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 三日坊主の悪癖がさっぱり直らず、へろへろするのすっかり、これやるの忘れていた。はてなブログもほぼ放置していて、よろしくない。

 はてなブログは、ちゃんと「記事」にしなければならない気がして億劫になっていたが、こっちを放置していたのは、言い訳の余地なく三日坊主ですね。

 また日記的なものを書くか、と思って書いているが、そもそもこの場は、保坂和志の「カフカ式練習帳」の真似しつつ言語表現を酷使するのが目的だった気がする。

 思い出してみると、

「これ、全然『カフカ式練習帳』じゃないじゃん」

 と気がついてモチベ下がった気がする。

 もういっそ、言語表現を酷使しなくてもいいか、という気分だが、やっぱり再開したのも言語表現を酷使するためだった。

 少し前に文学賞に応募したが、かなりエンターテイメントを書いたつもりになって、知人に見せたが、いつも通り意味不明と言われてショッキング。

 説明不足や意味不明は何を書いてもほぼ毎回言われていて、根本的なアイデアがよくわかりませんと言われるのはよくても、それを伝えるのに齟齬が発生している。

 技術の問題だと思って、「文体の舵をとれ」をパラパラ読み返し、三年前に自分が書いた課題のデータも読み返したが、普通によくできているじゃん、と思った。傲慢に言えば、別にテクニックの問題でもない気がした。

 ツイッターのフォロワーがマンガの背景を描かないのはマンガを描いていないのと同じ、というようなインタビューをツイートしていて、その通りだね、と思うと同時に、「書きあぐねている人のための小説入門」で風景のトピックがあったのを思い出した。

 ざっくり言えば、場を描写すること――空間を一次元に圧縮すること――こそが文体となり、読者と作者の間を結びつける回路になる。マンガ家のインタビューとだいたい同じだと思った。

 翻って自分の書くものは、「抽象的な空間に椅子が置かれただけの演劇」のようなものを意図している場合もあるけど、素朴に環境に厚みがなく、ペラい。

 自分のやりがちな「文体の圧縮」は特定のコンテクストを喚起させる(SFとかのジャンルや、情動なんか)文章を飛躍的に別のコンテクストと接続してしまうことが多くて、けっきょく、解剖台の上のミシンと蝙蝠傘を叙述してしまえば、ある程度計算したワンダーを発生させられるよね、という安易さに隷属してしまう。

 ちょこちょこ言われがちな、ボルヘス(のようなもの)は飽きる/書けるという言説は、やはり、叙述の計算が、どのエリアがわからない記述なのか、万人に共有できてしまうせいではないか。

 わからないから面白い、みたいな言説も紋切り型ではあるが、意図的に、アンコトローラブルなテキストを生成しようとするより、風景の叙述の不可能性と向き合うことが重要かも。

 以前、「宇宙人のためのせんりゅう入門」を読んで、なかなか方法論や川柳魂(?)としていい本だった。けど、この方法で記述できる川柳は、AIのランダム生成の方が面白いとは言わないけど、ウィキペディアのハイパーリンクを辿ってまったく関係のない記事に辿り着いた、と同程度の面白さなのではないか。ウィキペディアを半日眺める「詩情」を五七五で同程度の効果が得られるならコスパがいいのかもしれない。

 郡司ペギオ幸夫が、1.5人称という概念を提示していた。わからないものをわからないまま把握する認識(だと思う)が、郡司ペギオ幸夫の書くものの自己言及的な概念だと思った。どうでもいいけど、ペルソナ5の主人公の名前を郡司ペギオにしてプレイしていた。仲間からペギオって言われるとずっとぎょっとしていた。

 計算可能な理解不可能性はやはりあまり興味なく、計算不可能な理解不可能性に興味がある。それには、やはり、コンテクストを肉体を経由して圧縮するしかなさそう。極論、完全にランダムな文字列ほど安易で計算可能な理解不可能なテクストはない。

 逆に、「響け!ユーフォニアム」は人物と環境が完全にコントロールされていることが面白い。

 高校の吹奏楽部という環境と個々の人間性にわからないところが一切なく(わからない部分も完全に提示情報をコントロールしている)シミュレーションにミスがなく気持ちいい。 

 乱暴なことを言えば、エンタメとはすべてが完全なシミュレーションでなくてはならない。

 さらに乱暴な連想だが、ジャンプマンガは滞りなく視線誘導がされるが、「サブカル」マンガは視線誘導が直線にならず、遊離することと同じかもしれない。「遊☆戯☆王」は奇抜なコマ割りをしていても、その意味で、極めてジャンプマンガをしている。

 どちらが一概に良いというわけではなく、コマ間の時間の遅滞は読者/作者の内省と直結する。

 滞り、遅延、差延を面白がることと、それらがないことを面白がることはやはり両立が難しい。

 なら、自らに生じたワンダーの再現装置として小説を利用しようとすることは、方法論として矛盾しているかもしれない。

 計算ずくはつまらないし、ランダムや即興に頼るのもけっきょくマンネリズムに陥る。

 庵野秀明の特撮で、過剰な量のカメラを設置し、演者にアドリブを強要した、肉体の計算された即興性とシミュレーションの不完全性を調停しようとしたのは、結果はともかく、方法論としてわかるかもしれない。

 素朴に、シン・仮面ライダーわからないです、という話ではあるけど。

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