第33話 ミユキの方舟
「………………あれ?」
「おはよう、ノワキさん」
「……あれ、ミユキ?あれ?」
「どうか、なさったの?」
「あ、……アタシ……寝てた?」
「ええ、ぐっすりと」
ノワキが目を覚ますと、そこは学校の保健室だった。
状況がわからずパニックに陥りかけるが、ミユキに宥められ再び布団を被る。
「……なんか、ちょっとだけ寒い」
さっきまで、あたたかい場所にいたような気がしていたのに。
いい夢を、みたような気がする。
やさしい、やさしい、甘い夢を。
ほんとうに許されたかった誰かに許されるような。
悲しみが残っているのに、傷付いたのに、それでも満足感の残るような。
もう一度眠れば、見られるだろうか。
「暖房の温度を上げてもらいましょうね」
「ウン……」
「いきなりお外で倒れたのですもの、ゆっくり休んでからおうちまでお送りするわ」
「アタシ、倒れたの?」とか、「送ってくれるの?」とか。
言いたいことはいっぱいあって、聞きたいことがいっぱいあって。
でもなぜかとても恥ずかしいことのように思えて、そっと布団に深く潜り込んだ。
どこまでが現実だったのだろう、どこからが夢だったのだろう。
「……アタシが昔、ナギに、怪我させたの……ごめん」
「…………わたしに言っても、仕方のないことだわ」
「うん……でも、ごめん……」
ミユキはホッとしたように小さく息を吐くと、布団の盛り上がりを優しくポン、ポン、と叩き、保健室を出て行った。
(……そっか、ミユキは、おかあさんに、似てるんだ)
目を瞑ると、ずぅっと小さい頃の記憶がよみがえる。
家の中と庭先、たまに行く公園やスーパーだけがすべての、小さな世界。
(おとうさんも生きてて、まだやさしかったころのおかあさんに似てる)
熱を出して、こわいゆめを見て静かに泣いていたことがあった。
いつもみたいに大きな声で泣きわめくわけでもなく、その時はただ静かに、涙をこぼすだけだった。
「こわいゆめを見たの?大丈夫、こわいのはおかあさんが食べちゃうから」
母親の少しざらついた冷たい手が、ノワキの額をやさしく、何度も撫でた。
冷たい氷水で冷やしたタオルを、何度も何度も取り替えて。
手があかぎれてしまっても、何度も何度も。
この子が助かるように、祈りの数だけ、何度も何度も。
(アタシずっと、あの時に、戻りたかった)
これはきっと、作った記憶ではないはずだ。
(アタシがおとうさんをころしたから、おかあさんは変わっちゃったんだ)
変えようのない過去。
現在は過去の地続き。
現実はやさしくて、痛くて、とても苦しい。
世界は荒れ狂う海のようで、生き辛さが自分だけを襲うような気さえしてくる。
正解もわからず、誰も教えてはくれない。
だって、誰かの正解がノワキの正解と同じとは限らないのだから。
ああ。
後悔という大渦に、呑まれていく。
◆
「ねえ、ナギさん」
旧校舎へ向かう道、ミユキは立ち止まって呼びかけた。
ミユキを待っていたナギが、いくらか歩み寄って、同じように止まる。
「やさしさ、って、一体なんなのかしら……」
ノワキにとってのやさしさは、純度100の甘やかしでしかなくて。
ミユキにとってのやさしさは、半分が厳しさを含んでいて。
やさしいって、どんなこと?
ずっと求めるもののはずだったのに、それがどんなものかわからない。
青い絵の具を譲ることは、やさしさにはならなかった。
誰かのほしがるものを与えることが、やさしさじゃなかった。
誰かを許すことは、やさしさにはならなかった。
誰かを甘やかすことが、やさしさじゃなかった。
誰かの傷を請け負うことは、やさしさにならなかった。
誰かの苦痛を奪ってしまうことが、やさしさじゃなかった。
でも。
花冠は、やさしさだった。
クッキーは、やさしさだった。
チーズケーキは、やさしさだった。
ねこちゃんの陶器は、やさしさだった。
遠雷のような叫びは、やさしさだった。
「わたしが、わたしだけが持ってないものなのかもしれないのだわ」
わからなくなるたびに思う。
だから自分は変だと言われるのではないか。
自分は本当は、人間とも呼べない代物なのではないか。
自分はどこかおかしいのではないか。
誰もが当たり前にわかっていてできることを、自分だけができていないのではないか。
自分は、悪魔よりもずっとずっと醜悪な。
「あのね、ミユキ」
「はい」
「そんなもの知らん!」
「……う、嘘だわ、だって、クッキーは優しさで、ナギさんは優しい方だもの」
「ミユキにとってはそうだったってだけの話でしょ」
ナギは難しいことは考えたくない、と頭を掻きむしった。
「私も思うことくらいあるんだけどね」
「はい」
数回唸り、なんとか言葉を探し当てる。
国語の授業、もっとまじめに聞いておくんだった、と後悔する。
「やさしさはさ、種なんだと思うわけよ、植物みたいなね」
「たね……」
「根っこにね、誰かを想う気持ちがあって、それだけでというか、それだけがやさしさって呼ばれるんだと思う……これも、私ひとりの考えでしかないけど」
ミユキはじっとナギを見つめ、静かに頷きながら話の続きを待っている。
「えっと、いろんな刺激や経験が積み重なって、その種から、絵だとか、クッキーだとか、チーズケーキだとかのね、芽とか花とか実がね、いろいろ……いろいろなんだと思う」
「いろいろなのね……」
「いろいろなのだ」
「ありがとう」
(よかった、私の下手な説明で納得してくれたみたい……)
「やっぱりナギさんは、おはなしが上手なのだわ」
滲んだ涙を拭い、ニコッと笑う。
「それならわたし、花束を作れるように頑張るのだわ」
「花束か、いいね」
必ずしも、やさしさで人が救われるとは思わないけれど。
必ずしも、やさしさで人が救われなくても。
「迷宮のどこかに、そっと置いてくるだけでも、やってみたいの」
例え、すべてが余すことなく悪意で作られた人間が存在したとしても。
それでも、迷宮のようなこころのどこかには、花束を置くスペースくらいは、あるかもしれないのだ。
いつかその花束から種が落ち、花畑だって生まれるかもしれないのだ。
「まずはさ、楽しいこと考えよっか」
「たのしいこと?」
「もうじき、文化祭準備期間がくるよ」
「!!そうだったのだわ!!!」
ああ、ナギから種があふれている。
それはあっという間にミユキに満ち、色とりどりの花を咲かせた。
「しっかり計画して、たのしいお泊り会にするのだわ……!そうと決まれば準備ね、あれもこれも用意して、あぁ、寝るのがもったいないわ!!」
「ミユキはまず、しっかり休むこと!」
「まことに遺憾である……」
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