第23話 私の動揺
「お、戻ったか」
「え、えぇ。ありがとうございます」
一人の女性の独白を聞いた手前、どんな表情をすればいいのか決めかねているまま私は二人のところへ戻りました。そんな私を、倉橋さんの目が心なしか私の身体のどこかにある心を正確に射貫くように見つめていました。
「どうでした?」
「どうでしたって…あ、下書きのやつですよね。凄かったです。凄く面白かったです」
自分でも早口になっているのが分かりました。例の遺書を読んだ後、少しは目を通したつもりですが、目も頭も心も上の空で内容が頭に固着しなかったのです。
「じゃあこれお返しします」私は端末を落とさないよう両手で渡しました。
その時、ベルの音が聞こえてきました。他のお客様がやってきたのです。私とボスは声を揃えて挨拶しました。
「神尾、俺はあっちの方の応対をするから後は頼んだぞ」
「了解です、ボス」
残された私たちは顔を見合わせました。また二人きりでお話する時間がやってきたのです。「ボスとはどんな話を?」
私が休憩に入る前の二人が妙によそよそしい雰囲気だったので、思わず問いただしてしまいました。
「そうですね」倉橋さんはまだいっぱいに入っているコーヒーを一口啜りました。「好みのタイプとか」
私の口に水が含まれていたら残らず吹き出していたところです。しかし努めて店員然と、私は平静を装って言いました。
「そ、それはまた面白そうな話を。ちなみにえっと、ボスはなんて答えていたんです?」
彼女は口に手のひらを添えてクスクスと笑いました。
「もうしばらくはそういう感情を抱いてはいないそうですが」彼女はまるで勿体ぶるように言葉を一旦句切りました。「昔はミステリーをよく読んでいたと」
「へ?」
「私は勿論幅広く読みますよ」
肩すかしを食らった気分でしたが、ついた溜め息は安堵の色が宿っていました。何故なのかは自分でも分かりません。
「からかわないでください」
「あはは、ごめんなさい」
彼女は小さな声で大きく笑いました。すっかりここの空気に慣れたのだと思われます。店員としてこれ程嬉しいことはありません。
「マスターさん、朴念仁だとばかり思ってばかりいましたが話すといい人ですね」
「あー。そこは難しいところでして…店員とのお話を望んでいないお客様もいらっしゃいますからね。私もボスも話しかけるかどうかは主観で判断してるんです」
「美容院みたいですね」
「そう、まさにそんな感じです。でも喫茶店の店員とお客が話をするのってそんなに浸透していませんから、話しかけていいですよーって雰囲気を醸し出す人は少なくて」
確かに、と彼女は頷きました。
「でもだからこそ、隠れ家的って感じで素敵です」
「正直言えば同感です。アルバイトが言うのも何ですがもっと繁盛してもいいんじゃないかと思うくらいですよ」
しかし、隠れ家的な魅力を保つにはこれ以上客足が増えてはならないというジレンマがあります。もしかしたら常連さんは我が店の現状維持を望んでいるのかもしれませんし私も今の雰囲気はとても好きです。出会った頃からボスが商売繁盛に精力的ではないのはもしかしたら彼も同じ心境だからかもしれないと、私はこの時にやっと気づきました。
「あの、私ここで執筆したいんですけど…向こうの席でやって構いませんか?」
彼女が窓際のテーブル席の方を指して言いました。窓から広がる景色は有り体に言えば田舎そのものでお世辞にも目の保養等になるとは思えませんが、窓のそばには小さな観葉植物がポツポツと並んでいますので、そこで執筆する彼女の姿は映えるに違いありません。
「構いませんよ。お飲み物とか運んじゃいますね」
「ありがとうございます。ところで神尾さん」
彼女は端末を胸の辺りまで持ち上げて言いました。
「これ、いじったりしてないですよね?」
「い、いえ。見ただけです」
「あ、別に疑ったりとかではないんです。一応確認のために聞いただけで」彼女は場の緊張を解くためのような笑いをしました。「それに、編集したファイルは一番上に表示されるようになっていますからすぐに分かりますし」
削除しないかぎりは、ですよね。と心の中で私は言いました。
彼女が窓から差す光に彩られながら物語を紡いでいる間、私はずっと自分の行いを反芻しました。
何をすべきなのか、今ならまだやり直しが効きます。倉橋さんに正直に伝えるべきか、それとももう一人の彼女を尊重し、黙秘を貫くべきか。仮に伝えたとして彼女はどんな反応をするのでしょう。もう一人の自分に寄りかかっている現状を嫌厭されている様子ですので、私には想像がつきません。このままではもう一人の彼女がいたたまれないですが、彼女がもう一人の彼女の意思を尊重して今以上の酒乱と化してしまったら身体にも心にも良くないでしょう。
それとも、あくまで同一人物ですしそこまで深く考える必要は…。
「神尾どうした、お腹空いたか」
脳以外の機能をほとんどシャットアウトさせていた私に、ボスが尋ねてきました。
「もう、全然減ってないです」
そう言いながらもついさっき食事を摂ったことさえも忘れていたくらい私は混乱していました。
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