第39話 風は緑、涙の形


「あら、ノワキさん」

「あ、み、ミユキ……本、借りに来たの?」


ノワキは、言ってから少し後悔する。

果たして図書室に本を借りに来る以外の用事があるだろうか。

ミユキは特に気にする様子もなく、ゆったりと、でも迷う様子のない足取りで歩いている。


「ええ、展示の飾り付けのために折り紙の本を」


ノワキの胸が、チクリと痛んだ。


「……ま、まにあいそう?」

「なんとかね、こうして飾り付けに手を出せるくらいには」

「よかった……」


冷静になってみると、自分があの時どうしてあんなに癇癪を起したのかわからなかった。何度考えても。


「ノワキさんは……人相、と……夢占いの本?」

「あ、これは、その……」





「ノワキ、前は本当に気持ち悪い顔してたけど、いまはふつうに見えるね」

「えっ……あ、ほんと?」


美術部員にそう声をかけられ、ちょっと傷つきながらもノワキは喜んでいた。

この人とふたりきりが気まずくないなんて、初めてのことだった。

でも少し落ち着かないから、早く他の部員も来てほしい。


「悪趣味な絵も描かなくなったし、前より今みたいにしてた方がいいと思うよ」

「あ、う、うん……」


今描いているのは、妖精の絵。

稚拙なものだけど、それでも、悪趣味ではなかった。


ノワキも、目の前にいる美術部員に対して、同じようなことを考えていた。


(前までこの人って、もっと目が吊り上がってて、眉間にぎゅっと皺を寄せてた気がする……喋り方も、もっとずっと、とげとげしかったし……)


「……ノワキって海淵さんにひどいことしたじゃん?」

「うっ……う、ん」


急に嫌なことを蒸し返され、少し居心地が悪くなる。

でも別に、嫌味を言いたい訳ではないようだった。


「あたしも海淵さんにひどいことしたじゃん」

「えっと……」

「窓から落として怪我させて……死なせるところだった」

「……ミユキは、事故だって、言ってたけど」


窓から外をぼうっと見る。

クスノキがざわざわとみどりに揺れていた。

旧校舎の一階、もうひとつの美術部部室から見る景色とはなにもかもが違う。

外は冷たく乾いた風が吹き荒れているのに、青空と緑色だ。

ここだけ、夏に留まり続けているみたいに。


「……あたし、なんで自分があんなことしたのか、わかんないんだ」

「えっ……」

「ただあの時は、無性に怒りにまみれてて、本気で海淵さんを殴るつもりだった」

「あ、アタシも……なんであんなことしたのか、わかんないんだ……」

「……高校生になってからたまに、自分の心が自分じゃないみたいに思う時がある……理由もなく腹を立てて、理由もなく誰かを嫌って……」


心が感情を動かしているというより、先に生まれた感情が勝手に心を動かしている感覚。理由なんて後付けで、整合性をとるための言い訳にしか過ぎないように。


「夢を見た時みたいだなって思った」

「夢……」

「夢って、夢の中にいる時は感情が強く揺さぶられて、自分でもそんな気になってくるけど……目が覚めるとどうしてそうなったのかわからなくならない?」

「そう、かも……」


ノワキは少し焦る。

ノワキの見る夢はいつも薄ぼんやりとした景色のようなもので、起きるとあっというまに、印象すらも消えてしまう程度のものだったから。


「まるで、どこかから怒りを注がれて、それが海淵さんに流れていったみたいにさ、思うんだよね」

「……ミユキに……」

「……ま、それだけ」


それきり、お互いなにも言わず、ただ黙々と絵を描いた。

美術部も文芸部も泊まり込みはしない。

ノワキも最近はしっかり参加し、きっちり下校時刻には帰る生活だった。







「アタシのこと、醜いって、おかあさんはずっと言ってたけど……最近、言われなくなったから……なにか、変わったのかなって思って」

「そうねぇ……」


ミユキは一歩引いて、ふむふむと頷いた。


「背筋が、ぴんとなさったみたいね」

「せすじ?」

「そう、それから、しっかり前を向くようになったのかしら」

「あ、そういえば……前はずっと、靴ばっかり見てた……」

「前髪も少し整えたのね、笑顔が見えて素敵よ」

「あ、ありがと……!」


ふと、美術部員の言っていたことを思い出す。


(たしかに、言われてみれば、アタシの時もそうだった……嫌なきもちが全部ミユキに吸い込まれて、代わりにこうして気持ちのいいなにかで満たしてくれてる)


ミユキの傍は、ひどく居心地がよかった。

寄りかかって眠ってしまいたくなるような、穏やかな気持ちにさせてくれる。

逆のことなど考えもしないまま。そんなことを考えさせもしない何かがあった。


「……ノワキさんは、いままででいちばん怖い夢って、覚えてらっしゃる?」

「えっと……アタシ、夢ってあんまりはっきりみないから覚えてなくて……」

「そうなのね……」

「こ、この間見た夢なら覚えてるけど……あの、森を歩いててね、妖精に会うんだけど、妖精が魔法の国につれてってくれてね、アタシお城のお茶会によばれたの……お菓子をたべるところで眼が覚めちゃったけど……」

「……素敵な夢だったのね」

「う、ウン……」(ちょっと話作っちゃったけど……)


ノワキは少しもじもじとしたあと、夢占いの本を差し出した。


「こ、こわい夢見たなら、調べてみる?」

「ありがとう、でもいいの」

「い、いいの?」

「話してしまえば、記憶に刻まれてしまうかもしれないもの」

「そういうものなの?」

「わたしは、だけれどね」


夢は夢のままでいさせてあげるべきなのだ。

下手に口に出してしまえば、それはきっと、現実に侵食する。

耳から海馬を通り、脳に滲み、さいごは心に降り積もる。

見えないものが見えてしまったら、見えない頃には戻れない。


「あ、あの!」

「どうなさったの?」

「ミユキ、描いた絵を、その……出せるんだよね?」

「そうみたいね」

「それってアタシでも、おねがいできる?」







「あ、ノワキだ」

「茶化しにきたのかそれともチーズケーキを食べにきたのかどっちだ」

「え、えっと……」


すかさずチーズケーキを繰り出すメルと、愛想笑いをやっと覚えたノワキ。

それを横目に、ナギはミユキの袖を引いた。

相変わらず、上等な猫のような手触りのカーディガンだ。


「ミユキ、文化祭の準備で忙しいんだから無理に相手しなくていいのに」

「まあ、心外!」


久しぶりに部室に画材を広げ、ミユキはどこか楽し気に笑っている。


「彼女は今日、ご依頼にいらしたの、れっきとしたお客様なのだわ」

「え、マジ?」

「まじなのよ」

「えぇ~……あのノワキが、何を出してほしいって?」


ミユキは楽し気に笑いながら、どこか遠くを見る目で真っ白なキャンバスを見つめた。


「こわいゆめ、ですって」


ナギはやや乱暴にため息を吐いた。


(悪夢にあれほど怯えるミユキに、そんなものを描かせるなんて!)






これは夢。


こわい夢。


そんなものを見てこなかった誰かのために、そんな誰かの望むままのこわい夢。


エメンタールチーズのような穴だらけの自意識で。

明るい室内から夜空の星を探すような客観性で。

誰かの大切なものを奪うとどうなるかすらわかりもしない想像力で。


いっしょうけんめい考えた、こわい夢。


果たしてそれは絵になるか?

果たしてそれは愛に足るか?

果たしてそれは夢をみるか?


洞穴に響く、死にゆく水滴の音。

死にゆく水滴は、生まれゆく水たまりの産声になるだろうか。

暗く響き、可愛らしく爆ぜる。

黒く沈み、カラフルに光が散る。

ああ、すこしだけ、夜景みたいだ。


キャンバスから滲むは夜の黒。

足元手元も覚束ない、ヒトとヒトとを断絶する黒。

夜に似ていて夜から遠い、ひとりぼっちを浮き彫りにする。

見えぬは己の姿ばかり。

楽し気に光るヒトでないもの。


「……おばけやしきといえば、そう見えなくもない……の?」

「おばけさん方はおまけなのでしょうね」

「おばけさん、て……おまけ、て……」


彼女が本当に恐れるのは、暗闇にひとり立ち続けること。

恐怖の対象にすら助けを求めたくなるほど、でも一瞥すらされず、己抜きでも楽し気に。あれはつまり、ミユキであり、ナギであり、誰でもない誰かでもあり。


「すこしだけ、理解はできるのだわ」

「ミユキが?ノワキを?」

「わたし、たまにね、じぶんのかたちを確かめなくっちゃならないと思うのよ」

「どゆこと?」


暗闇に溶け込んだミユキの声が、遠くから近くから反響している。

夢の汀で聞こえるような、体の芯に直に響く声。


「わたしたちはあまりにも不確かすぎる存在で、通り過ぎれば記憶の片隅に残ることもなく無意識の彼方に送られて、いつか振り返られることなく霧散する……存在していたかどうかすら、自分にさえ自信が持てないの」


おばけたち以外の姿が見えないことに不安になる。


「果たしてわたしは、ほんとうにここにいるのかしら?いいえ、ここにいる意味があるのかしら?いてもいなくても、世界はさして変わらず正しく進むのでしょうね」


どこかで聞いた音がする。

ちいさい金属同士のぶつかる音に似ている。

いや、本当にそうだっただろうか。そんな音だっただろうか。

ここでは、なんの確証も持てない気がする。

ミユキによって。


「じゃあ、わたしのしていることに意味はあるのかしら?意味があることには意味があるのかしら?いのちはなぜ、存在しているの?なんのために?どこを目指しているの?ああ……、そんなこと、さめない眠りにつく瞬間にしか、わからないのよ」


ぐわん、ぐわん。

近く、遠く。

おおきく、ちいさく。

ぐわわん、ぐわわん。

いのちを遠巻きにしながら、何かが渦巻いている。


「幸福は持続せず、不幸だけが迷宮に残り続けるのよ、不公平にもね……でも、わたしはそれでいいと思うわ……だって、寂しさや悲哀こそがわたしのしていることに意味がある証明だもの」


金属、金属、ちいさい金属。

ああ、違う。金属のぶつかる音なんかじゃなかった。

これは、雪の降る音だ。

ちいさな氷が軋みながら、花を咲かせながら降り積もる音。

それがいくつもいくつも重なって、冬だけの音になる。


「ひとはさめない眠りにつく時、どんなことを思うのかしら……わたしはね、ほっとしたわ……果てのない暗闇に、果てしない安堵を持ち切れないほど」

「ミユキはまだ生きてるじゃんか」

「生きてる、そうね、生きているのだわ……助けられて目が覚めてしまった時、わたしは心底落胆したのだもの、うらめしかったわ」

「ミユキ……アンタ、大丈夫?」

「わたしはいつだってだいじょうぶなの、誰かが目の前にいる限り」

「……ミユキもここ、怖い?」


ミユキはしばし黙り込み、やがて困ったように、再び語り出した。

ナギは思う。

ナギからミユキは見えないが、ミユキからナギは見えているのだろうか、と。


「でもね、ひとりになると自分がどろどろした不定形の何かに思えてきて、わたしはわたしのかたちを探すの……たとえば、金魚鉢などがあって、わたしはそこに詰め込まれる……そうすれば、好きなだけひとりきりになって、気の済むまで自分のかたちについて考えることができるもの……少なくとも、答えが出なくとも、わたしが溶けだして流れ出していってしまうこともないわ……ジャムの瓶でも、ペトロールの瓶でも構わないわ」


(ああ、ノワキは面倒事をミユキに流し込んだ!)


修治することのない毒のように、じわじわじわじわミユキを蝕む。

何もなかったと思いきや、思い出した、いや、思いついたように毒を流し込む。

意識的にしろ、無意識にしろ。


(どこかから湧いた毒が、みんなミユキに流れていってるみたい)


誰も彼もがひっそりと抱えていくはずだった毒物が、すべて引きずり出されて吸い込まれていく。

排水溝のように。

果たして、排水溝は毒で溢れる時が来るだろうか。

排水溝に流れて行った毒は、どこかへいくのだろうか。

海に流れ着いてしまうのだろうか。

それともいつか、逆流してしまうのだろうか。


「……暗闇は、よくないね」

「概ね同感なのだわ……彼女も満喫したでしょうし、そろそろ覚めてもらわなくてはね」


排水溝へ流れる水が逆回りに渦巻くように、暗闇がミユキへ収束する。

光にあふれる旧校舎で、ミユキひとりが暗闇をすべて飲み込んだ。


「どうだったかしら?こわいゆめは」

「うん……怖いけど、ドキドキして、ちょっと楽しかった!」

(ミユキの気も知らないで……)


ミユキは飲み物を淹れ直しながら、震える手を誤魔化した。


「次は、楽しい夢をおすすめするわ」

「うん、またお願いしに来るね!」


すっかり元気を取り戻したノワキは、ふつうの少女のように笑顔で去って行った。

かつてのように、自信なさげでありながら乱暴な足取りではなかった。

それこそ春風のように、スキップでもするみたいに楽し気で軽やかだ。


ナギは思った。


次にノワキが来たとして、ミユキは今までのように足音で気付くことができるのだろうか。


(きっと、できるんだろうな)


変わったばかりのノワキの足音を、たった今、聞いたのだ。

蜘蛛の巣のように張り巡らされた神経で、それさえも無意識にキャッチしてしまっただろう。


(自分のかたちもわからないのに、他人を縁取ってあげるなんて)


髪の毛は青味がかりながらもしっかり黒くて、瞳は春の海のように青い。

髪の毛はセットに時間のかかるナギが羨ましくなるくらいストンとまっすぐ。

身体は小さくて細くて、いつも青白い。

でもきっと、ミユキが知りたいミユキのカタチは、そんな表層的なことではない。


(代わりに私がミユキのかたちを教えてあげられたらいいのに)


心の奥の無意識の底のずっとずっと真っ暗闇を、縁取る何かを知りたいのだ。


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