亭主関白(♀)

二六イサカ

結婚記念日

 佐知はスマートフォンの液晶画面を鏡にして、乱れた髪を直した。走ったので顔は赤くなっていたし、肩は荒く上下していた。


 不審者のようにマンションの廊下をキョロキョロと見回しながら、呼吸を整える。腕時計も観た。予定より18分も早い。


 目の前の重い扉を開けて玄関に入ると、直ぐにこちらに向かって駆けてくる小さな足音がした。


「おかえりなさい!」


 母親が「ただいま」と言うよりも早く娘はそう叫ぶと、暴走列車のように靴を脱いだばかりの佐知の腰元に飛び付く。


「チキンだ! チキンの匂いだ!」


 佐知が持っているビニール袋にプリントされたロゴを観ながら、少女は叫ぶ。


「静かにしなさい」

「でもお母さん、チキンだよ。私、チキン大好き」


「知ってるわよ、それぐらい」佐知は居間に向かって歩きながら答える。


「ありがとう、お母さん。私、チキン大好き!」

「別にあんたの為じゃないの。駅前に出店があったから…」


 娘は聞かず、居間へと通じる扉を開けた。部屋の中は食欲をそそらせる、とても良い匂いに満ちていた。


(ピザね)


 佐知は心の中で呟き、息を呑む。お腹の虫が鳴かないよう、腹部に意識を集中させる。


「おかえり」エプロン姿の夫がキッチンから顔を出し、妻を迎える。


「早かったね」

「そう? 気付かなかった」


「ねえ、お父さん。チキン!」と娘


「ほんとだ。わざわざ、買って来てくれたの?」


「違う。偶然駅前に出店があって、これが最後の一個だったの。如何にも学生アルバイトって感じの若い男が店番で、可哀想だから買ってあげたってだけ。仕方なく、よ」


「へえ、そうなんだ。人数分のサラダ付きパーティーセットが一個だけ残っていたなんて、僕等はツイてるなあ」


 夫はそう言いながら、妻の着ている薄手のコートを脱がせる。


 小さな娘は母親の手からチキンの入った袋をひったくる事に成功し、それを食卓に並べられた料理の列に加える。


「ピザを買ったならメッセージを送ってよ。偶然とはいえ、チキンを買っちゃったじゃない」


「構わないよ。実は目分量を間違えて、小さいサイズを買っちゃったんだ。だから、鶏を買って来てくれて助かった。それでようやく、3人が食べるのに丁度良い量になるから」


「もう良い。お互い、嘘が下手過ぎなのよ」


「大丈夫。うちには育ち盛りの野獣がいるんだから。一時間もしない内、皿洗いの必要もないぐらい綺麗になるよ」


 佐知は着替える間もなく席に付く。顔には決して出さないが、彼女自身、最早これ以上目の前のご馳走を我慢できそうにない。


 家族3人が食卓に揃うと、娘が嬉しそうに言う。


「お母さん、お父さん。結婚記念日おめでとう」


「ありがとう」と両親は同時に答える。夫は優しく微笑んで、妻は眉間に皺を寄せながら。


雅楽うた。あんたにとってお母さん達の結婚記念日はそこまで大事な事じゃないでしょ?」


「だって結婚記念日って、私が生まれることを決めた日なんでしょ? ってことは、それは私の誕生日の誕生日。違うの?」


 佐知は眼を見開き、夫の顔を観る。


(また、娘に変なことを吹き込んだな?)


 妻の眼はそう言っていた。だが夫は意味ありげな笑みを浮かべながら、料理を取り分けるだけ。


 雅楽は嬉しそうに鶏肉を手で掴んで頬張る。余りに激しく食べるので、その小さな口元からは、ぼろぼろと肉の切れ端が落ちる。


 佐知は娘が食卓に落とした肉片を掴むと、それを自分の口の中へと放り込む。


「ごめんなさい、お母さん」

「よく噛んで食べなさい」


「これすんごく美味しい」

「食べながら喋らないの」


「ありがとう、お母さん」

「ほら、また落としてる」


 夫は、2人を観て笑っている。


 欲望を満たした雅楽は、暫くして船を漕ぎ始めた。夫が立ちあがろうとすると、妻がそれを制止する。


 代わりに佐知が立ち上がり、歯磨きをさせる為に、雅楽を浴室の隣にある洗面台に連れて行く。


「ほら、ちゃんと歯を磨く」


 雅楽は意識を失う寸前で、上手く歯ブラシを扱えない。


 佐知が歯ブラシを持ち、小さな歯と歯茎を傷つけないように注意して歯ブラシを動かす。


「奥歯もちゃんと磨くこと」

「うん」


「歯の隙間は、ブラシの羽先を優しく当てる」

「お母さん。私、まだ起きてるからね」


「裏側もすっかり磨くこと。でも力は入れ過ぎないで。歯茎が傷ついてしまうから」

「お母さん。私、もうダメかも」


 一刻の猶予もない娘に何とか口をすすがせると、佐知は死に絶えた救世主を抱く聖母のように雅楽を寝室に運び込む。


 子供部屋の床には、おもちゃや本が散乱していた。佐知はおもちゃを片付け、本を棚に戻す。学校から借りた本は、机にきちんと並べる。


「お母さん、お母さん」


 布団を胸元まで掛けた雅楽が、消え入りそうな声で言う。


「何?」

「お母さん。私、この日のために歌を作ったの」


「ありがとう。でももう遅いし、明日は休みだから、朝聞くわ」 


 娘は構わず、歌い始める。


「お母さん、お父さん。結婚おめでとう。

 2人が結婚したから、私が生まれたの。

 でなければ、私は2人の子供じゃ無かったのよね。

 私、猫が好き。生まれ変わったら、猫になる。

 でもその前に、お母さんとお父さんと、うんと遊びたい。

 猫は可愛いけど、お母さんとお父さんも負けてない。

 神様に、猫にしてあげるって言われても、自分はまだ今のままで良いって言うの。

 生まれ変わったら、絶対にメインクーンになる。

 とってもデカい、猫。

 毛が長いから、夏は大変そう。

 だって私は、夏が好き…」


 佐知は寝入った娘の胸元に耳を当てて呼吸を確かめると、最後に雅楽の頬を人差し指で軽く押し、その柔らかさを確認してから部屋を後にした。


「お疲れ様」


 居間に戻ると食卓はもうすっかり片付けられ、夫は台所に向かって食器を洗っていた。佐知が手伝おうとすると、夫がそれを制止する。


「雅楽を寝かしつけてくれたから、こっちは僕がやるよ」

「あれぐらい、仕事でも何でもないのに」


「良いから、お風呂に入っちゃいなよ。わざわざ急いで帰って来てくれたんでしょ? 疲れてるし、きっと汗もかいてるからさ」

「うるさい。私が家主なんだから、余計な事を言わないで」


「ごめん。でもお陰で、雅楽は嬉しくって仕方ないって感じだよ。大好物のチキンと、それに何より、大好きな母親がいつもより早い時間に帰って来たからね」

「まあ、たまにはね」


「お風呂から上がったら、アルコールを淹れるよ」

「ありがとう。でも今日はお茶で良いわ。薄いやつね」


「分かった」


 佐知は脱衣所で服を脱いだ時に一度、そして湯船に浸かった時にもう一度ため息をついた。この一週間はハードだったが、締めは悪くなかった。


 明日明後日はしっかりとした休みだから、どちらかで夫と雅楽を連れ出し、3人で遊んでやろう。


 自分からは誘えないから、また夫に頼むしかない。あの男のことだ、きっと上手くやるだろう。


 そうして計画を練っていると、佐知はこの上なく気分が良くなっていく。


「ありがとうなんて、あんたがそんなことを言う必要はない。

 だってあんたは、あたしが欲しくて勝手に産んだんだから。

 猫になりたきゃ、なりなさい。

 あたしが働いているのは、あんたに好きなことをさせる為。

 あたしの稼いだ金で、あんたは好きなことをすればいい。

 遊んで、学んで、寝て、笑えばいい。

 だからあんたが、ありがとうなんて言う必要はない。

 それはこっちの台詞。生まれて来てくれてありがとう。

 腹を痛めた甲斐があった。亮太郎に似て良かった。

 だってあたしに似ていたら、すんごい目つきが悪いから」


 「いい歌だね」


 着替えを置くために脱衣所に入って来た夫の声が聞こえて、佐知は慌てて鼻まで湯船に浸かった。





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