へろへろ練習帳

上雲楽

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カンバセーション・ピースのラストがオカルトじゃないかと言われたという文章で、富野由悠季を思い出した。富野由悠季の仕事がロボットという大なる虚構を日常的な思考様式に回収しようとする仕事だとして、その果てとして富野由悠季作品ラスト特有の唐突な悟りや交信がある気がする。アクシズを押し返すこととエンジェル・ハイロゥが解体することのどちらがロジカルかなんていうのはガンダムオタクにとっては重要なのかもしれないけど、事実としてそうならざるをえなかったという方が重要。日常的な思考様式としての細部に気を取られて、モビルスーツの型番なんかを覚えるのもオタクすぎる。庵野秀明はその意味で、富野由悠季の後継をやっている。ただし、庵野秀明は細部の規範への意識の徹底ゆえにオカルト(特撮が現実の表現として現れたものだが、特撮を特撮として再現しようとするために特撮から離脱するような)へ到達する。その態度はSSSS.GRIDMANへ流れ着いた、と思っていた。グリッドマンの空虚なキャラや空虚な特撮/ロボットアニメ的戦闘シーンはオマージュというにはごろっとしすぎでパロディというには前提として円谷特撮やエヴァや勇者シリーズ的なものを要請しすぎる。その空虚さの中心として新条アカネがいて、空虚なフィクションを面白がる空虚な我々のメタファーとして君臨する。しかし、新条アカネはメタファーでしかなく、フィクションによる救済も寓話でしかなく、エヴァの再話どころか退行している。卑小な我々を救う卑小なフィクションという寓話にグリッドマンという作品を落とし込むのは、物事を一面的にしか捉えられないオタクには効果的なのかもしれないが、射程範囲が狭すぎる。それを確信したのはグリッドマンユニバースだった。グリッドマンユニバースはお祭り映画だから、東映まんがまつりを思い出せ、傷つかないエヴァを祝福しろ、というのはノスタルジーであり、やはり退行。グリッドマンでの空虚なキャラは嘘を構築する作者=新条アカネの対であって、裕太の恋とかどうでもいい。ダイナゼノンではその空虚なキャラのどうでもいい日常を生存することに主眼があった。けどグリッドマンユニバースではダイナゼノンのキャラは非日常のゲストとして回収される。空虚な日常、空虚なバトル、空虚なSF語り、その中心であり、虚実が混沌とする空間での新条アカネもグリッドマンユニバースでは作品の内部に回収されてしまう。ならばグリッドマンユニバースには細々としたフェティッシュしか残らない。オタクは自分の体験に作品を引き寄せ「考察」し矮小化する。その先に富野由悠季や庵野秀明で発揮されるオカルトは存在しない。グリッドマンユニバースには日常的な思考様式も存在しない。オカルトの発生は日常的な思考様式の徹底の果てにあるマニエリスムである。かつての柄谷行人ならこれを形式化と呼んだかもしれない。グリッドマンに期待していたのはその形式化、ポストエヴァとしての矜持だったのかもしれないが遡れば上田麗奈の声に萌えていただけかもしれない。上田麗奈の声は耳障りで異物である。異質な論理に我のある声で、ハーモニーの朗読とかよかった。上田麗奈のASMRやaudibleはあったが、あまり惹かれなかったのはただ上田麗奈に読ませているだけだからかもしれない。じゃあ何を読めばいいのかっていわれると、異質な論理の発露としてカフカとか多和田葉子とかかなと思うけど、多和田葉子を「読む」ことと「聞く」ことはまったく別の体験になる。というより小説としてラディカルであるほど朗読には耐え得ない。朗読は声として発声者が現前する。小説は前提として、発声者が不在の中で、文字によって遡行的に仮構される。自分は内宇宙/外宇宙でないものを書きたいとツイッターで書いたけど、その本質は主体に対するためらいかもしれない。書くというマッチョな営みからいかにくねくねするか、課題である気がする。

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