第4話 政の恋

 気がついたら私は登華殿に連れ戻されており、事の顛末を聞かされた姉さまにきつく抱きしめられていた。あまりの息苦しさに息ができなくて死んでしまいそうな私の手を、そばにいた松風が優しく握る。

「いきなり有明の宮さまに連れて行かれるんですもの、大変心配致しました」

「松風……ごめんなさい」

「ご無事でなによりです」

 松風は心底安堵したように頬を緩める。余程心配をかけたのだと分かり、少しだけ罪悪感を感じた。……ううん。私は悪くないわ。全部、あのナントカの宮さまが私を連れて行ったから悪いんじゃないの。今でも信じられない。あんな軽率な態度をとる人が、宮さまだったなんて。

 見た目は美しかったけれど、宮さまだからってあんなことしていい訳じゃないわ。

 あの手触りを思い出すだけで鳥肌がたつもの。

「羽衣ちゃん、大丈夫?」

 姉さまが私の顔を覗き込み、頭を撫でてくれる。

 姉さまにこれ以上心配されてはなるまいと、私は雑念を振り払って、頷き返した。

「それにしても……」

 松風が顎に手を当て、首を傾げている。それから私を見た。

「あの有明の宮さまにお会いして、よくもまぁ喰われずに済みましたね」

「……喰われずにって?」

「有明の宮さまは、女なら誰彼構わずお相手なさるのよ」

 横から、姉さまが言う。

「お相手……」

「簡潔に申しますと、夜のお相手ということですね」

 それくらいなら私にも分かる。女なら誰でも相手にして、喰われる……。だからやけに女慣れしていて、平気であんなことをするのだわ……。

 ん? ということは、私に襲うほどの色気がなかったということ?

「わたくしの羽衣ちゃんが無事で良かったわ。あんな色好み、好きになってはだめよ羽衣ちゃん」

「……誰があんなひと、好きになるものですか」

 怒りが沸々と沸き上がってくる。乙女の貞操を奪われて―胸を触られただけだけど―、挙げ句ちい姫呼ばわり。あの整いすぎた顔を思い出しただけでも、つねってやりたいくらいわ。

「ほらほら、羽衣ちゃーん」

「聞こえてないみたいですね。もしかして、有明の宮さまと何かあったのでは」

「うそ、羽衣ちゃん、何があったの?」

「ね、姉さま……」

 がくがくと肩を揺らされ、意識を無理やり姉さまに向けさせられる。

 さすがだわ、姉さま……。

「何もありませんでした……」

「本当に⁉」

「ほ、本当ですからあまり揺らさないでくださ……」

 見え透いた嘘を吐いたが、あまりにも姉さまが肩を揺らすために平静でいられない。

 ……気持ち、悪い。

「女御さま。その辺にしてそろそろ夕餉になさいませ」

「羽衣ちゃんはどうなるの」

「大納言さまからのご了承はすでに受けておりますゆえ、今宵はお帰りになれません。よろしいですね、二の姫さま」

 いつの間にか連絡をとっていたらしく、今日は帰らなくても良いらしい。その言葉に一番輝いた顔をしていたのは姉さまだった。

「羽衣ちゃんも一緒に夕餉を頂くの! 羽衣ちゃん、今宵は一緒に寝ましょう! 昔みたいに、くっついて! ね?」

 頷くこと以外は許されないようだ。

 無邪気に笑う姉さまを見て、私ははいと答えた。でも、今夜は帝はお渡りにならないのかしら。

「主上は今宵、他の女御さまをお相手なさっていますから、ご心配なさらないでくださいませ」

 松風に訊いたら、そんな言葉が返ってきた。いくら姉さまがご寵愛を受けていると言っても、そう毎日はお相手なさらないものみたい。

 

「姉さまはどうして主上のご寵愛を頂けるのですか?」

 夕餉も食べ、夜も更けたところで寝床を整えて枕を並べた。

 髪箱に自分の長い髪を入れて肩まで大袿おおうちきを被ったところで、私は姉さまに疑問を投げかける。

 櫛で黒髪を梳いていた姉さまは、驚いたようにこちらを向いて、すぐに微笑んだ。

「やぁね、気になるの?」

「……はい」

 私が肯定すると姉さまも横になり、昔話でも聞かせるように話し始めた。

「主上は入内してすぐにわたくしを好きになって下さった訳じゃないわ。そうね、言ってしまえば主上の男としての意地、かしら」

 まだ格子を閉めていないためか、風が部屋に入り込み、灯台の火が揺らめく。

「男としての意地……?」

「あの方は、わたくしが入内に戸惑っている時から、わたくしの心がすでにご自分のものだと思っていらしたの。でもわたくしは主上が何を言ってもすぐには頭を振らなかった……」

 親のため、家のために入内しただけですぐに主上を好きになれるはずなんてない。最初から入内する姫の心が手に入るなんて思うのは間違っている。

 姉さまは至って普通の声音で、思い出すように淡々と言葉を紡いだ。

「入内してすぐに『この方を好きになれ』なんて言われて、頷けるわけないじゃない? だから主上に何度誘われても気分が優れない、みたいな言い訳をしてずっと断ってたの」

「……主上は怒らなかったんですか?」

「普通なら怒るわね」

 それは追い出されても仕方ないことかもしれない。主上の言うことは絶対で、こんな女御は普通なら寵愛など受けれるものではないのだ。

 『普通』なら。

「わたくしが断り続けるものだから、主上は意地になってこちらばかりお渡りになるようになったの。絶対にそなたを振り向かせてみせるぞって」

 今まさにそれを言われたかのように、姉さまの顔は嬉しそうだった。

 主上ばかりが姉さまを好きに見受けられたけど、やっぱり姉さまも主上が好きなんだと思う。だって、入内する前の姉さまはこんな顔なんてしていなかったのだから。それは初めてみる顔で、愛されてるぞーって自然と分かるくらいに。

「幸せなのですね、姉さま」

「そう見える? 羽衣ちゃんがそう言うなら、そうかもね。ふふ」

「照れてますか?」

「照れてなんかないわよ」

 姉さまの嘘は分かりやすい。顔を赤らめながら言うのは説得力がないのに等しいもの。

 それは、まつりごとのために用意された選べない恋。自分の気持ちなんて尊重されないし、目の前の相手だけを好きにならなくちゃならない。だけどその相手を心から好きになれたら、それだけでとても幸せな事なんだと思うわ。

「はい、わたくしの話はもう終わり。羽衣ちゃんは、どんな殿方と恋がしたいの?」

 完全に照れ隠しのために話を逸らした姉さまは、私のことに意識を向けるようにしたみたい。先ほどとはまるで違う顔。

 いつもの姉さまだわ。

「どんな……殿方、」

 殿方ときいてふと思い浮かんだのは、なぜかあの宮さまの美しいお顔。

 ……違うわ!

 私は慌てて首を横に振る。なんであんなひとの顔が思い浮かぶのよ。

「あ、有明の宮はだめよ。羽衣ちゃんに相応しくないんだから」

 姉さまは念を押すように私に指を指した。

 言われなくても分かっているわ。私だってお断りだもの。

「で、どうなの?」

 姉さまは続きが待てない子どもみたいに、私に話せと催促してくる。私は一度詰まって、息を吐き出すように箇条書きを描くように理想を上げた。

「優しくて、大人で、わたくしを守ってくれるような……笑顔の素敵な殿方が理想ですわ、姉さま」

 本当に、ただの理想。実際にそんな人、いるかいないか分からない。でも夢を見るくらいなら、許されると思ったから。

 できれば、姉さまみたいに政の恋なんかじゃなくて、運命的な恋をしたい。

 誰もが羨むような素敵な、恋を。

 それは叶うわけないから、姉さまには内緒だけれど。姉さまは体ごと私に向けて、少し近づいてきた。そして私の頬を撫でる。

「可愛い。ちい姫」

 私を慈しむ気持ちが姉さまの指先から伝わってきて、面映ゆい。大納言家の末姫は、どうあったってみんなからはちい姫なのだろう。

 だって私は、恋に恋している子どもだから。ちい姫と呼ばれても、それ相応なのかもしれない。あの宮さまに呼ばれたのは心外だったけれど。

「こんな可愛いちい姫を、宮さまはどうして何もなさらなかったのかしら。そんなこと、あってはならないのだけれど」

 私より五つ上の姉さまは、不思議そうな顔をして眉間に皺を寄せた。

 何もなかったわけないじゃない。顔を見られて触れられて、抱き締められて。挙げ句の果ては……思い出したくない。

 あの短い時間で、自分が添い遂げる殿方にしかしてはならないことをほとんどされてしまった気がする。

「ちい姫なんて呼ばれるほど幼いわたくしなど相手にならないと思われたのだと思います」

 私は不機嫌を顔に出して、ぶすっと答えた。その態度からして何かあったと気づくはずなのに、姉さまは気付かない振りをしているのか、再び私の頬を撫でる。

「ちい姫にこんな顔をさせるのだから、有明の宮さまは余程の方だったのね」

 ……やっぱり、気づいているのかもしれない。

「有明の宮さまがなぜそう呼ばれているか知っているかしら?」

「有明、と……?」

私は首を横に振った。出会いが最悪だったために、あまり興味もなかったけれど、姉さまの話だから素直に聞くことにした。

「有明の宮と呼ばれる由来は、彼が有明の月のような方だからよ」

「有明の月……」

「有明の月は夜が明ける頃にも、まだ見える月のことよ。彼は女性のもとに忍び込んだら、朝が来るまでずっといることからそう呼ばれるようになったのね。色好みの宮さまらしい名だとは思わない?」

 由来がそんなものだとは思わなかった…。

 男女の逢瀬というものは、夜を共にしても朝になる前までに男は帰らねばならない。それが一般的。朝まで一緒にいるなんて、余程女慣れしているのだわ。

 あぁなんか、またいらついてきた。

「姉さまはよくご存知なのですね」

「主上は年下の叔父有明の宮と仲が良いのよ。だから必然的にわたくしの耳にも入るの」

「そうだったのですか……」

 主上の年下の叔父とは有明の宮さまらしい。

 そう言えば、あの時宮さまを呼びに来た弘徽殿の女房も主上がお待ちですと言っていたっけ……。あの女房には『女童』と呼ばれてしまったのだったわ。

「姉さま」

「なぁに、羽衣ちゃん」

「わたくしって、そんなに幼いのでしょうか」

 数えで十四。

 立派に裳着も済ませて、婿を迎えてもおかしくない年頃。なのにまだ、ちい姫。

 私の疑問に、姉さまは一度目を丸くしてすぐに微笑んだ。

「そんなこと、気にしてるの」

「そんなことって……いつまでもちい姫なんて嫌なんです。何も出来ない幼子のようで」

「あのね、羽衣ちゃん。羽衣ちゃんが本当に幼子みたいだから、みんながちい姫と呼ぶわけではないのよ?」

「え……?」

 今度は私が目を見開いて、姉さまを見る。

 そうねぇ、と姉さまは視線を上に向けて考える素振りを見せる。

「癖みたいなものかしら」

「くせ……ですか」

「そうよ。いつまでも羽衣ちゃんが可愛いから、みんなちい姫と呼びたくなるの。羽衣ちゃんの笑顔は、とても愛くるしいから」

 目を合わせて言われると、何だか恥ずかしい。やっぱり家族にちい姫と呼ばれるのは、そんなに嫌なことではないかもしれない。可愛がって、愛してくれているしるしだと思うから。

「だから、まだまだわたくしの中ではちい姫なのよ。羽衣ちゃん」

 姉さまが悪戯に笑ってみせるから、私もつい笑みが零れてしまう。久しぶりに会って、離れていた分だけの話は出来ないけれど、もうそれだけで充分だった。姉さまが私を愛してくれているように、私も姉さまが大好きだから。

「今日は主上がお渡りにならなくて良かったわ。でなければ、羽衣ちゃんとこんな話できなかったもの。もうずっとここにいると良いわ、羽衣ちゃん」

「そんなこと言ったら、わたくしが主上に恨まれてしまいそうで怖いです」

「あら、わたくしがそんなことさせないわ」

 姉さまが寄ってきて、二人で大袿を深く被る。額を合わせてクスクスと笑った。

 この晩秋の寒さのなか、姉妹で入る御帳台の暖かさは心地よくて、姉さまの存在が私の心も温もりでいっぱいにしてくれる。幼い頃に感じたものと、よく似ていて。

 そう感じていると自然と眠気が襲い、瞼が重くなる。

「もうおやすみちい姫」

 たたみかけるように、姉さまが子守歌の鼻歌を歌うからもう目が開かない。

「おやすみなさい、姉さま……」

 子守歌で眠ってしまうなんて、ちい姫と呼ばれるのも仕方ない。だけど今日起きた宮さま事件の疲れからくる眠気には勝てないから、体の赴くままに意識を委ねた。

「ちい姫はわたくしの子守歌、好きだったものね」

 呟いた姉さまの声は私の耳には届かなかった。


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