戦友

 ある晩、佐知は眉間に皺を寄せた顔のまま自宅に帰って来た。


 居間に入ると、「おかえり」と声をかける夫を横目に、コートをさっさと脱いで食卓に付く。雅楽はもう寝ている。


「アルコール」

「晩御飯は? 食べて来たの?」


「気分じゃないの。頼むから、早く」


 亮太郎はビールを杯に注ぐと、簡単なつまみと共に食卓に置く。佐知はつまみを食べ、直ぐに杯を空にする。


 亮太郎はすぐに2杯目を注ぐと、妻と向かい合って座る。そして、相手が話を始めるまで待つ。


「今日、若い子が1人やめたの。男。病気退職でね」

「営業部で?」


「うちじゃなくて、情シス」

「ってことは、ああ。井寺さんの部下か」


「そう、加奈子の部下。病気退職なんて言ってるけど、精神をやられてやめたらしいわ。よっぽど上司にイビられたみたい。最後は廃人みたいだったって」

「まさか、井寺さんのせいじゃないよね」


「当たり前。多分、部長の野郎よ。昭和生まれの無用の長物。ファシストの化石! でも加奈子のこと。きっと自分のせいだと思って、塞いでるに違いないわ」

「それで、佐知さんも元気が無かったと」


「それだけじゃない。肝心なのは病気を理由に辞めた子よ。余りに不条理だわ。可哀想じゃない」

「それが若い男でも?」


「当然じゃない! 若い男に罪はないでしょう。馬鹿で奥行きの無い連中だけど、それでも年寄り共に比べれば余程マシじゃない」


 佐知は、もう一度杯を空にした。亮太郎は、今度は直ぐに次を注がず、黙って相手の赤くなった顔を見つめている。


「駄目、自分が嫌になる。弱気になってるのよ」

「それはどうして?」


「だって、これは私達の敗北よ。せっかく昇進しても、罪の無い若者一人守れやしないなんて」


 佐知はそう言うと食卓に肘をつき、両手で顔を覆う。思ったことが全て口に出てしまう。


 どうしてアルコールなんかを摂ったのか、佐知は心の中で自分を責める。


「そんなことはない。佐知さんは、よくやってるよ」


「気休めはよして。あたしは結局、何にも成し遂げられやしないのよ。あんたと雅楽を守って、養って、あわよくば家事まであたしがやってやろうと思っていたのに、あたしはあんた達に支えられている。弱いったらありゃしない。あたしは一ミリたりとも、前に進んでなんかいない」


「そんなことない。雅楽を見てごらんよ。今は分からないけど、いずれ立派な大人になる。母親によく似た、立派な戦士になるよ。佐知さんは着々と戦果を築きつつある。一ミリも前進してないなんて嘘さ。今回はダメだった、それは本当に残念だ。でも次はきっと、上手くやれる。一度の負けは、十度の勝ちで補えば良い。そうだろう?」


 佐知は顔を上げ、真っ赤になった眼で夫の顔を観る。亮太郎は口元に笑みを浮かべながら、相手から決して眼を離そうとしない。


 佐知は一瞬眼を逸らした後、何かを考え、また視線を戻す。


「いくら強い女を育てたって、馬鹿な男が増えれば意味がないじゃない」

「だったら、女を馬鹿にしない男を育てればいい。働く女を母親に持って、それが当たり前だと思うような子を」


「あんた、あたしにまた子供を産めっていうの?」

「あ、いや、そんなつもりじゃ…」


「男は気楽でしょう。何ヶ月も生活に支障をきたした挙句、お腹を痛めて、酷い時はお腹を切って子供を産む苦しみを知らないから」

「本当にその通りだ。ごめん」


「そうよ。雅楽の時も大変だったのに、もう1人だなんて簡単に言わないで。わかった?」

「ごめんなさい。どうか許して欲しい」


「許してあげる。だってあたしは、寛大な亭主だから。だけど産んだ甲斐はあったわ。あんたと雅楽、2人の戦友が出来たから」


 佐知は驚く。今の台詞は自分の意思では無く、アルコールの力のせいだと思おうとする。


「そうだよ、戦友だ。佐知さんは外で、僕は中で各々の任務を遂行してる。勿論、雅楽もね。僕らは良い部隊だよ。そう思わない?」


「勿論、あたしが指揮官」


「当然。指揮官が良いと、下っ端もよく働くよね」


「そう、あたしは指揮官。あたし1人で、この家族を養ってる。それがあたしの誇り」


「いつもありがとう、佐知さん。僕と雅楽は君がいないと駄目だ。生きていけないよ」


 佐知の口元が少し緩む。空っぽの杯を覗き込み、夫の顔を観る。


「そろそろお腹が空いたんじゃない?」

「うん。晩御飯にして頂戴」


 亮太郎は立ち上がると、台所に向かう。佐知は夫の背中を、黙って見つめている。


 自分が外にいる間、その男は娘が侘しい思いをしないように面倒を観て、家に関わる全ての仕事を行なっていた。


 佐知が帰れば料理を作り、風呂を沸かし、愚痴を聞き、清潔な寝床を用意してくれる。


 妻がどれだけ疲れて帰って来ても、夫は笑みを絶やさず、彼女を迎え入れる…。


「こっちこそ、ありがとう」


 上手く作業音に掻き消されるように、小声で佐知は言う。


 亮太郎は、聞こえなかったフリをする。


 

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