところ、人が来にくそうなところがいいだろう。そう検討をつけて上へ上へと進んでいく。

 できたらもうちょっといきたいな。ぼんやりとした頭の中で、彼はなぜかそう思った。

 木の根につまづいて転び、草で足を切り、全身を傷だらけにしながら彼は長い斜面を登り切る。たどり着いた場所で、洞窟を見つけた。山肌にぽっかりと口を開けた穴は暗闇の恐ろしさで少年の体を震わせ、同時に天啓をもたらした。ここに隠れればきっと誰にも見つからないだろう。にわかに勇気がわいてきて、彼は中に一歩踏み出した。

 洞窟の中はひんやりとしていた。蝙蝠などの動物がいるかと思っていたがその様子はない。湿った足元は大きな岩や石もなく、人の手でならされたようだった。


 さら、さら。


 ふと、洞窟の奥から音が聞こえた。少年の体がぴしりと固まる。奥に、何かがいる。動物の鳴き声や足音ではない。けれどもどこかで聞いたことがある音だ。

 自然と足が引き寄せられた。先にいるのがどんなものかはわからない。お化けかもしれないし、人かもしれない。どちらにしても自分の目的を邪魔してくる可能性がある。理性は危険を訴えていた。けれども歩くのを止められない。やがて少年は曲がり角に着いた。角の向こうからは微かに光がもれている。緊張でぎゅっと手を握りしめる。足音を殺して奥を覗く。

 角の先には錆びた鉄格子があった。扉には大きな南京錠がかかっている。檻の向こう側の地面には板が貼られており、奥側には畳が数畳敷いてあった。燭台や和箪笥、文机などの家具も揃っており、こんな場所にあることを除けば普通の古い和室だった。隅に置かれた和風の鏡台の前には白い着物の人が座り、手に持った和櫛で髪を梳かしている。背中まで伸びた、まっすぐで綺麗な黒い髪だ。

 あの音は髪を梳かす音だったんだ。少年は納得した。洞窟の奥にいるこの人物に興味が湧き、もう少し近づこうと一歩踏み出した足が、砂を踏んでじゃりりと音を立てた。しまったと思う暇もなく、こちらに気づいたその人が振り返る。

 最初に、真っ白い肌が目に入った。唇は少し青く、具合が悪いのかとも思ったがやつれている様子はない。長い黒いまつげに彩られた明るい茶色の瞳が数度またたいた。彼はこちらに向き直った。肩にかかる髪がさらりと揺れる。

「どうしたの、君」

 口から発されたのは男性の声だった。まろやかな響きだが、女性にはない低さが確かにある。よく見れば喉仏があるし胸元も平たい。けどそんなことは些細なことだった。彼は少年が今まで出会った人の中で、一番綺麗な人だった。

「あの……どうしてここにいるんですか」

 なぜか頭がふわふわとして、会話として成立していない返事が少年の口からまろび出た。青年は気分を害した様子もなく、もう一度口を開いた。

「僕はふもとの村に住んでいたんだけど、いろいろあってここにいるんだ。君はどこから来たの?」

 少年は名前を告げた。自分もその村に住んでいることを話すと、青年は嬉しそうに広場の桃の木が今どうなっているかを尋ねてきた。どうやら同じ村にいたことがあるのは間違いないらしい。一気に緊張がほぐれた。ズボンが汚れるのも構わずに座り込む。

 自分の家の庭には大きな栗の木があって、毎年たくさん実をつけること。それで祖母が作る栗ご飯がおいしいこと。けど魚を食べろと言ってくるのは少し嫌なこと。子供らしくあちこちに飛ぶ他愛ない話を、彼は楽しそうに相槌を打って聞いてくれた。少年が話し疲れて一息ついた頃、その人は微笑んで再び口を開いた。

「で、君はどうしてここまで来たんだい? ここはちょっと来るのが難しいところだろう」

 怪我もしているみたいだけど痛くない? 大丈夫? 優しい問いかけだったが、それが少年に本来の目的を思い出させた。死ななければならないのだ。先程まで抱いていた絶望が蘇る。心が黒に塗りつぶされる。

 急に黙り込んだ少年に何か不穏なものを感じ取ったのか、青年の表情が曇った。洞窟の中に気まずい沈黙が満ちる。重苦しい空気を破ったのは、彼の柔らかい言葉だった。

「……もし何かあったのなら、僕に話してみない?」

 役には立たないかもしれないけど。そう締めくくった彼の言葉に少年は動揺した。初めて会った人に自分の暗い事情を話すのは躊躇われる。だが聞いてほしい気持ちもあった。一人で溜め込んでいたものを全部吐き出してしまいたかった。何より彼のまとうあたたかな雰囲気が、少年に甘えたい気持ちを呼び起こしていた。

 まごまごとする少年を見て、彼は真剣な顔つきをした。瞳が少年をまっすぐ見つめ、誠実さのこもった声が言葉を紡ぐ。

「もし言いづらいなら、僕のことはいないと思ってくれていいよ。壁とかに話すつもりでさ。言うだけでも楽になることはあるし、聞いたことは絶対に内緒にする。約束する」

 だから、ね? 最後に明るく付け加えられた一言に、ついに少年の感情は決壊した。涙がぼろぼろこぼれる。つらさや痛み、苦しさや悲しさ。全てが一塊になってあふれ出す。本当は生きたい気持ちが、鮮やかな色になって蘇る。

 年相応に泣きわめく少年の叫びを、青年は黙って聞いていた。本来子供が見せてはいけない悲痛な姿を、唇を噛んで見つめていた。




 少年の号泣を聞いた青年はしばらく考え込むと、何よりもまず家族に今のことを話すべきだと真剣な顔で告げた。いじめられていることを相談すべきだと。心配をかけてしまうという少年の躊躇いも、彼はきっぱりと否定した。弱音を吐くのは裏切ることじゃない。心配させることは悪いことじゃないと。決定打となったのは、最後に凛とした目でかけられた言葉だった。


「君が死んでしまうことが、何よりご両親を悲しませてしまう。自分を責めて、今の君みたいに苦しんでしまう」

 

 ああ、お父さんもお母さんも、こうやって苦しむのか。やだなあ。

 少年は決心した。真っ赤な目で家族に全てを話すと告げた。それを聞いた彼はほっとした顔になり、きっと全部上手くいくと励ましてくれた。優しく労る声が嬉しくて、けれども少し気恥ずかしかった。

 青年は日が暮れてしまわないうちに、と帰るよう促した。名残惜しかったが、確かに迷って帰れなくなればせっかくの決意も無駄になる。少年は提案を素直に受け入れて立ち上がった。別れの挨拶をした後、最後に彼は一言だけ添えた。

「君の話は誰にも言わない。だから僕のことも、話さないでいてくれるかな」

 人差し指を口に当てて微笑む青年に、少年は笑顔でうなずいた。

 外はすでに橙色に染まっていた。幸いにも行きに自分が通った跡が残っていたので、少年は迷わず下山することができた。無意識のうちに、岩に小石で引っかき傷をつける、道の側にある木の枝を折るなどして道標を残していた。

 目を腫らして傷だらけで帰宅した少年に、母親は血相を変えた。一体何があったのと問う声に、父親が帰ってきてから話したいと答えた。そして両親が揃うと、今までされてきたことを全て話した。

 母親は少年を抱きしめて泣いた。気づいてあげられなくてごめんね。つらかったのにごめんね。何度も繰り返してはわんわんと泣いた。父親は顔をしかめてうつむいていた。少年には自分を責めているように見えた。やがて頭を上げると、我慢させてすまなかったと少年の頭を撫でた。

 月曜日の朝、父親は少年にしばらく学校を休んでいいと言った。そして自分も休みを取り、固い顔で母親と一緒に学校へと出かけていった。休みは金曜日まで続き、少年は毎日祖父に神社に連れて行かれた。家を訪れる老人達は大変だったねえと頭を撫でながら菓子をくれた。

 翌週の月曜日から母親と登校を再開した。まず少年は校長室で校長と担任に、これまでいじめに気づかなかったことや放置してしまったことを謝られた。恐縮した少年が教室に行くと、自分をいじめていた同級生達がいなくなっていた。机もなくなっていた。あまりの驚きにホームルームと一時間目の授業は頭に入ってこなかった。休み時間になると、一人のクラスメイトが話しかけてきた。いじめられている時でも時折声をかけてくれた男子だった。

『あいつらが怖くて助けられなくてごめん』

 後悔をにじませて謝る彼に、少年は気にしないでと返事をした。彼は目を丸くすると、にこりと笑って礼を言った。それ以来少年には親友ができた。他のクラスメイトとも仲良くなれた。

 いじめっ子達が帰ってきたのは二学期になってからだった。どうやら今までは少年の目に入らない方法で通学していたらしい。戻ってきた時も別のクラスに入れられた彼らは、時たま少年を恨みがましい目で見ていたが、いじめを再開することはなかった。彼らが別の誰かをいじめたという話も聞かなかった。

 こうして少年の学校生活は平和なものに変わった。毎日勉強して給食を食べて、牛乳の一気飲み大会をしたりデザートの取り合いでじゃんけんをする。放課後は友人と遊んで帰る。当たり前の慌ただしい、普通の小学生の生活を取り戻した頃。彼はふと思い出した。自分に今の幸せをくれた人のことを。

 放課後、遊びの誘いを断って少年は急いで家に帰った。途中でお礼の品物が必要だと思い当たった。何かないだろうかとバスに揺られながら散々考え、家の前にたどり着いた時それを見つけた。ふわりふわりと揺れるピンクの花。祖母が育てているコスモスだった。お世話になった人にあげたいから摘んでもいいか。そう尋ねると祖母は喜び、何輪かを切ってわざわざ花束にしてくれた。

 花束を握りしめて少年は山へと走った。幸いにも消えていなかった目印をたどる。斜面を駆け上がり枝の折れた木の脇を抜け、見覚えのある洞窟に飛び込んだ。岩の道を全力で走る。光に照らされた角を曲がる。そこには変わらず鉄格子がある。向こう側で、髪を梳かしているのは。

「……君だったのか。そんなに急いでどうしたんだい」

 心地よく耳に届く声。黒い艶のある長髪。少年に向けられるのは暖かいまなざし。先日まったくと変わらない姿で青年はそこにいた。少年はぜいぜい息を荒らげたまま口を開いた。

「あの時、ありがとう。僕いじめられなくなった。友達もできた。毎日楽しいです」

 差し出された花と共に告げられた感謝に、彼の二重の目が見開かれ瞬く。やっと少年の呼吸が整った頃、彼は柔らかく微笑んだ。

「そうだったんだね……よかった。本当に、よかった」

 ずっと気になってたんだと告げるのはしみじみとしたあたたかい声だ。青年は少年のことを心配してくれていて、そして今は少年の幸せを喜んでくれている。それが何より嬉しかった。走って火照った体が別の熱を帯びる。

「お花、ありがとう。大切にするね」

 鉄格子の隙間から伸びた白い手に花束を渡す。ピンク色の花はモノクロの青年に華やかな彩りを添えた。

 よかったら友達のことも聞かせてくれないかな。彼は少年に話をせがんだ。膝の上の鮮やかな花を、懐かしげに見つめながら。





「今日は算数のテストでいい点取ったんだ。先生すごい驚いてチョーク落としてさ、赤色最後の一本だったから取りに行ってちょっと自習になった!」

「ふふ、びっくりさせるぐらいがんばったんだね」

 あれから少年は定期的に青年の元を訪れては、友人のことや最近起こった出来事などを話すようになっていた。彼のことも自然と兄と呼び始めた。青年も彼が来る度に読書や髪梳きの手を止めて、うんうんと嬉しそうに話を聞いてくれていた。たまに祖母から分けてもらった花や自分で摘んだ野花を持っていくと、彼はその度に喜びを顔にたたえて花を膝に置くのだった。

 チューリップ、露草、秋明菊、水仙、その次は菜の花。いろんな話と季節の花を携えては青年の元を訪れる。それは家族と過ごす穏やかな時間とも、友人と遊ぶにぎやかな時間とも違う。胸と頬が勝手に熱くなる不思議な幸せを少年は青年とのひとときに感じていた。

 しかし今日は少しだけ、幸福とは異なる感情が混ざっていた。彼の中でわだかまっている疑問の答えを聞きたいという決意があった。

「あのさ」

 盛り上がっていた話題が一段落し、会話が途切れたタイミングで少年は切り出した。どうかしたのか、と首を傾げる青年を真正面から見つめる。胸元まで伸びる黒髪も、白く整った顔だちも、茶色の瞳も、全てがいつも通りだ。出会った頃から、いつも通りだ。

 最初の一年は気づかなかった。次の一年は気にならなかった。家族や教師などの周りの大人も見た目があまり変わらなかったので、大人はそういうものなのだと思っていたのだ。だが今に続くこの一年で少年は気づいた。不自然さに気づいてしまった。

 外見の変化だけではない。洞窟には何度も来たが、青年がものを食べている姿は一度も見たことがなかった。鉄格子の向こうには水道などはないのに、彼の体や髪、着物が汚れている様子はない。

 食事のタイミングがずれているだけかもしれない。実は見えないところに風呂や井戸などがあるのかもしれない。そうやって自分を誤魔化してきたが、青年の元を訪れる度に疑問はふくらんでいった。

 本当のことを知りたい、彼の口から答えがほしい。そうしなければ、自分はきっといつかここに来られなくなる。それは嫌だった。だから考えに考えて出した稚拙な、けれども真剣な推論を、少年は口にした。


「お兄ちゃんってさ、幽霊なの?」


 しんと、洞窟が静まった。青年はぽかんと口を開け、ぱちぱち目を瞬かせている。いつも落ち着いている彼らしくない、少し間の抜けた仕草が少年に冷静さを取り戻させた。

「……っ、ごめんなさい! すごい変なこと、言って」

 申し訳なさと恥ずかしさにいたたまれなくなり、少年は真っ赤な顔を伏せた。よく考えずとも失礼なことを言ってしまった。どう謝ればいいのかわからない。

 ふふ、ふふふ。ぐるぐると混乱していく思考の中で、少年の耳が聞き覚えのある笑い声を拾った。頭を上げると青年が口元に手を当て、小刻みに震えていた。

「ねえ、こっちに来てくれないかな」

 気を悪くした様子もなく、白い手が自分を手招く。立ち上がって格子に近づくと、青年も同じように移動して鉄格子の向かい側に座った。ここまで彼に近づいたのは初めてだ。すぐそばにある黒く伸びたまつ毛に、少年の心臓がドキドキと鳴る。

「右手を一回握って、その後人差し指と中指だけ立ててみて」

 少年は青年の言う通りに手を動かした。この形には見覚えがある。いつか確か、祖母が。

「そうそう、じゃあ……ここを触ってみて」

 すう、と青年の右手が鉄格子の隙間から差し出された。左手は手首の一点を指している。誘われるまま、少年は日本の指を青年の滑らかな肌に伸ばした。


 冷たい。


 氷に触れたようだった。人の体温ではなかった。ぞっとする。青年の温度が指先から伝わり、全身を凍えさせる。ピクリとも動けなくなった少年は、ふとあることを思い出した。これは祖母が脈を見る時にしていた動作だ。真似をした時は自分の腕からとくんとくんと心臓の音が聞こえてきた。生きているのならば当たり前に鳴る音が。

 しかし青年の腕からはそれがしない。どれだけ触っていても鼓動がしない。つまり。

「お兄ちゃん、まさか。本当に」

 青年は静かに腕を引いた。彼の肌が指から離れた途端、少年の凍りついた体が溶ける。どさりと膝をつく。口をぱくぱくさせる彼に、青年は困った顔をして語りかけた。

「なんと言えばいいのかな。幽霊とはちょっと違うんだ。僕は多分、抜け殻なんだ。生きている方の僕は」


「体から抜け出して、好きな人についていってしまったんだ」


 だからここにいる僕は、死んでいる僕なんだ。そう締めくくると青年は微笑んだ。少年が初めて見る、寂しい笑顔だった。


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