母と娘

月に1度、佐知の母親は娘の携帯へと電話をかける。会話の順序は大体以下の通り。


 天気の話。娘家族の近況。娘の仕事。孫娘の学業と、成育具合。義理の息子との仲。自分と父は元気にやっている。最後に、その時自分が気になっているニュースについて。


「最近は、日本も治安が悪くなってきたじゃない? やれ詐欺だの、強盗だの、殺人だの、そんなニュースばっか。あんた達も気をつけるんよ」


「ニュースに取り上げることが多くなったってだけよ。母さんの若い頃だって、酷い事件は沢山あったやろ?」


「それはそうやけど」


「人間なんてこんなもんよ。性善説なんて嘘っぱち。歴史を見るべきだわ。あたし、小学校の理科の授業で、地球環境を守るにはどうしたらいいかって意見を求められた時、『一番良いのは人類を滅ぼすことです』って答えたんだけど、今でも間違ってないと思う」


 一瞬、電話の向こうがしんとなる。


「もしもし? 母さん? ハロー?」


「佐知。今、周りに亮太郎君も雅楽ちゃんもおらんのんでしょ?」


「2人は買い物だけど、それが何なん?」


「やっぱり。やっぱりな。あんたは亮太郎君や雅楽ちゃんがおらんと、直ぐに昔みたいな口の聞き方に戻るんやから」


「そんなことない」


「そんなことある。そんなことあるわ。前々から思っとったけど、亮太郎君と雅楽ちゃんは、あんたにとっての中和剤なんよ。あんたは賢いけど捻くれてるから、すぐに他人に嫌われるでしょうが」


「そんなこ…」


「何を言っても誤解しないでいてくれる。傍にいてくれる人っていうのは、そうざらにいるもんじゃないんやで。亮太郎君は、ほんまにいい子。雅楽ちゃんもね。だから出来るだけ2人と一緒にいなさい。じゃないとあんた、敵ばっか作るんやから」


「お母ちゃん、聞いて。あんな…」


「2度と『一番良いのは人類を滅ぼすことです』なんて言わんといて。わたしは、あんたという人間を産んだことを誇りに思ってる。人間は大したもんよ。わたしはあんたを育てて、そう思ったんだから。良いわね? よく反省しなさい!」


 そう言って、母は電話を切った。佐知は眉間に皺を寄せ、スマートフォンの液晶画面を見つめる。


 「敵ばっか作る」という母の言葉が頭から離れない。


 しばらくして、夫と娘が帰ってくる。


 娘はトイレに駆けて行き、夫は買い物袋から槍のようなバケットを取り出して、「今夜はシチューだよ」と嬉しそうに言う。


 佐知は袋から商品を取り出すのを手伝いながら、夫に尋ねる。


「あたしって、口悪い?」


「また、誰かに何か言われたの?」


 買ってきたものを戸棚や冷蔵庫にしまいながら、亮太郎は答える。


「さっき、母さんから電話があったの。口が悪くなるから、気をつけなさいって。あくまで、そういう時があるって話だけど」


「ああ、義母さん。佐知さんと話をしていて、そんなに気になったことはないけどな」


「これはあくまで母さんの意見だけど、あんたと雅楽が側にいる時はそうでもないんだって。あたしはそんなことないと思うけど、もしそうなら…」


「へえ」


 亮太郎はちょっと佐知を眺めた後、廊下に通じる扉を開けて、部屋の外の様子を伺う。雅楽はまだトイレにいる。


「ちなみに、どんな悪口を言ったの?」


「小学生の時の話よ。理科の時間に先生が、地球の環境を守るためにはどうしたら良いか皆で考えましょうって言うもんだから、あたし、言ったのよ」


「なんて?」


「『一番良いのは人類を滅ぼすことです』って」


「わあ、すごい!」


 トイレの方から水を流す音がして、雅楽が居間に入ってくる。


「どうしたの?」


 自分を見つめる両親に、雅楽は尋ねる。


「何でもないわ。晩御飯が出来るまで遊んでなさい」


 母親にそう言われ、雅楽は途中までの本を読む為に自室に向かった。


「佐知さんは、子供の頃から佐知さんだったんだね」


「あたし、間違ったこと言った?」


「いいや。全くもって正しいと僕は思う」


「でも、母さんの言い分も分からないではないわ。自分の意見だけを押し通すことには、限界があるのよ」


「うん。僕もそう思うよ」


「あんたはどっちの味方なの!」


「僕は佐知さんの言うことに賛成しているだけだよ。環境を守る為に人類を滅ぼすのにも賛成だし、でもやっぱりそれはダメなんだって思う意見にも賛成だ」


「ただのイエスマンってこと」


「そんな事ない、ちゃんと考えているつもりだよ。考えて、佐知さんの言う事に賛成してるんだ。佐知さんは間違ったことは言わない。殆どね。正しいことを言い続けていれば、それが悪口になることもある。それはしょうがない。でもそれも含めて佐知さんなんだと、僕は思う。僕はそういう佐知さんを愛しているから」


「ふうん。あっそ」


 佐知は居間の、テレビの前に置かれたソファに座る。前の机に置かれた雑誌を取り上げ、読む。


 耳が赤くなっている。亮太郎はエプロンを付けながら、妻の後ろ姿を観て笑みを浮かべる。


「ちょっと待って」佐知は雑誌を放り出し、言う。


「殆どってどう言う意味? あたしが間違ったことを言ったっていうの?」


「だって、人類を滅ぼすべきと言いながら、雅楽を産んだじゃないか。本気でそう思うなら、雅楽を産むべきじゃなかったんだよ。それとも、雅楽を産んだのは全く間違いで、娘なんか微塵も愛してないとでも?」


 佐知は言い返せず、今度は顔全体が真っ赤になる。




 

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