第5話 御名
小さい頃、私──
勉強嫌いで友達とばかり遊んでいたのに、重病で死の淵から生還したことをきっかけに真面目になった。
そして両親が交通事故で亡くなってからは、親代わりになってくれたお兄ちゃん。
……だけど、私には気になることがあった。
どんな人でも負の感情が現れることがあるけれど、お兄ちゃんと
***
「ただいま」
夜の七時をまわった頃。
学校の立てこもり事件に巻き込まれるもの、逃走犯が投降したことで、なんとか帰ることができた私だけど──リビングに入るなり、お兄ちゃんがいつもと変わらない笑顔でキッチンから顔を出した。
「おかえり! おやつにリンゴを切ったぞ、食べるか?」
「……お兄ちゃん、なんでそんな嬉しそうなの?」
「何がだ?」
「普通だったら、犯罪に巻き込まれた妹を心配するところでしょ? 迎えにも来てくれなかったし」
「文がいるから安心していたんだ……だが、そうだな。コホン……ああ妹よ、怪我はないか?」
「わざとらしいよ。ていうか、もう遅いし」
「まあ、無事で良かったな」
「でも、おじさん可哀相だったな」
「おじさん? 立てこもり犯のことか?」
「そうだよ。殺人事件の犯人に仕立て上げられて、怖くなって逃げたんだって」
「そうか。だが現場の証拠品で立てこもり事件を起こしたのはマズかったな」
「現場の証拠品のこと、どうして知ってるの?」
「あ……いや、実は
「お兄ちゃんって、文と仲いいよね」
「まあな。あいつは兄――じゃなくて、弟みたいなものだから」
「でもおじさんから拳銃を奪った時の文はカッコよかったな」
「俺が手助けしてやったからな」
「? なんのこと?」
「いや、なんでもない」
「それとね、文の友達と友達になったんだよ」
「文の友達?」
「
「……そ、そうか」
「すごくカッコいい人だったけど、なんだかミステリアスな人だったな」
「……へぇ」
「立てこもり事件が発生してる教室に、突然現れたんだよ」
「とりあえず、リンゴを食べないか?」
「うん、食べる」
私がリンゴを口にすると、お兄ちゃんは難しい顔で私を見る。
いつもならご飯が食べられなくなるからって、おやつは控えるのに、なぜか今日のお兄ちゃんはリンゴを丸かじりしていた。
***
「おはよう、
朝から繁華街の木の下で文を見つけて、私が声をかけると文は手を上げた。
「おはよ」
「今日はあのロボット、肩に乗せてないの?」
「ロボット? ……ああ
「ふうん。あのロボット、充電式なんだ?」
「そうだ」
「また見せてね」
「……わかった」
「それより、昨日のおじさん大丈夫かな」
「おじさん?」
「立てこもりで投降したおじさんのこと。
「あいつ、はりきってたからな……今頃、立てこもり犯の身辺でも探ってるんじゃないか?」
「おじさんの身辺調査?」
「ああ」
「本当の犯人が捕まるといいね」
「お前はもう首をつっこむなよ」
「どうして?」
「
「でも、知りたいよ」
「あとでニュースにでもなるだろ」
「ニュースになるまで待てないよ。それに
「あいつのことが気になるのか?」
「うん。でも
「大人? あいつのどこが大人だ」
「すごくカッコいい人だったね」
「……お前はああいうやつが好みなのか?」
「もしかして妬いてるの? なんちゃって」
「なんちゃってじゃないぞ。俺が告白したこと忘れたのか?」
「そうだった。でもいつも通りだから、文が私のこと好きとか実感ないよ」
「実感させてやろうか?」
「どうやって実感するの?」
「……お前……どこまでお子様なんだ。調子が狂うだろ」
「ねぇねぇそれより、おじさんのこともっと話したいし、帰りにカフェに行かない?」
「お前は兄貴に似てマイペースだな。……まあ、デートなら歓迎だが」
「あと
「いやだ」
「今日はお休みの人多いね」
立てこもりがあった翌日ということで、旧校舎で授業を受けることになった私は、がらんとした教室を見回す。
うちのクラスで登校している生徒は、私やニキを含めて十人ほどだった。
「昨日の今日だしね……明生は休まなくても大丈夫?」
ニキは心配そうに訊ねてくるけれど、私は笑顔で手を振る。
「私は平気だよ?」
「すごい、明生って強いんだね。銃の前に飛び出すし」
「強いって言うか……私って、夢中になると、状況が見えなくなることがあるんだ」
「面白いね。それに文くんもカッコ良かったし……あと、
「柊征さんが? そう?」
「そうだよ! 服では上腕二頭筋、三頭筋は隠せないよ」
「よくわかんないけど、いい人だったね」
「もしかして気になる?」
「うん、気になる」
「お」
「目の前で起きた事件だし」
「ああ、気になるのはそっち?」
「今日は帰りに文や柊征さんと事件の話をするんだ」
「へぇ、面白そう」
「ニキも来る?」
「行きたいのはやまやまだけど、今日は用事があるから」
「そっか」
「でも文くんって、明生のこと本当に好きだよね」
「え? そう?」
「普通は、自分から人質になるなんて言わないよ?」
「あれって私のためだったの!?」
「事件の時は文くん、明生のことしか見てなかったし」
「……そうだっけ」
「明生は面白いくらい鈍感だね」
「……」
放課後。文は用事があるとかで、下校が遅くなるから、私は先に待ち合わせのカフェに向かって繁華街を歩いていた。
「うーん、文が私のこと好きとか……やっぱり変な感じ」
文には確かに告白されて、好きと言われたけど──文は
「私のこと、からかってるわけじゃないよね……?」
悪いことを企んでいる人は、たいがい負の感情が現れるはずだけど、文の場合は見えたことがないから嘘だとも思えなかった。
そんな時、
「ねぇ、あなた」
「はい?」
誰かに声をかけられて、振り返る。そこには、逃走犯のおじさんと一緒にいた〝サツキ〟という女の人がいた。
***
「明生のやつ、遅いな……やっぱり学校から一緒に来れば良かったか?」
「おい、兄さん」
繁華街にある小洒落たカフェで一人ごとのように呟く
すると文は相変わらず表情のわかりにくい顔で柊征をたしなめる。
「
「ああ、悪い。……明生も一緒に来るんじゃなかったのか?」
「俺は用事があったから、明生の方が先に出たんだ」
「そうか」
「それで、首尾はどうだ?」
「逃走犯の男の周辺を探ってみたが……それらしい、髪の長い女なんていなかったぞ」
「お前は
「仮にも神と名のつく者が言ったことだからな。信じなくてどうする」
「だったら、やはりあの女か……?」
「立てこもりの時にいた女か? だがあいつは否定していただろう。明生も『負の感情なんかない』と言っていた」
「明生だって間違えることはあるだろう」
「文は明生を信じないのか?」
「いくら無垢でも、明生は人間だからな」
「やはり文に明生はやれないな」
柊征は眉間を寄せて、文を睨みつけるもの──
そんな折、どこからか振動音が響いた。
「……明生からメッセージが来た……なんだこれは? たす?」
「たす?」
「そこでメッセージが終わってる」
「明生のやつ、いくらなんでも遅くないか?」
「このメッセージも気になるしな……GPSで明生の居場所を確認するか」
「お前は本当に過保護だな」
「……おい、これ」
「なんだよ?」
「この位置、おかしくないか?」
「本当に……ここなのか?」
柊征と文は顔を見合わせると、明生を待つまでもなく清算して、カフェを飛び出した。
明生のGPSを頼りに移動した柊征たちは、近くの湖にある灯台の足元までやってくるなり辺りを見回した。
「明生! どこだ!」
「どこにもいないな」
「スマホは見つかったか?」
「どこにもない」
「ということは、スマホは湖の中か?」
「どういうことだ?」
「まさか何かの事件に巻き込まれたんじゃ?」
不穏な空気が流れ、柊征と文の顔が凍りつく中──文の肩の上に小さな
「あの女の子なら、髪の長い女と一緒にいるぞ」
「
「久しぶりによく眠れた」
気持ち良さそうに伸びをする付喪神に、文は焦ったように訊ねる。
「それで、明生は今どこに?」
「教えたら何をくれる?」
「お前はそればっかりだな」
「私の所有者でもない者に、タダで教える義理はない」
「縁切りだけじゃ足りないというのか? 次は何が望みだ?」
「名前だ」
「なに……?」
「私は名前が欲しいんだ」
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