第15話 移ろい
あれから私は迎えにきた兄さまに連れられてそのまま牛車に乗せられた。
泣き疲れて頭がぼうっとしていたためか宮さまにお礼も言えず、柾路さまはおろか道楽や伸弘にも会うことなく、大納言家が仮の住まいとしている宮さまの別邸へと移り住むことになった。
牛車を降りたとき、あの盗賊の邸にささらを置いてきてしまったと思ったけれど、杞憂だったみたい。ちゃんと私にあてがわれた部屋にいて、浮草と一緒に出迎えてくれたから。
「姫さま。おかえりなさいませ」
「ささら……⁉ あちらに残らなくて、よかったの?」
「はい。ささらの居場所は姫さまのお側にしかありませんから。……お側にいても、いいですか」
もじもじと伺いを立てるささらがとても可愛くて、思わずはにかんでしまう。これで断れる人がいたら見てみたいものだわ。
「ささら」
震えている小さな手をとって、きゅっと握りしめる。
「前にも言ったはずだわ。わたくしはささらが好きよ。ささらが側にいてくれるなら、これほど心強いことはないもの。これからもよろしくね、ささら」
「姫さま……! はい、ささらは姫さまに一生懸命尽くします!」
嬉しそうににこにこするささらの頭を撫でていると、私の後ろで見ていた浮草がもう我慢がならないといった風に抱きついてきた。
「姫さま……! あぁ姫さま! よくぞご無事で……」
「痛い、いたいわ浮草。そんなに強く抱きしめられては息ができない……っ」
浮草はずっと心配してくれていたのだろう。そのことが、抱きしめる強さから伝わってくる。
それにしても浮草がこんなに力があるなんて知らなかったわ。
「姫さまがお悪いのですよ。わたくしをここまで心配させるのですから……もうしばらくは離れませんからね」
「それは困ったわね……もう。心配しすぎよ浮草」
「心配しすぎ、ではなく心配することしかできなかったのです! 本当はずっと、ずっと姫さまのもとへ行きたかった……。されど女房の身で後先考えずに駆け出すことも叶わず、綿入れや新しい衣を仕立てて姫さまのご無事を祈ることしかできませんでした」
後先考えずに駆け出したかった。
浮草のその言葉を聞いて、不意に思い出し笑いをしてしまう。
「何をお笑いになっているのですか。浮草はそれはもうご心配申し上げて……!」
「ううん、違うの浮草。私も柾路さまを探しになりふり構わず駆け出そうとしたことがあったから、さすがはわたくしの女房だと思って……」
「姫さま」
あの方の名前を聞くと、浮草は眉根を下げて私の顔を伺ってくる。
「話は聞いているのね。本当にもう、心配しなくてもいいのに」
「姫さまはわたくしの前でさえ強がるおつもりですか」
「強がってなんか、いないけれど……」
ここまで気丈にしてこれたのも、浮草の前で泣かずにいれることもできているのは、きっと宮さまのおかげだから。
でも柾路さまのことを浮草に詳しく話すには、まだ少し時間が必要なの。
だから、話を逸らすことにした。
「そんなことよりも、少し疲れてしまったわ。浮草、何か飲めるものを持ってきてくれないかしら」
「わかりましたわ、姫さま。すぐにお持ちします。ささら、姫さまのお召し替えをお願いするわ」
「はい、浮草さん」
久しぶりに会うことができた浮草の顔ったら。涙と嬉しさをないまぜにして、私の無事を心から安堵したみたい。ささらに着ているものを替えてもらいながら、私はやっと家族のもとへ帰ってきたのだと感じることができた。そのためか、着替えながらことんと意識を失ってしまって、また二人を心配させることになってしまったの。
仮住まいに移って半月ほどが経った頃、梅の花が強く香ることに気がついて目が覚めた。私に宛てがわれた部屋からほど近い場所に、梅の木が植えられていたみたい。ついこの間雪が降っていたと思っていたのに、もう花が咲く時期になっていたなんて。
それくらい、目まぐるしいことが起こっていたのだと花の香りが教えてくれた。
「ですから、若君のそういうところが女人には受け入れ難いのです。意識もろくにない女性の寝所に足繁く通うなどと」
「誤解を招くようなことを言うでない。ちい姫は妹なのだから見舞いに来るのは当然のことだろう」
「妹君だからとて、そう易々と入られては困るのです。悪評が立って苦労なさるのは若君なのですよ! 他の姫君のもとへ通えなくなってしまうではないですか」
「私は他の姫君のもとに通えなくなっても、その姫君がいなくては何も困ることなどない。結婚できなくてもそなたが世話をしてくれるのだからな」
「な……っ!」
懐かしい口論をしながら入ってくる兄さまと浮草。私が盗賊のもとにいた頃、何かあったのかしら。そんな雰囲気が二人から漂ってくる。
正直な話、浮草と兄さまはお似合いだわ。でも二人にそんなことを言ったら痴話喧嘩さえしなくなると思うから今はやめておかないと。だって、二人が言い合う声を聞いていると日常に帰ってきたのだと思えて嬉しくなるのだもの。
このなんでもない平和な日々が嬉しいのに、あれからずっと私の胸にはぽかりと穴が空いていて、どこにも吐き出せない虚しさがそこに居座っている。
浮草には強がってなんかいないといったけれど、気付かないふりをするにはあの恋はあまりにも存在が大きすぎた。忘れたくても、閉じたまぶたの裏にはまだ鮮明に彼の姿が浮かんでくるから。
分かって、いるのに。
「ちい姫、調子はどうだ」
「ありがとうございます。また風邪をひいてこんなに寝込むことになるとは思いませんでした。あの邸にいたときより体が熱くて、苦しいなんて……」
「ちい姫が気を失ったと聞いたときには肝が冷えたぞ。あんなことがあったのだからな。無理をしていた分、体が休息を必要としていたのだろう。まだ無理はしてくれるなよ」
兄さまの手の甲が、私の首筋に当たる。盗賊の邸で熱を出したときのように、優しくて少し冷えた兄さまの大きな手。心から信頼していた人にあんな風に裏切られて平気でいられるはずがないのに、見える表情はとても穏やかなのはなぜなのかしら。
「それで、ここに来たのは柾路のことについてなのだが……」
兄さまの口からその名が出て、私は思わず目を伏せてしまう。
聞きたくないのなら後にするが、と兄さまは言ってくれるけれど私は首を横に振って否と返事を返す。
「いいえ、ちゃんと聞きます。あの方がどうなったのか、知りたいから」
「そうか、ならば話そう」
私の覚悟を受け入れた兄さまは、私が動揺しないよう言葉に気をつけながら柾路さまのことを教えてくれた。
宮さまからの奏上により、左大臣は皇女暗殺の実情で主上より退任の沙汰が下され、また、唯一の嫡男ということになっている柾路が未だ行方不明となっていることから失脚した左大臣家の命脈は途絶えることとなった。
そして臨時の除目にて新しい左大臣が決まり、大納言だった父さまが新たに内大臣となったこと。行方不明となっている柾路さまは兄の道楽のもとに身を寄せ、ひっそりと暮らしていること。
道楽と柾路さま……この二人の存在が政に大きな影響を及ぼすなんて、誰が知り得ただろう。
「大規模な変動があったのですね」
「ああ。これで我が家も晴れて内大臣家に昇格ってところだな」
「兄さま……」
明るく振る舞う兄さまを気遣うと、苦虫を噛んだ顔を返されてしまう。
「そなたまでそんな顔をしてくれるな。突然失脚させられた左大臣のことで嘘か真かわからぬ噂が飛び交っているが、衛門督が我が大納言家を放火したとして左大臣は辞任に至ったと皆思っている。無理もない。自ら婚儀中に妻になろうとしている姫の邸を燃やしたのだからな。そう捉えられて当然だろう。むしろそのほうが自然に見える」
「でも、柾路さまがあそこまで思いつめられた根源は左府さまにあったのに……」
「そうだな。だが無闇にまことのことを言ってしまえば、毒殺されたそなたの母君までよからぬ噂を立てられてしまうだろう。だからこれでよかったのだ」
単純に大納言家の放火について左大臣を処罰としたほうが分かりやすいということ――。その理屈は理解できるのに、あまり腑に落ちない。
それではあまりにも柾路さまが……。
「ちい姫、憐れむべきは柾路ではない。もっと嘆いてもいいはずだ」
「嘆く……? どなたが?」
「そなただ、ちい姫」
兄さまの手が私の頭を撫でてくれる。
「体調は良くなっただろうが、心はまだ癒えていないだろう。柾路を許さなくていいんだよ、ちい姫」
「……いいえ兄さま。許す許さないは、もういいのです」
熱にうなされてずっと臥せっていたためか、あの盗賊の邸であった出来事が現実離れしていて、遠い過去のように思える。だから、心の燻りこそあれど、それはもう火を灯すことはない。これからも、ずっと。
それだけがただただ、悲しい。
「ただ……柾路さまはわたくしのことを少しも――」
ほんの少しでも好きだと思ってくれることはなかったのかと。
言いあぐねて、その先を空気に濁す。兄さまはそれに気づかなかったふりをして、また私の頭を撫でた。
「たくさん話を聞いて疲れただろう。今日はもう休みなさい。浮草にも伝えて明日はちい姫の好きな唐果物を持ってこさせよう」
それだけ言って、兄さまは外で控えている浮草やささらを呼びに出ていってしまう。
「ありがとうございます、兄さま」
部屋から出ていく兄さまの背を眺めていたら、兄さまがあんなに穏やかで落ち着いているのは、私に元気になってもらいたいからなのだと気づいた。
なんて強い人なのだろう、と頭に残った温もりに少し、泣きそうになった。
それからまた、数日が経った頃。
すっかり体調が良くなった私は、ようやくお父さまとも対面することができた。
私が本当に大丈夫なのかよく顔を見せて欲しい、ということで御簾を降ろさずお誂え向きに几帳を立てる。その途中で他の女房に呼ばれた浮草が出ていってしまったので、私とお父さま、二人きりになった。
こんなこと、裳着を終えて以来初めてかも知れない。
「ちい姫、元気になったようでなによりだ」
正面に用意された円座に座したお父さまは私の顔をまじまじとみて、安心したように微笑んだ。私も軽く顔を扇で隠し、それに応える。
「ご心配をおかけいたしました。お父さまも内大臣に任ぜられてお忙しいと浮草から聞いております」
「そうだなあ……。まさか、今になってあれの仇が取れるとは思わなんだ。そなたには母の素性を隠していてすまなかった。言うにやまれる事情があったことは察しておくれ」
「分かっております。わたくしの母は女二の宮だったのですね」
女二の宮……。詳しくいうと、四代前の帝の
そんな方が私の母だったなんて、今でも信じることができずにいる。生まれてから一度もお会いしたことがないからだわ……。
「お母さま、どんなお人だったのかしら……」
「聡明で強かで、それでいて可愛らしい可憐なひとだったよ」
お父さまに向けたわけではなかったけれど、私の独り言を聞いて今は亡き人を表す言葉をゆっくりと伝えてくれる。
以前よりも増えた気がする目の皺を、更に深くして笑うお父さま。
まるで、今もお母さまが生きているみたいで。
「そうだ、そなたのその髪のくせは母譲りだな。あれも毎日必死に梳いていたものだ。私がいくら気にするなと言っても『あなたさまには分からぬでしょうね』と言って怒られていた。姫宮である分物言いは宮らしくあったが、私を前にして髪や衣を気にする姿はまるで乙女であったよ」
「ふふ、お母さまがご存命なら、わたくしのこの髪も一緒に梳いてくださっていたかしら」
「ああ。そうだろうな……。そなたはとても良く似ているよ」
初めて、お父さまからお母さまについて話した気がする。それもそうよ。愛しい人をあんな風に奪われて、その愛しい人のおもかげを持つ娘と思い出話なんてできるはずないもの。寂しくて、悲しくて心が壊れてしまいそうになるのを、お父さまは『そなたの母は妾であった』と言って気丈に保っていたのだわ。
今だからこそ、やっと、話すことができた。
「お母さま……少しでもいいからお会いしたかった……」
「そうだろうな……そなたに寂しい思いをさせてすまない」
「いいえ。恋しくはありますが寂しいなんて思っていないわ、お父さま。わたくしにはわたくしを大事にしてくださる素敵な家族がいるのですもの」
私を一番に愛してくださっている兄さま。遠く離れていてもずっと気にかけてくださっている姉さま。兄さまと姉さまの母君である北の方さまも、会えばとても良くしてくれた。浮草やささらだって。
みんな私を大事にしてくれるし、慈しんでくれる。そんな家族に囲まれて寂しいなんてとても言えないわ。
幸せだもの、私。
「そうか、それなら私も安心だ。さて、我が邸の立て直しが終わったらそうそうにこちらを引き払おう。有明の宮さまにも多大なご迷惑をおかけしまっているしな」
「邸の立て直し……いつ頃終わるのですか」
「常より職人を増やして昼夜問わず取り掛かってもらっているから、想定よりも早く終わるだろう。ふた月……いや、ひょっとするとあとひと月ほどで完成するやもしれぬ」
「そうなのですね。いつでも移れるよう整えておきますわ。体調も、身の回りも」
「うむ。では私はまだやるべきことがあるので大内裏へ戻るよ。また倒れるまで無理をせぬようにな」
お父さまが去るのと同時に、浮草がこちらへ戻って来た。
『有明の宮さまがこちらへいらっしゃるというお触れがありましたわ』と、私に耳打ちをするように伝えて来たものだから、急に緊張してしまう。この邸へ移って以降、体調を悪くしていたためあまり人と会っていなかったんだもの。お父さまでさえ前の邸が火事になったとき以来だった。
宮さまと最後にお会いした時の私は身も心も憔悴しきっていて、お別れを伝えたのかも分からない。あれだけ私を気にかけてくれた宮さまになんて失礼なことをしたのだろうと、今更ながらに扇で顔を覆ってしまった。
どんな顔をしてお会いすれば良いのかしら……。
「久しぶりだね、ちい姫。顔色は良くなったみたいだけど、少しやつれたかな?」
「ご無沙汰しております。おかげさまで、宮さまには本当にお世話になりました」
「何を他人行儀な。僕がやりたくてやっているのだから、ちい姫は気にしなくていいんだよ」
浮草が御簾を降ろそうとしたところを止めて、お父さまと同じように近くの茵に座ってもらい、几帳のみにするようお願いする。宮さまのおっしゃるとおり、他人行儀をするには私たちは相手を知りすぎてしまっているのだもの。でもさすがにお顔は直視出来ないから、扇から覗くようにする。
いつもお召しになられているものとは違い、今日は藍色の狩衣を身に纏っている宮さま。とても気楽な格好をなさっているのだから、私と会うのに堅苦しく気構える必要はないと判断されたのだろう。近頃は帝のお力添えになるべく出仕しているという話も聞いていたけれど、なんだか以前と雰囲気が違う気がするわ。
「毎日きちんと食事はとっている? あまり食べたくなくても栄養だけはつけなくてはいけないよ。これ以上軽くなってしまうと、
宮さまの饒舌な口上に、思わず吹き出してしまいそうになる。宮さまこそ誰かれ構わず歯の浮くような台詞しか言わない、出会った頃のよそよそしい他人のようなんだもの。
これって、もしかして。
「わたくしが言うのも差し出がましいのですが、宮さま。少し、緊張しておられますか」
「……」
驚くべきことに、ほんの少し頬を赤くした宮さまが目の前にいる。いつもどこか、女人の扱いには慣れていて
「見抜かれてしまうなんて僕もまだまだだな。ちい姫に会えることがとても嬉しいのに、いざ目の前にしたら言いたかったことがすべて抜け出てしまった。口から出てくるのは慣れている口説き文句しか出てこない。困ったな……」
「わたくしも……そのようになったことがあります」
「……ちい姫」
「お会いできると聞いたときには身だしなみを整えて、衣に香を焚き染めて。髪に油を塗り丁寧に梳いてもらって。なのにお会いしたら何も伝えることができなくて……」
御簾越しに象る彼の影を思い出して、胸の奥がつきんと痛む。そんな感情を抱いたときが、確かにあって。宮さまも同じように想ってくださっていることが痛いほど伝わってくる。
これが恋焦がれる、ということ。
「ごめんね」
物想いに耽ていると、宮さまが不意に謝ってきた。彼を思い出させるようなことを言ってしまって、と申し訳無さそうに俯かれてしまう。
「とんでもございません。わたくしは今、宮さまとお会いできることほど嬉しいことはございませんから」
「本当に?」
「はい。宮さまがわたくしを救い出してくださったからこそ、こうして元気に暮らすことができているのです。このお邸も本当に居心地が良くて、宮さまにはどれほど感謝を申し上げたら良いのか分からないくらい……」
「いっそのこと、ずっとここにいてもいいんだよちい姫。そうだ、それがいい。僕と結婚して、僕の妻になって、この邸の主となればずっとここにいられるから」
「……っ、それ、は……」
宮さまはふっ、と微笑まれる。すぐに冗談だとわかるくらいには、その申し出は宮さまに似合わない言葉だった。
あの出来事からまだそれほど時が経っていない。いくら私が失恋したからといって、そこに付け込もうとする宮さまでないことは私がよく知っている。だから宮さまがそう言ったのは、私がまだ柾路さまのことを想っているのかそうでないのか判断されるためのものだったのだろう。
現に私はいま、宮さまとの結婚を想像することが出来なかった。
「試すようなことを言って悪かった。僕のこの想いでちい姫を苦しめることはしたくないって言ったけれど、僕はまだ、性懲りもなくちい姫のことを想っているんだって伝えたかった。ただ、それだけだよ」
「ありがとう、ございます……。宮さまのお気持ちはとても嬉しいのです。でも、わたくしは……」
「
「ち、違います……! こんなわたくしが、宮さまのお申し出を受け入れられる資格が、ないと……」
そこまで言って、言葉を濁す。
そうよ、宮さまが言ったことは間違ってなどないわ。
これ以上宮さまを傷つけたくなくて……私が、傷つきたくなくて。強がっていても無意味なことぐらい分かっているのに。
しばらく押し黙る私を、宮さまは辛抱強く待ってくださった。
「宮さまの仰るとおりです。柾路さまのことを忘れようと嫌いになろうとすればするほど、何も知らず幸せだったあの頃の思い出に心が蝕まれていくようで、苦しいのです」
「結局ちい姫はずっと苦しいまま、なんだね」
「はい。だからこそ……こんなわたくしでは宮さまのお気持ちを受け止めることが出来ないのです」
「彼は……柾路はちい姫を殺めようとしてたんだよ」
分かっている。
柾路さまにどんな理由があろうとも、その事実だけはどうしても覆せない。やってはいけないことをやろうとしていた方を、まだ好いていると言っているようなものだ。
なんて愚かなのだろう。
「それでも、柾路さまはわたくしに、誰かを想う気持ちを、恋をするという喜びを感じさせてくれました。初めての恋を、知ることができました」
「彼はなんてことをしてくれたんだろう。あんなことを
穏やかな口調で、宮さまはまいったね、と小さなため息をつく。どれほど説得をしても簡単には諦めてくれないのだろうと察した様子で困った顔をしていた。
「ちい姫という呼び名にふさわしく、わたくしはまだ
「そうかな。ちい姫はまだ
盗賊の邸にいた時のことをからかわれていたことに気づいて、思わず笑んでしまう。
確かに柾路さまが行方不明と聞き、探しに行こうと走り出そうとして道楽やささらに止められたことを思い出す。囚われている身でありながら、見張りがいることも予想せず部屋から抜け出そうとしたことも。
周りが見えていなかったことは事実で、あの時の私は本当に愚かだった。
「やっと少し、笑ってくれたね。今日はその顔を見に来たんだ。僕を受け入れてほしくて来たなら強引にでも結婚の話を進めているとは思わない?」
「わたくしは宮さまがそのようなことはなされないことを存じております。とてもお優しい方ですから」
「ふふ、ありがとう。」
宮さまがくすくすと笑う。
「あの、宮さま……。わたくしは、宮さまのことを」
「言わなくていいよ」
「え?」
「僕を慰めようとしているのでしょう? そんなことを言われたら逆に惨めになるだけだから、言わなくていいよ」
本当は違うのに。
宮さまが想ってくださっている以上に、宮さまは私にとって大切な存在なのだと伝えようとしただけなのに。
今の私からは何を言っても、宮さまのお気持ちに対する慰めにはならない。このままではこのお方に何もしてあげることができないのだと思い知って、とても心苦しくなった。
宮さまが『苦しめることはしたくない』と言っていたのに、勝手に苦しんでいる。
「その代わりに、僕のお願いを聞いてもらえないかな」
軽い沈黙に見かねた宮さまが、扇越しに私の顔を覗くために首を傾げた。
「お願い、ですか」
「そう。今夜は月が真上に登るまで、起きていてくれないかな」
月が真上に。宮さまがそのころにここへ忍んでこられるということなのかしら……。
「ああ違うよ、そうじゃない。夜這いしようなんてこれっぽちも思っていないから安心して。そうだなぁ、あの釣殿からひとりで見る月が、一等きれいだと思う」
「ひとりで、ですか」
宮さまが視線を向けた先には、私からは見えないけれど東の釣殿がある。
私がいる東の対からはそれほど遠くないから、夜が遅くても一人で行ける距離と判断したのかもしれない。
ひとりということは、浮草やささらも側に置いてはいけないということ……よね。
「女房たちには近くに控えて貰って、釣殿にはちい姫がひとりで来てほしい。ひとりは怖い?」
「いいえ、大丈夫です。宮さまのお願いですから、そのようにいたします」
宮さまがこちらをじっと見つめていたかと思うとゆっくり立ち上がり、几帳を越えて私のいる茵の前まで踏み込んできた。
そして扇を持っている私の手に自分の手を重ねる。
「僕を信じようとしてくれて、ありがとう」
ふわりと香る、宮さまの甘い匂い。
「月を見ようが朝を待とうが、ちい姫が望むほうを選んでほしい。僕は有明の月だから」
目と目が合い、逸らそうと思っても逸らせない。
久しぶりに間近で見る宮さまのお顔が相変わらず美しいものだから、持っていた扇を奪われたことに気づかなかった。
僕は有明の月。それだけ言い残して、宮さまは去っていった。
月を見ようが、朝を待とうが。
宮さまが何を示しているのかは分からない。
でもその答えが分かる頃にはきっと、このどうにも出来ない心苦しさからは開放されるのだろうと、扇が無くなった手元を見ながらぼんやりと思った。
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