escaper

ゆぎ 真晝

第1話 劇団

「座長、もう駄目だ。腹減った」手島が座り込んだ。座長という呼び方にも慣れてきた。ずっと工藤さんと呼んできたが、去年、舞台を降りることを宣言した工藤に、これからは座長と呼ぶように、と言われていた。

「ああ、いい匂い過ぎるな」と答えたのは座長と呼ばれた男だった。白髪の混じったくせ毛を片手で掻き上げると、奥の部屋の方へ顔を向けた。

「すいません。邪魔しましたか?」奥から若い男が顔を覗かせた。まだ少年のような幼さが残るが、整った顔立ちに、野性的な目をしていた。この目が気に入っていた。

「ちょっと早いが、上がるか。勝(かつ)、もう食事にできるか?」座長と呼ばれた男が訊くと「最後のピザがあと十分で焼けるところです」と若い男は答えた。

「おーし、じゃあ、片付けてテーブル出せ」という座長の号令に、十五人ほどいた団員達は喜んだ。

 この劇団の稽古はキツイ。求められるクオリティも高い。大劇団ではなかったが、人気もあり、固定客がついていた。十年ほど前までは工藤目当ての客が中心だったが、劇団の実力が上がるにつれ、工藤が端役の演目でも客が入るようになってきていた。そして、昨年、工藤は舞台を降りた。脚本と演出、マネジメント業務に徹することにした。それでも、もう大丈夫だと思えたから。

 地のしっかりした劇団でも、劇団員だけで食べていくのは難しい。チケットノルマもなく、比較的安定した集客のあるこの劇団でさえ、ほとんどの団員が副業を持っていた。それでも、本業を持って、趣味でやっているような劇団とは一線を画していた。

 自分たちはプロの役者だという自覚があった。


 稽古の後は、必ず夕食を出す。それが、この劇団の決まり事だった。

 勝は、近くの大学の大学生で、大道具のバイトで入って来た。手先が器用で、舞台セットを作るのに重宝された。公演のある時期だけ、大道具の制作で呼ばれていたが、「飯を食っていけ」と誘われて夕食に同席した。

 勝は団員たちのお気に入りだった。気が利いて、整理整頓がうまく、セット作りだけではなく、いろいろな場面で重宝されていた。衣装の直しもできることが分かった時には、手島に「俺の嫁にならないか」とからかわれた。

 その頃の夕食は、もっぱらテイクアウトや出前だった。勝は、「ピザって高いですよね。これ、全部で幾らかかったんですか? 作れば千円もあればできるのに」と言って、団員達を驚かせた。

 次の稽古日、勝は自分のアパートからオーブンレンジを運び込んで、ピザを焼いて見せた。五枚焼いたピザが瞬く間に無くなるのを、ちょっと嬉しそうに見ていた勝は、「俺、作りましょうか」と申し出た。

 それから、勝の作った夕食を食べるのが当たり前になって、かれこれ一年が経つ。座長は、材料費の他に、僅かだが、勝に給料を払うようになっていた。きっと、稽古の度にここで夕食を作る時間、他でバイトをした方が多く稼げるだろう。それでも、勝は、申し訳ないような気がした。せっかく、夕食代を浮かせるつもりで、作ることを申し出たのに、これでは、あまり意味がなかったのではないかと思っていた。一度、座長にそう言ったら、「出前の頃より格段に、いいもの食えてるから」と笑ってくれた。

 タダ働きでもいいと思っていた。何故そう思っていたのかは、自分でも不思議だった。

 勝は、この劇団が好きなのだ。この座長のことも好きだった。

 今夜は、勝の得意のピザに、牛筋とコンニャクの土手煮、魚肉ソーセージとピーマンの炒め物、蒸し鶏のサラダ、稲荷寿司だった。これから、バイトのある団員は、ピザや稲荷寿司で腹を満たして、帰っていった。帰って寝るだけの団員は、ビールを開けた。

「勝―、ビールもう一本とってぇ」と女の団員が奥から甘えた声を上げると、

「ここは居酒屋じゃないんだ。勝を使うな。自分で立ってこい」と手島がたしなめた。

「勝、給仕までしなくていいから、ここへ来て食え」手島は、勝を呼び寄せた。

「嫌っすよ。手島さん、俺のこと狙ってるんだもん」勝は、そう言いながらも手島と座長のそばへ来て座った。座長が、勝にビールの缶を渡した。

 先月の舞台で、手島が演じた主役の男が、初めて心惹かれる「少年」の役を、勝は演じていた。

『俺が惚れる男なんて、勝しかいない! この役は勝しかできない!』と、手島に強引に引っ張り出された。それまでも、人数合わせや、単なる群衆で何度か舞台に立たされてはいた。役を演じるなんて無理だと思った。

「大丈夫。素人が一人や二人入ったって、うちの舞台はびくともしないから。せっかく毎回稽古に来てるんだ。やってみたら?」と座長が軽く言った。

 座長は嘘つきだった。

 いざ、引き受けたら、稽古は厳しかった。手島と座長二人掛かりで、徹夜で指導された日もあった。本番の舞台を使った通し稽古の時は、足が震えた。さほど出番は長くなかった。セリフも多くはなかった。それでも、通し稽古を終えた夜は、「駄目だ。明日はきっと僕がこの舞台を台無しにしてしまう」と眠れなかった。

 初日のことは今でも鮮明に覚えていた。耳の中に鼓動が響いていた。緊張して、声が出せるか自信がなかった。

 最初のシーンで、手島の手を勝が振り払うと、大袈裟に手島がよろけた。それでも手島は、必死に勝に追いすがり抱き上げた。客席から「キャー!」と言う悲鳴が聞こえた。その時手島に抱き上げられながら、勝は初めて客席を見た。今までの稽古になかったもの。それが客だった。初めて男に心奪われた手島が、自分の気持ちに戸惑いながら、少年に言い寄るコミカルなシーンに、観客が沸いた。勝の数少ないセリフに観客が笑った。鳥肌が立った。自然に体が動いた。緊張でふさがりそうだった喉から声が響いた。手島が勝を導くように目で合図していた。

「舞台では、俺、手島さんに惚れそうでした」カーテンコールの後、舞台の袖で、勝は手島にそう言った。


「勝、この牛筋、旨いね」座長がしみじみ言いながら、ビールを呷っていた。勝は座長を魅力的な人だと思っていた。今年六十五歳のはずだった。そんな歳には見えなかった。まだカッコイイと思えた。まだまだ現役で主役を張れたのにと思ってしまう。

「座長、発言がおじいちゃんです」手島が馬鹿にしていた。

 手島がこの劇団に入ったのは、二十二の時だった。今は、この劇団の看板役者だ。

 座長が、舞台を降りると言った時、手島は本気で止めた。

「俺は、工藤さんの背中を追い続けて、ここに居るんだ。辞めるなんて言わせない」

 実際、これまで、手島の引き抜きの話は、きちんと工藤を通してされただけでも、幾つもあった。大手の劇団からの誘いもあった。いい条件だった。

 それでも、手島は見向きもしなかった。手島が追っていたのは、ほかの誰でもない、工藤無敵だったから。

「お前が追っている背中は、今の俺の背中か? 今のお前くらいの歳の頃の俺なら、今のお前に負ける気はしない」憎たらしいほど余裕の表情で工藤は手島に言った。

「俺が、お前を、あの頃の俺以上にしてやる。その役目に徹するんだ」そういって、工藤は舞台を降りた。


「なぁ、勝。役者としてやっていく決心、ついたかよ」ハイペースで飲んでいた手島が、勝に絡みだした。

「またっすか」勝は困っていた。助けを求めるように座長の顔を見ると、座長は面白がっているような顔で勝と手島を見ていた。

「確かに、この前舞台に立って、面白いと思いました。でも、役者になる決心はできないですよ」勝は正直に言った。

「なんでだよ!」手島が絡んでいた。

「うち、母子家庭なんです。女手一つで俺を大学までやってくれた母親に、役者になりたいなんて言えないですよ」

「お前の人生じゃねーか、親がどう思うかなんて関係ないだろ」手島が勝の肩をつかんだ。

「母親を安心させるのも、俺の人生の大事な役割です。手島さんにはわからないですよ」勝は少し腹が立っていた。誰もが自分の人生を好きに生きられるわけじゃないと思った。

「ウチだって、母子家庭だよ。ま、親が離婚したのは、俺が結構大人になってからだけど」手島は、勝の機嫌を損ねたくなかった。

入団以来、ずっと生意気だった手島のウィークポイントを見たようで、座長は笑っていた。

「親父は? 会ったりしてないの? お前の親父はわかってくれるんじゃね? 男のロマン」手島は攻め方を変えたが「俺、父親っていないんです。母親以外の誰も、俺の父親が誰か知らないんです」と勝に言われて、戦法を間違ったと痛感させられた。

「随分ドラマチックな話だな」座長が興味を示した。

「未婚の母?」と言う手島に

「いえ、俺を妊娠して、母は当時結婚していた人と別れたみたいです。爺ちゃんや婆ちゃんも、俺の父親が誰か知らないって。戸籍上は、母が結婚していた人が父親です。でも、違うんだって」

「けっこう複雑な家庭で育ってるんだね。勝。よくこんなに素直で曲がらない子が育ったこと」手島が勝の頭を撫でた。

「うちの母、全然そんなタイプじゃないんです。真面目だし、きちんとしてるんです。でも、中学の頃には、俺も、母親に反発して、『どこの男の子供かわからないような俺を産むんじゃねぇ』とか言っちゃって」

「ま、無理ないわな」手島がビールを呷っていた。

「そしたら、母親が、『そんな風にしてしまわないで。誰よりも愛してた、この世で一番愛してた』って言ったんですよ。嫌じゃないですか、中学生くらいの頃に、母親が誰かを愛してたなんて話聞くの。だからもう、二度とそのこと口にするのは止めました」

「あー、わかるわかる」と手島が調子よく頷くと「素敵な話じゃないか。俺はそう思うけどな」と座長がしみじみ言った。

「あ、今に、これ、何かの台本に使われるよ。ホント貪欲だから座長」と言う手島に、座長は笑った。

「座長、【猫】をやりましょうよ。俺が猫で、こいつが手島で」勝を捕まえながら手島が言った。

「手島以外が手島をやるんだ」ほかの団員たちが笑っていた。勝だけがきょとんとしていた。

「【猫】かぁ」座長が嫌そうに唸った。

「なんでですか座長。今なら俺、【猫】をやれるでしょう? あの時の俺が見た座長の猫を、俺が勝に見せますよ」酒に勢いを借りて、手島が座長に食い下がっていた。

「【猫】は、手島が初めて舞台に立った演目なんだよ。この劇団の復活公演でもあってね。あの作品で、手島は座長に惚れ込んだんだよ」年嵩の団員が、事情を飲み込めないでいる勝に説明していた。

「【猫】……」勝は、興味が沸いて、立ち上がると、隣の部屋の、過去の台本を保管してあるキャビネットを開けた。

稽古場の隅に、段ボールに入れて積み重なっていた台本たちを、年代順に並べてこのキャビネットに保管したのは、他でもない勝だった。一番上の段の右端の台本を手に取ると、表紙に【猫】と書いてあるのを確認して、宴席に戻った。

 キャストの欄に「手島海里」という役名があった。

「手島さんって、この役からとった芸名だったんですか?」勝が訊くと

「な、そういう話ならよくあるだろ? ちげーんだよ。手島海里は俺の本名。オーディション受ける時、役の名前、『青年A』だったんだよ。端役だと思うじゃん。受かってみたら、主役だったんだよ。それで、座長が、「青年の名前は、君の名前貰うね」って俺の名前つけたんだよ。ふざけてるだろ? たいがい」手島は酒が回り、いつも以上に口が滑らかになっていた。座長は、相変わらず面白そうに笑って見ていた。

「手島さん、オーディション受けたんだ」勝には意外だった。素人の手島を想像することができなかった。

「あの頃よ。就職の内定が取り消しになって、腐ってて。もうどうにでもなれって思いながら受けたのが、この劇団のオーディションだったんだよ。それで、人生変わっちゃったもんね」

「内定取り消し? 何したんですか?」勝が訊くと

「俺じゃねーよ。採用側が新採用を入れないってことになったんだよ。いっぱいいたよ、そんなの、あの年は。ほら、ウィルスが流行った年なんだよ」

「肺炎ウィルス?」

「ん? まぁ、そう。そんな風に呼ばれてたっけ? でも、知ってるだろ? あれだけ酷い事態になったんだから。お前らも、学校とか、半年くらい行けなかったんじゃなかった?」

「いえ、僕、まだ生まれてないです」

「なにー! 嘘だろ? 生まれてろよ!」

「僕、肺炎ウィルスが流行った翌年に生まれたんで」

「勝、お前幾つだ?」座長に訊かれて、「今年、二十一になります」と勝は答えた。

「そうか、もう二十年以上前のことなんだな」

「我々には、苦い記憶ですよね」年嵩の団員が言った。

「苦い記憶か……」座長はそう呟くと、缶ビールを持った自分の手元を見つめながら、何故か少しほほ笑んでいた。

「患(かか)ったんですか?」勝が尋ねると

「いや、ウィルスの感染力が強くて、同じ室内に、長時間大勢の人間がいるような場所では、爆発的に感染者が出たんだよ。結構な人数の死者も出てね。今じゃ考えられないけど――【三密】とか言ったよね。なんの三つだったか忘れたけど」年嵩の団員の言葉に、「密着・密接・密閉――じゃなかったですっけ」と奥の団員が合いの手を入れた。「密着? 密集だろ」と座長が呆れた。「ああ、そんなんだっけ。子供たちも学校に行けなかった――そんな状況だったからね。劇場で芝居を見るなんて以ての外だった。予定の入っていた公演を、全てキャンセルせざるを得なくて。あの時、随分、たくさんの劇団が潰れたよ。この劇団も、一度は無くなったんですよね」年嵩の団員に言われて

「ああ――」と座長は答えた。

「塩谷さんは、前身の頃からいるんでしょ?」手島が年嵩の団員に訊いた。

「いや、俺は、アイリスにいたんだ。こっちへ来たのは、【猫】からだよ」

「そうだったんですか。じゃあ、塩谷さんも、【猫】には思い入れありますよね。やりましょうよ【猫】」

「【猫】かぁ」座長は懐かしむような遠い目をした。

「苦い記憶って感じじゃないですね」勝がそんな座長を見て言った。

「ん? んんー。【猫】ねぇ」そう言ったまま座長は黙った。

 何故かその場にいた全員が、座長の言葉の続きを待って、黙ってしまった。

 ややしばらく経ってから「歳は取りたくないな……」と座長が呟いた。

「なんっすか」と手島が突っ込んだ。

「手島が、猫か――嫌だな」とそっぽを向いて座長が漏らすと、その場にいた全員が笑った。

残っているのは八人になっていた。

「はあ? 散々止めたのに、役者を引退したのは工藤……座長じゃないですか。何を今更」手島は座長に抗議するような口調になっていた。

「いや、ちょっと待ってくださいよ。手島さんが俺にやらせようとしてるのって、主役なんですか? 無理に決まってるじゃないですか。ちゃんと団員さんにやってもらった方がいいに決まってますよ。コンさんとか、ねぇ?」

 勝がことの大事に気づいて、慌ててそう言うと、コンと呼ばれた比較的若い男は、ニヤニヤしながら、

「そうだなぁ、手島さんから主役を奪うのは俺の夢だけど、【猫】だけは……俺も勝がいいんじゃないかなと思うな」と言った。実際には、【猫】がどんな演目か、よく知らなかった。この場のノリがそう言わせた。

「なんでそうなるんですか」勝が焦っていた。勝はやっぱり団員たちのお気に入りだった。

「――うん、そうだな」座長が勝の顔をじっと見ながら言った。

いい目をしている。

「やってみないか、勝。それで、やっばり役者にハマらなければ、ちゃんとサラリーマンになればいい。確かに役者は、安定した職業じゃないさ。現にあのウィルスの時は、俺たち全員失業しかけた。そんな仕事だ。でも、勝――お前、この前、舞台で演じてから、取り憑かれた目をしてるよ。宙ぶらりんに迷っているなら、【猫】はいい作品かもしれない。ちゃんと踏み込んでから結論を出した方がすっきりするだろ?  吹っ切れるなら吹っ切ればいいし、もし、役者になりたいとお前が感じたなら、俺がお前の母さんに土下座してでも、お前をかっさらってやる」座長に熱い目で見つめられて、勝は身動きができなかった。

(俺、女だったら、今、間違いなく落ちた――)

 勝も手島も、同時に同じことを考えていた。


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