七章

第29話 期末前事変 前

 ついに七月。期末テストまであと二週間といったところである。

 暑さも本格的になってきている。しかし、星山高校のほとんどの教室には、エアコンが配備されているので、基本的には涼しくて快適だ。

 今日の放課後の生徒会室は静かである。

 テスト前ということもあり、俺と桜花は勉強に励んでいる。ひふみはというと、どうやらまたアニメを見ているようだ。イヤホンをして、画面とにらめっこをしている。

 テスト前だからか、依頼もない。行事も今学期はもうないので、会議で話すこともない。

 まあなんだ。生徒会は暇なのだ。

「ふう……ひふみくんは勉強しなくて平気なんですか? 点数は取れると思いますけど、何もしないと流石に順位落ちちゃいますよ?」

 勉強がひと段落し、伸びをした桜花はひふみにそう尋ねた。

「ん? 大丈夫だよ。課題も、もう終わらせてあるし」

「あれ? 範囲出てたっけ?」

「出てないよ。ただ、予想してやっておいてあるだけ。数学とか、とりあえず平方完成より先のところまでやっておけば、あとからやる必要は流石にないはずだから」

「……」

 そういうと、ひふみはまた画面とにらめっこを始めた。

「先輩」

「どうした桜花」

「ひふみくんって、なんなんでしょうか」

「ん~万能人」

 万能の天才。万能人。レオナルドダヴィンチ。

 過言ではあるかもしれないが、どんなことでも、多少の努力でできるようになってしまうひふみは、万能人であるように俺は感じるのだ。

「でも、桜花も負けてないと思うけどな。テストも一番だし。いつも頼りになるし」

「あら。ありがとうございます」

 俺が素直に桜花を褒めると、珍しく穏やかに桜花は喜んだ。普段なら、テンションが上がって「大好き先輩!」などと言いながら、抱き着いてきそうなものだが、なんだか珍しい。

「隙あり!」

「うわ!」

 安心もつかの間、桜花はすぐに俺の隙をついて距離を詰めてきた。

 俺はなんとか桜花を両肩を持ち、受け止めることに成功した。

「まったく、油断も隙もあったもんじゃない」

「ふふ。あと少しだったのに」

 桜花は潔く俺から離れて、嬉しそうにそう言いながら先に戻ろうとした。

 しかしその瞬間、生徒会室のドアをコンコンと叩く音がした。

「はい!」

 桜花は自席に向かうのをやめて、ドアに向かって蜻蛉返りした。そのまま桜花はドアを丁寧に開けた。

「のあさん? こんにちは」

「や、やあ。桜花ちゃん、ひふみくんと来栖くんも」

 生徒会室に入ってきたのは、烏山のあさんだった。

「どうも」

 俺は挨拶しながらのあさんを見た。なんだか声に元気がない気がする。

 いつもなら、女の子にしてはかっこよく力強い低い声で堂々と話しているようなものだけど、今日はその気配がない。ただ、ビジュアルがかっこいいから、元気がなくても絵になるけど。

「どうしたんですか烏山先輩。元気ないですよ」

 ひふみはそう言いながら席を立ち、のあさんのそばに向かった。

「いや。ちょっと相談事があってだな。ただ、場合によっては、結構重たい案件になりそうでね。テストが近いのに、話していいものか悩みながら来たんだ」

 やはり、のあさんは元気がない。結構切羽詰まっているように見える。

「とりあえず、席にどうぞ。テストのことは一旦気にせずに、落ち着いて話を聞かせてほしいな」

 俺も席を立ち、そう言いながら、のあさんをソファに案内するために、ソファの近くに向かった。

「ああ。ありがとう」

 のあさんはそのまま、桜花とひふみに連れられてソファに座った。

 俺がのあさんの正面に座ると、ひふみも俺の隣に座ろうとした。しかし咄嗟に桜花が、ひふみを見ながら、指でのあさんの隣をちょんちょんと指差した。きっと隣にいてあげてということだろう。実際、のあさんと一番仲良いのは、ひふみだからな。のあさんに好かれてもいるし。

 ひふみは頷くとそのまま、のあさんの隣に座った。席に座った後も、元気のないのあさんの顔をチラチラ気にしていた。

 桜花はさっとお茶を入れると、流れるようにテーブルに置き、俺の隣に座った。

「じゃあ、話してくれ……ってのも酷だね。どうしたの? 元気がないみたいだけど」

「……そうだね。どこから話せばいいかな」

 のあさんは、隣にいるひふみをチラッと見てから、また話し出した。

「若松颯。みんなは覚えてるよね」

「うんうん」

 俺たちは頷いた。

 元アイドルで、何やら後ろめたいことがあるのか、今は不登校気味の若松颯。生徒会とは、のあさん経由で関わりがある。ひふみが特にファンだったみたいで、何かあれば力になるということになっているはずだ。

「最近、完全に学校に来なくなっていてね。理由を問い詰めても、自分には本当は学校に行く権利がないの一点張りで。困ってしまってね」

 のあさんは力なく言った。

「このままじゃ、出席も成績も足りなくて、留年まっしぐらなんだ。颯のお母さんも心配してるみたいだけど、何してもダメらしくてさ。私でもお母さんでもダメとなると、もう八方塞がりでね。生徒会の力を借りれればと思ってきたんだ。あいつには、学校に来てもらわないと困る。それに、せっかくアイドルを辞めて、ちゃんと学校に通えるようになれたのに、これじゃ送り出してくれたファンの人たちにも失礼だと思ってね」

「なるほど。若松くんが……」

 どうやら、若松くんは最近、さらに不登校気味になっているようだ。

「えっと。私話しても?」

「うん」

「ありがとうございます」

 こういうときは、桜花に任せた方がいい。なんだか、いつも頼りっきりな気はするけど。

「とりあえず、生徒会はのあさんと若松さんのために動きます。元から、そういう話でしたし。ね、ひふみくん」

「うん。もちろん」

 桜花がそういうと、ひふみは頷いた。

「それで、いくつか質問があるのですが」

「ああ、私に答えられるのなら、なんでも答えよう」

「成績に関しては、本当にまずい感じですか?」

「ああ。ほとんど赤点スレスレの点数でね。まあ成績だけで見れば、留年はしないだろう。でも、欠席数がね」

 のあさんは、眉を下げながら話している。

 桜花は、メモを取りながらのあさんの話を聞いていた。

「えーと。若松さんのお母さんは、若松さんの不登校についてどんなことを述べてましたか? 雰囲気も教えていただけるとありがたいです」

「困ってたね。颯が何も話してくれないって言ってさ。雰囲気は……優しいお母さんだよ。颯もお母さんのために、お土産とか買っていくこともあったから、ちゃんと相思相愛だろうさ。いいお母さんだと思う」

「ありがとうございます。じゃあ、最後の質問……なんですが、これはざっくりとで構いません。のあさんの視点から見て、若松さんの高校入ってから、今までの流れを教えてくれませんか。学力状況、趣味、覚えていることなんでもで構いませんので。私たち、学校に通っていた若松さんのことを、全然知りませんから、教えてもらえると嬉しいです」

「そうだよね。君たちはアイドルの若松颯知ってても、男子高校生の若松颯のことは知らないからね。待ってくれよ。ゆっくり話をさせてくれ」

 のあさんは、一口お茶を飲んだ。そして、心配そうに隣で、のあさんを見つめているひふみをまた見た。そして、少しだけ微笑んでから、ひふみに話しかけた。

「ふふ。そんな心配そうな顔をされると、なんだか元気でいないといけない気分になるな」

「わ! そんな顔してましたか! ごめんなさい!」

 のあさんの言う通り、確かにひふみはとんでもなく心配そうな、不安そうな顔をしていた。

 でもそのおかげか、のあさんの雰囲気や声が、少しだけいつも通りに戻った気がした。

「いいんだ。よし、じゃあせっかくだから入学したところから話そう。長くなるぞ」

 のあさんはそう言うと、ソファに腰かけ直して、話を始める体制になった。


     ***


 若松颯は、外部の中学から入学してきた。

 入学当初は、若松もアイドルとしてそこそこ有名、という程度だったため、学校には通えていた。ただ、アイドルをやっているという都合上、元からファンでいる生徒も多く、なんでも話せる友達といえば、烏山ぐらいだった。

 アイドルでいるときの若松は、とても明るい性格だが、普段の若松はどちらかというと静かな雰囲気で、自ら交友関係を広めていくタイプではなかった。その性格も、若松の孤立に悪い影響を与えてしまっていた。

 夏前ぐらいから、アイドル活動が忙しくなり、学校を休みがちになってからは、本人の性格も相まって、学校でただの友達として話せる人は、やはり烏山ぐらいになっていた。

 成績もそのあたりから低迷し始め、欠席数も相まって、三学期には進級できるかギリギリのラインに立っていた。

 夏が過ぎ、秋ごろ。ちょうど生徒会が生徒会基金を不正に使用した事件が起こったころ、若松はアイドルを辞めた。学力の低迷が原因であり、学業に専念する為というだ。

 実際、二学期の期末考査では、それなりの点数を取った。しかし、留年免れるほどの点数は取れず、全ての運命は、三学期の学年末考査に委ねられた。

 学年末考査では、なんと今までにない高得点を、苦手としていた数学と英語で獲得した。その他の教科も赤点はなく、めでたく進級をする権利が貰えたのだ。先生たちからはよく頑張ったと褒められ、若松を心配していた生徒たちからは、賞賛の声が浴びせられた。休むことなく授業に出席していたというのも、賞賛を受けた理由の一つだろう。

 しかし、それからだろうか。

 今までアイドルをするために休んでいた分、休むことなく一生懸命学校に通っていた若松が、また休みがちになったのは。自分には学校に行く権利がないと繰り返し言って、暗く塞ぎ込んでしまったのは。

 今ではもう、ほとんど学校に通っていない。またこのままじゃ、留年の危機である。


     ***


「とまあ、こんな感じかな。あくまで私から見た颯の様子だけど」

 のあさんはそこまで話すと、一口お茶を飲んだ。のあさんの語り口はとても聞きやすかった。ハキハキしていて、力強い声だった。

「なるほど。まとめるとアイドルをやっていた影響で、友達という友達もおらず、学力の低迷を理由にアイドルを卒業。それからなんとか努力して、留年は免れたものの、今では不登校と。その理由を若松さんは、自分に学校に行く権利がないという理由だと、そう言っている、ということですね」

 桜花がわかりやすくまとめてくれた。

「その通りだ。私から見れば、まあ友達といっても、颯が一方的に、友達じゃないと思い込んでいるだけで、颯を慕っている生徒は多い。ちょっと根暗だけどいい奴だし、別にコミュニケーションに、問題があるわけじゃないからな。私が思うに、ただ単に颯がなかなか、人に心を開かないだけな気はしている」

 のあさんは、若松くんのことをそう言う。

 この前少し話した時の雰囲気を、思い出してみても、根暗っぽい部分は確かにあったけど、別に性格に問題があるようには見えなかった。むしろ、礼儀や態度から見るに、性格はいいように見えた。

「解明すべきは、どうして若松くんが不登校になっているかだな。自分には権利がないって、どういうことなんだろうか」

「そうですよね。頑張って学校通って勉強して、留年を回避したのに、どうして若松くんはそう言っているんでしょうか」

 俺が解明すべき点を述べると、ひふみも同調してくれた。

「やっぱり、そこになるよな。どうやら私や、お母さんにも話していないみたいだし。だから、ひふみくんや来栖くんが変数になってくれることを、私は期待しているんだ」

「変数ですか?」

 ひふみがのあさんに尋ね返した。

「うん。ほら、ひふみくんは颯の大ファンだろ? それに性格も飛び抜けて明るくて、颯と趣味も似たり寄ったり。もしかすると、私より颯と仲良くなって、颯が私に話していないことを、話してくれるかもしれないだろう?」

「な、なるほど!」

 のあさんは、しっかりひふみを見ながら言った。

「あれ? 俺は?」

「来栖くんは……わからない。ただ、颯が君に聞きたいことがあるって、言ってたような覚えがある」

「俺に聞きたい事? なんだろうな」

 のあさんによると、若松くんは俺に聞きたいことがあるらしい。ちょっと心当たりがないかもしれない。聞きたいことって、なんなんだろうか。

「話はひと段落ですかね? とりあえず、若松さんの家に行けたら一番なんですが……のあさん、アポイントメントは取れそうですか?」

「うん。多分平気だ。お母さんに連絡をしてみるよ」

 のあさんは、すぐにスマホを取り出した。

 そして立ち上がると廊下に出て、誰かと電話をし始めた。

「若松くんが会長に聞きたいことって、なんなんでしょうね」

「さあ……? 本当に心当たりがなくてさ」

 ひふみとそう会話をすると、のあさんはすぐに戻ってきた。

「大歓迎だそうだ。颯は今、部屋で勉強をしてるらしい」

「よし! 若松くんを元気付けに行きますよ!」

 のあさんの話を聞いて、ひふみもそう言って力強く立ち上がった。

「俺もやるぞ。これも善いことだ」

 俺も続いて立ち上がった。


     ***


 その後、桜花は来ないことになった。

 その理由は「やっぱり人数が多いと圧になる。それに今回やる気があるのはひふみくんだから、今回はサポートに回ります。何かありましたら、調べ物でもなんでも申しつけてくださいね。先輩」とのことだった。

 確かに、俺たちは普段桜花に頼りっきりだから、ちょうどいいかもしれない。たまには俺とひふみでもやれるってところ、見せないといけないな。

 と思いつつ、のあさんが醸し出す暗い雰囲気を、ひふみと俺で振り払いながら、たどり着いた先は、仙川駅から数駅のところの住宅街だった。

 住宅街はカラッと暑く、夏の本格的な訪れを感じた。

 ここはいわゆる高級住宅街で、かなりのお金持ちが住んでいる場所だ。とても閑静な住宅街だった。

 のあさんに案内されるまま、たどり着いたその若松くんの家は、かなり立派な一軒家だった。車が二台入っているガレージが家の正面に見えている。俺の家も一軒家だけど、それよりずっと大きい一軒家だ。

「さて、じゃあ押すぞ」

 のあさんは、あまり躊躇なくインターホンを押した。きっと普段からよく押すから、躊躇することがなかったんだろう。

「は~い」

 インターホンから快活な女性の声が聞こえた。

「烏山のあです。颯に会いに来ました。話をしていた、生徒会のひふみくんと来栖くんも一緒です」

「わ~ありがと~ちょっと待ってね。今行くから」

「はい」

 のあさんが返事をすると、すぐに綺麗な女性の人が出てきた。

 そうして、俺たちは暑いからとすぐに、その女性に若松家の中へ、案内されたのだった。


     ***


「はい、遠慮しないで食べてね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 家の中に案内されて、すぐにリビングのテーブルに通された。リビングもかなり広く、空いているスペースも多く、快適なように感じた。

 俺たちを案内してくれた女性は、若松くんの母親だった。三人分のお茶とたくさんのお菓子を用意してくれたのだが、俺でもわかるくらい、有名なブランドのお菓子が並んでいた。さすがに値段が頭を過ってしまうから、手を出しにくい。

「ありがとうございます! えっと……」

 ひふみは、小さな体で少しだけ机の上に乗り出して、お菓子をいくつかサッと取り出して、自分のところへ持っていった。

 そして大きな声で「いただきます!」と言って、お菓子を美味しそうに食べ始めた。

 いい意味で、これぐらいの遠慮のなさがあれば、俺も得できるんだろうなと思う。それにひふみは、その遠慮のなさを受け入れてもらえるくらいの礼儀正しさと、雰囲気がある。なんだかうらやましい。

「えっと、颯は?」

 のあさんが、隣にいる若松くんの隣にいる若松くんの母に尋ねた。

「颯は部屋だよ。あんまり出てこようとしなくてね」

「そうですか……」

 のあさんは、若松くんの母の話を聞いて、少し落胆したように見えた。若松くんの母も申し訳なさそうにしていた。

 と思ったその時、リビングにある二階へ続いているであろう階段から、ゆったりとした足音が聞こえてきた。

「はあ、なんだか騒がしいと思ったら、やっぱりもう来てたんだね」

 その足音の主は、若松颯だった。相変わらず、目を疑うくらいのイケメンだ。

 若松くんは、思ったより元気そうだった。まあ裏を返せば、なんだかもうあきらめているようにも見えるわけだけど。話ができないくらいに落ち込んでいるよりは、全然マシな状態だろう。

 若松くんは、ゆっくりとリビングにいる若松くんの母に近づいた。

「母さん。今から彼らと話をしたいんだ。だから悪いけど、母さんには聞かないでもらいたいな」

 俺たちに話しかけるよりは、数倍は優しい声で若松くんは自分の母親にそう言った。

「……でも」

「お願い」

「……」

 若松くんは、申し訳なさそうに自分の母親に懇願した。若松くんの母も、本当に若松くんを心配そうな目で見つめていた。

「わかった。じゃあ、買い物にでも行ってくるわ。信じてるからね」

「うん。ありがとう。ごめんね」

 若松くんの母は、俺やひふみに軽く礼をしてから、リビングから去っていった。

「いいのか?」

 のあさんは、若松くんの母に代わり、隣に座った若松くんに聞いた。

「これでいい。母さんに心配をかけるわけにはいかないからね」

 若松くんは、穏やかな口調でそう言った。

「さて……まあどうして、のあだけじゃなくて、ひふみくんや来栖くんまで来たのかは……なんとなくわかるよ。君が彼らに相談したんだね」

「あ、ああ……」

 若松くんは、のあさんの返事を確認すると、頷いてから俺たちのほうを向いた。そして、また話し出した。

「ごめんね。僕のために来てもらって」

「気にしないでください! 元からこうするって決めていたことですから!」

 若松くんが謝ると、すぐにひふみが元気よくそう言った。

「ってわけだ。ひふみのやる気がこうだからさ、気にしないでよ」

「……ごめんね、本当に」

 俺も若松くんにそう言うと、若松くんは優しい表情をした。そして、また謝った。

「それでだ。やっぱり学校に来る気にはならないのか?」

 のあさんは、いつもと同じ雰囲気で尋ねた。

「行きたいけどね。でも、もう行く権利がないからさ」

「……辛いのか?」

「いや、辛くはない。学校に行けないのは、僕の行動が原因だからさ。落ち込んでたりとか、そういうのはないかな」

「……」

 若松くんがそう返事をすると、のあさんは俯いて黙ってしまった。

 のあさんはその後、チラッとひふみと俺を見た。多分、私からだと話が平行線だから、話してくれないかということだろう。

「学校の規則的には、まだ留年ではないはずだけど、どうしていく権利がないなんて言うの?」

 俺は若松くんに質問を投げかけた。

「……それは……言えないな」

「どうして言えないの?」

「……」

 俺がそう尋ねると、若松くんは黙ってしまった。視線を逸らす若松くんは、結構困ってしまっているように見えた。しかし、俺はここで問い詰めることをやめない。なぜなら、ここまでの若松くんの姿を見て、なんとなくわかることが一つあったからだ。

「それを言ってしまうと、周りの人たち。特にお母さんに迷惑をかけてしまうから……かな?」

「――!」

 若松くんは、目を大きく見開いて俺を見た。きっと図星だったのだろう。

「……どうしてわかったの?」

「なんとなく。まだ若松くんとは数回しか会ってないけど、ずっと周りに謝ってばっかりじゃない? だから、人に迷惑をかけるのが嫌なのかなって」

「……」

「だから、お母さんを退席させたんでしょ?」

 生徒会室で初めて若松くんが挨拶してくれた時も、今日ここに初めて若松くんが姿を現した時も、謝っていた。

 ごめん、と言って。

 若松くんは卑屈さと礼儀正しさが両立しているんだ。だから、よく謝るし、雰囲気も優しいんだ。だからこそ、人に迷惑をかけるのが嫌いなんじゃないかと、特に母に迷惑をかけるのが嫌なんじゃないかと思ったのだ。

「よく見ているな。そうかもしれない。でも、だからこそ、話すわけにはいかないな。君たちにだって、迷惑をかけるわけには、巻き込むわけにはいかないから」

「……迷惑をかけてくれてもいいんだぞ。親友だろう」

 のあさんは、若松くんに対して、優しくそう言った。

「親友だからこそ、のあが俺のことを抱えきれないって、わかってるんだぞ」

「……はあ。口がうまいな。そう言われると何も言えない」

 のあさんは、投げやりに両手を上に向けると、お手上げであることを証明するかのように、椅子に寄りかかった。

 のあさんと若松くんの、この雰囲気を見ていると、のあさんだけじゃ、若松くんを変えられないというのが良くわかる。のあさんはきっと、若松くんにこうやってうまく丸め込まれてしまっていたんだろう。だからこそ、のあさんは俺たちを変数として、この件に巻き込んだんだ。

「えっと……」

 ここまで、あまり話せていないひふみが、口を開いた。

「若松くん……じゃないや、若松先輩」

「やりにくそうだね。若松くんでいいよ」

 たぶん、ひふみはアイドル時代の若松くんのの呼び方が抜けないんだろう。それを見かねた若松くんは、先輩呼びじゃなくていいと言った。

「えへへ。じゃあ若松くん。若松くんはまだアニメとか追ってますか?」

 ひふみは、嬉しそうに若松くんに話しかけた。

「もちろん。今期も十本ぐらいは追ってるかな」

「ホントですか! じゃあまだ部屋とかってグッズとか、いっぱい置いてありますか?」

 ひふみは、若松くんに日常会話を切り出した。どういう意図があるのかわからないけど、とりあえず任せていいだろう。

「うん。見てく?」

 若松くんは、ひふみに対して穏やかな表情を向けていた。

「え! いいんですか!」

「うん。おいでよ」

「やったー!」

 どうやら、若松くんが自分の部屋を案内してくれるらしい。

「来栖くんもおいでよ。オタク野郎の部屋が嫌じゃなければ」

「せっかくだし、覗いていこうかな」

 俺のことも案内してくれるようだ。元アイドルの部屋って考えると、なんだか新鮮な感覚だ。

「おいおい、私は?」

「のあは別に、好きに入ればいいよ」

「なんだ。冷たいな」

「今さら温かいおもてなしをしてどうするんだよ。逆に気持ち悪いだろ」

「それもそうだ。じゃあずかずか行かせてもらうからな」

 ひふみのおかげなのか、若松くんだけじゃなくて、のあさんも幾分か余裕を取り戻したようだった。二人は遠慮のない会話をしている。

 そうして、若松くんの部屋を見られることになった。


     ***


「すごーい! ひろーい!」

 そう叫ぶひふみ。

 若松くんの部屋に入ると、すぐにその部屋の大きさに気が付いた。

「ふふ。両親にわがままを言って、アイドル時代の稼ぎを使って部屋をリフォームしてね。元々はばらばらだった部屋を、一部屋にしたんだよ。だから広いんだ」

 実際、部屋の広さはリビングよりも広く感じた。それだけ、自分のオタク趣味に力を入れているんだろう。

「へー! わ! 歴代セイバーがたくさん!」

「こっちには歴代ヒロインもいるよ」

「ホントだ!」

 ひふみは興奮を隠しきれていないみたいで、すぐにフィギュアが飾ってある、まるで中古ショップにおいてあるくらいの大きさのショーケースにくぎ付けになっていた。若松くんも、興奮するひふみの隣に立って、いろいろ話しているみたいだった。

 その隣にも棚があり、そこには大量のゲームと、本が置かれていた。本の種類はライトノベルや漫画だけでなく、イラスト集や攻略本なども丁寧に区画分けされて収納されていた。

 部屋の角には、パソコンデスクがあり、モニターが四枚。テーブルのうち一部を使って、美少女キャラクターのアクリルスタンドや缶バッジなどが、おしゃれに配列されているスペースがあった。

 あまっている壁にはポスターが飾られていた。ポスターだけでなく、イラストのようなものも、狭いスペースには飾られている。

「これは凄いな……」

「ふふ。あいつはガチだからな。まったく、ここまで物が多いのに、どうやってここまでおしゃれできれいにしているのか」

「そうだね。ある意味、整理整頓の達人かもしれない」

 俺は、ひふみとは逆のほうにある、イラストなどが飾られている壁のほうを、眺めることにした。

 こう見ると、すべてアニメやゲームのキャラクターばかりで、現実のアイドルだったり、芸能人のグッズなどは、全くと言っていいほどない。

 まあ本人がアイドルだったし、興味がないのかもしれないな。

「どう? すっごいオタクだろ?」

 若松くんは、ポスターを眺めている俺に声をかけてきた。

「そうだね。俺もゲームはするけど、ここまでグッズを集めようとは思わないから……すごいね」

「ありがとう。最高の褒め言葉だ」

 若松くんは、笑った。

 なんだか、初めて彼が笑ったところを見た気がする。

 本当にこの趣味が好きなんだろう。ここまでの手間とお金をかけられるくらいの情熱が、若松くんにはあるのだろう。

「お、このキャラは知ってるぞ。窮鼠のバスケの小玉くんだな」

「うん。その通り」

 窮鼠のバスケ、略して窮バスの小玉くんは、小さいながら素早い動きで大柄な選手にも立ち向かう窮バスの主人公だ。

「ちなみに、これは僕が描いたんだ」

「え! マジで! 上手だな!」

「へへ。ありがとう。昔から、絵とか字とかは得意でさ」

 綺麗なイラストだったから、てっきり公式が作ってるグッズかと思っていた。

 もしかすると、こんなおしゃれな部屋を作れるのも、そう言った芸術的な側面を若松くんが持っているからかもしれない。こういう部屋のデザインも、きっと得意だろうし。

「ほかにも絵はないのか?」

「見る? スケッチブックにも、パソコンにも入ってるよ」

「え? デジタルもアナログも描いてるのか?」

「うん。デジタルは練習中だけどね」

 俺は若松くんに案内されて、パソコンデスクの前まで向かった。

 ふとデスクに目を落とすと、デスクの上には数学の参考書とノートが置いてあった。きっとさっきまで勉強していたんだろう。ノートは開かれており、綺麗な字でびっしりと式が書かれていた。また、赤いボールペンで直したあともたくさんあった。

 ただ、やっている範囲は少し前に習った範囲のものだった。復習をしているのか、もしかすると進むスピードが遅れているのかもしれない。

「おっと。恥ずかしいな。間違いだらけのノートを見られて」

 そう言いながら、若松くんはノートを閉じた。

「俺だって初めは間違いだらけだよ。気にしないほうがいい」

「来栖くんでも、そうなのか」

「うん。最初から完璧に問題を解ける人なんて、本当に天才な人しかいないと思うぞ。残念ながら、俺は天才じゃないから」

「そっか。なんか安心したよ。僕は勉強苦手でさ」

 若松くんはそう言いつつ、スケッチブックをテーブルの収納から取り出した。

 そのままそのスケッチブックは、俺に向けられた。

「はい。あんまり知っているキャラはいないかもだけど」

「ありがとう」

 若松くんに渡されたスケッチブックに、目を通していく。

 美少女キャラからイケメンキャラ、かわいいモンスター系の絵まで幅広く描いているようで、ずっと見ていられるように感じた。

 それを見ている間、また若松くんはひふみとのあさんのところに向かった。

「……ん?」

 スケッチブックを眺めていると、とある絵が目に留まった。

 大体はキャラクターのみが描かれているにもかかわらず、一枚だけやけに書き込まれた背景。その学校の教室のような背景に、見覚えがあるので、おそらくこれは、星山高校の教室だろう。

 そして、窓に寄りかかる髪の長い制服を着た女の子。その制服も星山高校のものだった。

 その女の子にも、見覚えがあった。しかし、それが誰かとは、はっきりと思い出すことができなかった。

 ただ、右目の下にほくろがあった。まさか沙羅? いやでも髪が長いし、そもそも若松くんは沙羅と面識がないはずだから、違うだろう。もし、沙羅と若松くんの関わりがあるなら、沙羅が話していそうだし。もしかすると、俺の知らないアニメキャラなのかもしれない。

 その後、スケッチブックを読み切ると、また若松くんが声をかけてきた。

「どう? ほかのも見る?」

「そうだね、見させてもらおうかな……」

 若松くんの提案を、俺が受け入れようとすると、興奮したひふみの声がまた聞こえてきた。

「ほら! このキャラですよ! のあさんにそっくり!」

 そう言うひふみを、俺と若松くんは見つめていた。ひふみの目の前にはのあさんがいる。ひふみはどうやら、指さしている先にあるフィギュアの女性が、のあさんに似ているという話をしているらしい。

「ほ、本当だな! 確かに似てるね!」

 のあさんは、なんだか動揺していた。たぶん、意識してひふみくんと話すときは、いつもあんな感じっぽいな。

 普段は堂々と話せているのに、どうしてひふみと意識して話をする時は、口をぱくぱくさせながら話すんだろう。不思議だ。

「俺! この子が本当に大好きなんですよ!」

「え! あ、ありがとう!」

「へ? ありがとう?」

「え! いやちが! いや、そうなのか~!」

 動揺するのあさんは、体の動作がぐちゃぐちゃになっていた。

 のあさんは、自分に似ているキャラと自分を重ねてしまっているようだ。なんだかおかしな会話だ。

「……のあさんってさ、意外とおっちょこちょいだよね」

「気が付いた? クールに見せて、意外とドジだったり、不器用だったりするよ、のあは」

 若松くんは少しだけ元気にそう言った。

 その後も、俺は若松くんのスケッチブックを眺めたり、ゲームの棚を眺めて過ごした。

 少しの間をそのように過ごしているとしていると、のあさんが小声で声をかけてきた。

「この後、どうするか決めているか? もう少し説得するとか」

「いや、決めてないな」

 のあさんは真剣な顔をしていた。

「そうか。なら提案なんだが、今日のところはこのまま帰ろう。ひふみくんが、颯をうまく元気づけてくれているみたいだから。このいい雰囲気のままでいきたいと思っているんだ」

「そうだね。時間がないかもしれないけど、今日のところはこのくらいで、また来ようか。いい雰囲気のまま帰った方が、俺もいい気がする」

「よし、じゃあ後でひふみくんにも、私から伝えておくよ」

「うん。ありがとう」

 のあさんはそう言うと、またひふみと若松くんのところへ戻っていった。

 そんな三人を見ながら、俺はどうやったら若松くんに学校に来てもらえるか。また、どうして学校に行く権利がないと言い張っているのかを考え続けた。

 まあ考えながらも、やっぱり目の前にいる本人から話してもらうことが、最善策だということはわかっているんだけどな。


     ***


 帰り際。

 帰ってきた若松くんの母に挨拶を済ませて、俺たち三人は帰ることになった。

「それじゃあ、また来ますね」

「うん。三人ともありがとね」

 玄関口にて、のあさんが代表して、改めて若松くんの母に挨拶をしてくれた。

 そうして、俺たち三人は玄関を出て、家の前の道を歩き始めた。

 しかし、前を歩くひふみとのあさんに対し、一歩後ろを歩いていた俺は、肩を叩かれた。

 振り向くと、そこにはなんと若松くんがいた。かなり真剣な顔つきをしていた。

「どうしたの?」

「……明日も来てくれないか。来栖くん一人で」

「え? いいけど……なんで俺だけなんだ?」

「君だけに聞きたいことがあるんだ。それは、のあやひふみくんには聞かれたくない。その……真面目な話なんだ。今さら、のあとそんな話はできないし、ひふみくん相手だとなんだか気を使ってしまうし……頼む。僕も出来る限り僕のことを話すようにするから。きっと来栖くんなら、真面目に聞いてくれるだろうから」

「……」

 なぜ突然こういったことを、若松くんが提案してきたのかはまだわからない。

 しかし、俺のことを信用してくれているということは、明らかだ。

 信用しているからこそ、こうして頼ってきてくれているんだろう。

 また、のあさんが言っていた、若松くんの聞きたいことというのも、多分このことを言っているはずだ。

 ……ただ、じゃあこうしたい。

「じゃあ、明日学校に来てくれないか。学校で話そう」

「え……」

「若松くんが学校に来ていないのは、いじめとかじゃなくて、学校行く権利がないからと、自分自身が思っているからでしょ?」

「あ、ああ……」

「その権利。明日に限っては、星山高校生徒会長である俺が保証しよう。だから、来てくれないか。学校に」

「……」

 若松くんは、かなり思い悩んでいるようだった。歯を食いしばり、右下を向いている。俺の要求と自分の意志、どちらを通すかを考えているんだろう。

 別に学校に行けない理由は、いじめとかじゃない。本人が自分自身に対して「学校に行く権利がない」と、命令を下しているからである。

 ならその権利を、俺が保証してやればいい。まあ、実際のところ、そんな権力は俺にないんだけどさ。

 でも今のところは、学校側から登校の権利を剥奪されてはいないはずだ。なら、学校に来ていいはずだろう。

 若松くんの顔には汗が流れていた。本当に悩んでいるんだろう。少し、悪いことをしてしまったかな。

「……わかった。来栖くんが保証してくれるなら、明日は元気よく登校するよ」

「よく言った! その……要求した手前言いにくいんだけど……無理はしないでよ」

「男に二言はない。行くって言ったら行く」

 なんだか、若松くんは吹っ切れたようで、覚悟を決めたようだった。

「じゃあ、また明日。生徒会室で待っているよ」

「うん。また」

 俺が挨拶をすると、若松くんも返事をしてくれた。

 なんだか、俺が挑戦的な要求をした影響か、若松くんとの距離が近づいたような気がした。

 もしかすると、若松くんからの信用を失ってしまうかもしれない賭けだった。でも、こう気を使わないやり取りをしたおかげで仲良くなれたと考えると、十分なリターンだったと言えるだろう。

 俺は、若松くんに背を向けて、急いでひふみとのあさんを追いかけた。

 もう日はほとんど沈んでいるが、走ると少し汗が噴き出してきた。

 

 



 

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