悪夢の再来
由依の放った小瓶が空中で割れて内容物を飛び散らせる。
白い小さな粒──特別な方法で清められた塩が触れた端から触手を浄化、残った粒が後から押し寄せてくる触手を阻み、進行を妨害する。
四方に同じ小瓶を撒けば即席、時間限定の防御陣地が出来上がった。
墓地の入り口付近まで後退した朔夜たちは緩やかになった敵の侵攻を各々の方法で迎撃しながら対応について話し合う。
「街にまで到達させるわけにはいかないね。……と言っても身を守るので手いっぱいだけど」
「なにか手はないわけ? どーんと敵を一掃できる武器とか」
「そんなもの隠し持ってたら私、ほとんどテロリストだよ」
勝機が皆無というわけではない。
敵がいくら強大でも魔力は有限だ。いくらでも生みだされるように見える触手もいつかは止まる。そこまで持ちこたえればいい。持ちこたえられれば、だが。
あるいは、触手の発生元を叩く方法。
ただしこれは攻撃の最も激しい場所へ赴くということ。しかも悪魔単独で暴れているのではなく、特級魔女・宵闇真冬が意図して暴走させている。触手の奔流をかいくぐって中心にたどり着き特級魔女を討伐しなくてはならない。
しばらく持ちこたえる程度なら今の朔夜たちでも可能だが、あまりにも人手と魔力が足りていない。
「墓地という場所も厄介です。ここには負の感情が溜まりやすく魔力の補充も容易ですから」
「土地を這いまわっている以上、地面からも魔力を吸い上げてるだろうね。……どこまでもいやらしいやり方だよ」
聖塩の防御陣地も少しずつ綻びを迎えていく。
由依はもう一度塩を撒くと「提案があります」と告げた。
「奥の手を用いればかの悪魔にもかなりのダメージを与えられるでしょう。そのためには例によって時間を稼いでいただかなくてはなりません」
「奥の手って、駄目だよ由依ちゃん。それは駄目」
「あの敵を塩にする魔法じゃないってこと? いったいどういう──」
「単純な話です。悪魔憑きから解放された悪魔であるのなら、天使憑きに宿る天使をぶつければ良い」
天使憑きである由依は天使の力を限定的に弾き出して行使している。
人の身では天使の力を扱いきれないため、普通にやっていたら特級悪魔には勝てないが、天使を顕現させてフルパワーを出させれば話は別だ。
「でも、そんなことをしたら」
「はい。肉体は崩壊し、魂は砕け散ります。輪廻転生も不可能な真の死が訪れるでしょう」
少女は「構いません」と微笑んで、
「天使を解放して悪魔を討つ。それは天使憑きとして生まれたわたくしの使命です。他に方法がないのであれば迷わずそれを選びます」
「駄目だ!」
朔夜は理屈ではなく感情からその手を掴んだ。
柔らかくて細く小さい。銀由依は天使憑きである前に一人の女の子だ。
何より、生まれつきの体質のせいで誰かが自分を犠牲にするなんて、朔夜にはもう耐えられない。
「駄目だよ、銀さん。なにがあっても死んじゃ駄目だ。それじゃ、勝てたって悲しすぎる」
「……貴槻くんは優しいのですね」
触れていないほうの手が持ち上げられて、朔夜の頬を撫でる。
「気にする必要はありません。これは貴槻くんのせいではないのです。……
「そんな。そんなこと。僕にもう一度、身近な人を見殺しにしろって」
「忘れてしまえばいいのです。わたくしなど所詮、勝手にあなたの前に現れて勝手に消えていった『どこかの誰か』に過ぎません」
二度目の塩もまた尽きかける。
まだ手持ちは残っているものの、もちろんいつまでもは続けられない。
「やらせてください。せめて街への被害だけでも食い止めなくては」
「母さん!」
相反する二つの感情を受けた母が何事かを口にしようとして──。
輝き。
墓地のあちこちに光が生まれ、蛸や烏賊、様々入り混じった触手を吹き飛ばしていく。
距離がやや遠いので詳しくは見えないものの、墓地を取り囲むように空から飛来してくるのは、
「連盟からの応援だ。来てくれたのね」
戦闘経験を積み、日頃から悪魔を祓っている一線級の魔女たち。
もともとは一級相手のつもりでやってきたはずだが、特級の暴挙にも怯むことなく侵攻の阻止を開始。さすがに瞬時に生成できる量には限りがあるのか朔夜たちを襲う物量も多少和らいだような気がする。
これなら、あるいは。
持久戦も可能かもしれない。特級相手となればさらなる応援も来るはずで、それまで持ちこたえられれば。
「どうやら、天使を解放する時間は稼げそうですね」
「銀さん!」
強く手を引くようにして引き留めると、少女は微笑を鋭い表情に変えて、
「希望的観測は危険です。相手は魔女を八人殺した悪魔、しかも今回は魔女が操っているのでしょう?」
「でも、さっきから見ていて思ったんだ。今回の暴走はまだ前回に比べたらマシだよ。たぶん、先輩がコントロールしているからだ」
魔女に支配されているのは厄介ではあるものの、後先考えず暴れまわるほうが瞬間的な脅威度では上。
持ちこたえる方針であれば逆に良かったかもしれない。
「では、宵闇真冬が遊びを止めた瞬間にわたくしたちは終わりです」
「──それは」
その通りだ。
単に悪魔を暴れさせて街を呑み込むだけなら朔夜たちに予告する必要もないし、朔夜たちの到着を待つ必要もない。
この状況でさえも手心を加えられた結果であって本来なら既に大惨事が起きていてもおかしくない。
真冬がこの場を去れば後には「死ぬまで暴れ続ける特級悪魔」との死闘だけが残る。
持久戦に勝てたとしてもこちら側の犠牲は避けられないだろう。
朔夜だって頭ではわかっている。
わかったうえでなんとか由依に思いとどまってもらう理屈をひねり出そうとしているだけだ。
暴力の前で単なる理屈は意味を持たない。
状況を打開するのに必要なのは力だ。
「この場で最も有効な手段は天使解放です。どうかわかってください、貴槻くん」
「なら、僕も一緒に命をかける」
導き出される答えは一つしかなかった。
目を見開く少女にもう一度、はっきりと告げる。
「銀さんだけを死なせられない。僕の命で負担を半分肩代わりできないかな」
「そんな、無茶です! 天使の力は貸し借りできるようなものではありませんし、できたとしても二人とも死んでしまう可能性のほうが──」
「ううん。もしかしたらできるかもしれない」
迫り来る触手を静華と共に食い止め続けながら、母が冷静な声で言った。
「由依ちゃん。私だって若い子の犠牲でなんとかするなんて耐えられない。少しでもみんなが助かる可能性があるならそっちに賭けてみたい」
「ですが、いったいどうやって」
「天使の顕現は神聖な儀式でしょ。だったら同じ聖なるモチーフで欺瞞を起こせるかもしれない」
朔夜が別の聖なる儀式を行うことで彼もまた天使顕現の資格者だと法則を誤認させて顕現の儀式に巻き込む。
言葉の上でなら理解できるような、できないような。
魔法的な理解を端から放棄している朔夜でさえそれなのだから由依の混乱は当然で、
「無理を通して道理を引っ込めるような理屈です。そのような神業をどうやって」
「私がやるよ。……こう見えても昔はけっこう凄腕の魔女だったんだから」
「……一を知って百を知る天才。当代最強を脅かし続けた貴月家の最高傑作。世界のあらゆる魔法を修めることさえ可能と言われたあなた様なら確かに可能かもしれません」
「待った。母さんってそこまですごい人だったの?」
「さくちゃん。その話は後だよ。そうと決まったら早く儀式を始めないと」
言った母は懐から例の魔力回復薬を取り出した。最後の一本。これ以上の服用はさすがに寿命を縮めかねないが──その用途は飲むことではなかった。
瓶が音もなく粉々になったかと思うと、どろりとした液状魔力が光に変わる。
今の朔夜にはどうやっているのか見当もつかないほど精密に操作された無数の光弾が居並ぶ墓石には傷ひとつつけることなく触手の群れを粉々に吹き飛ばしていく。
「ほら、さくちゃん。武器は静華ちゃんにでも渡しちゃって。由依ちゃんも」
「う、うん」
「かしこまりました」
「ちょっと待って。もしかして私一人でここ食い止めろって?」
「頼りにしてるよ静華ちゃん」
「塩も全て使って頂いて構いませんので」
まあ、母がいま猶予を作ってくれたお陰でだいぶ楽にはなったのだが。
それでも無茶振りとしか言いようのない要求に、医師であり魔女である従姉妹は「わかったわよ!」と開き直った。
「意地でも食い止めてやるからさっさと済ませなさい。朔夜、由依ちゃん。死なないでね」
「ありがとう、静華さん」
二人に母が語った儀式の内容はとても単純だった。
「考えられる中でいちばん可能性が高いのは結婚式だよ」
「───え?」
「なるほど。確かにそれでしたら欺瞞となるかもしれませんね」
結婚は誕生と葬儀を除けば人の人生で最も特別で神聖な儀式だ。
他の二つはこの場で行いようがないため自然に結婚だけが残る。
「由依ちゃんとさくちゃんの結婚式なら二人の間に結び付きも生まれるから余計に好都合。おまけに今のさくちゃんは半陰陽みたいなものだから」
「天使の力を引き出す上で相応しい。器としてはわたくし以上に適当かもしれませんね」
「いい、さくちゃん? いろいろ飛ばして結婚することになっちゃうけど」
もちろん、式だけ行ったからといって法的手続きとは関係がない。
籍を入れるかはまた別問題だし、全てが終わってから「あれはただのごっこだから」と流すことも可能だろうが、それでも結婚が大きな意味を持つのは間違いない。
月を生き返らせるという朔夜の決意にも影響があるわけだが、
「構わない」
月に生き返って欲しいという想いは変わらない。
けれどそれは、生き返った月と再び恋人同士に戻りたいという願いと必ずしもイコールではない。そもそも今の朔夜は中学二年生の純粋な少女と付き合えるほど清らかな人間ではない。
だから、今更躊躇したりはしない。
「銀さんこそ、いいの? いきなり結婚なんて」
「もちろん、わたくしは構いません」
頷いた少女は日本人離れしたその美貌に、今までで一番美しい笑顔で答えた。
「死のうとしているわたくしを引き留め、重荷を肩代わりしてくださる方。……そのような方が他にいらっしゃるとは思えません。あなたと出会えたことは運命だったのでしょう」
「銀さん」
「由依とお呼びくださいませ、朔夜さま」
自然と見つめ合う形になる。
悪魔に脅かされながら墓地での結婚式というのも締まらないが、この子とならどこでも神聖な式になるとそう思えた。
二人の様子を見た母はふっと笑うと、
「さくちゃん。もう一つ、対策を練っておこっか」
言われた朔夜はなんのことかすぐにわかった。
「そうだね。魔力は少しでも多いほうがいいだろうし」
墓地へと移動する車内で彼らはとある会話を交わしていた。
『さくちゃんの名前の由来?』
『うん。どうしてなのかなって思って』
『そうだね……。二人目の子が男の子だってわかった時に思ったからかな。この子には魔法とか関係なく生きて欲しいって』
魔力の象徴の一つである月の輝きとは無縁の存在。
そんな願いを込めて朔夜は名付けられた。結果的にはこうして魔女への変化が起こってしまったわけだが。
『そっか。……もしかしたら突発的な変化と変則的な魔力量と関わりがあるのかも』
『名前でそんなに変わるものなの?』
『言葉には全て言霊が宿るものだよ。人の名前は特にそう。真名を知れば呪いをかけることだって簡単になる。そういうものなの』
あくまでも仮説ではあるものの、ここに一つ、可能かもしれない作戦が生まれた。
名前の変更。
それこそ戸籍上の名前は手続きが必要になるわけだが、儀式的、魔法的な意味で重要なのは本人たちの認識と「真の名」だ。
「私は認めなかったけど、さくちゃんには本家がつけたもう一つの名前があるの。『朔夜』という名前によって抑え込まれていた、魔女としての名前」
「母さん、それは?」
母はゆっくりと慈しむように、あるいは忌むように告げた。
「咲耶」
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