一
白金の朝は早い。四時には自然と目が覚める。……一応言っておくが、決して年寄りだからではない。
昔の名残とでも言うのか、元々眠りが浅いのだ。
そして、一度目が覚めてしまえば再び眠りにつくのは至難の業。仕方なくベッドから抜け出すしかない。
キッチンに立ち、朝食の準備。
朝食といっても、フルーツや野菜を切ってミキサーにかけるだけだが。
他に誰かいれば別だが、一人の食事なんてこんなものだろう……と白金は思っている。
特製ジュースを飲んだ後はジャージに着替えて、ストレッチをする。運動前のストレッチは必須だ。身体がほぐれた後は、最低限の持ち物……スマホと水、タオルが入ったバックパックを背負って家を出る。
この時間帯、外はまだ人気が少ない。
時折ランニング仲間や早朝出勤の会社員に出くわすこともあるが、だいたいは見知った顔だ。互いに素知らぬ顔ですれ違う。
どれくらい走ったのだろうか。体感で一時間は経っている気がする。
スピードを緩め、折り返し地点で休憩を取ることにした。
バックパックから取り出した水で喉を潤す。
水が身体に染みわたるこの瞬間が堪らない。ふぅっと一息ついた瞬間、どこからか視線を感じた。一瞬、殺気が混じる。すぐに臨戦態勢に入って周りを警戒した……が、人の気配はない。
白金は訝しげに眉をひそめた。
◆
「誰かに見られている気がする……ですか?」
「ああ」
白金は冷えた二の腕を擦りながら頷き返した。――――上着を持ってくればよかったな。
いつもここにくる度に同じことを思うのだが、結局毎回忘れるのだ。
いったい何台あるのかわからないパソコン。部屋の中にはよくわからない機材がたくさんあり、そのためか部屋の中はいつも冷やされている。
寒くないのかと一度この部屋の主である
佐久間はパソコンをまるで自分の手足のように操る電子機器に特化した情報屋だ。
黒髪に眼鏡、スーツと一見すると仕事ができるエリートサラリーマンのような風貌をしているが、実際は自称社会人不適合者である。
白金からして見ればさほど問題があるようには見えないのだが……佐久間曰くだからこそ外では生きづらいのだとか。
仕事はできるが、対人となると一対一で短時間だけなら何とか……複数人と長時間一緒にいるのは無理……らしい。
そして、その苦痛はなかなか他人にはわかってもらえない。
だから、こうして引きこもってパソコンの前に座る道を選んだのだ……と以前佐久間は言っていた。
白金もあまり人と馴れ合うのは好きでは無い。佐久間の話を聞いた時も、「自分の人生だから好きなようにしたらいいんじゃないか」としか言わなかった。
だいたい白金自身も胸を張れるような人生を送ってきてはいないのだ。
でも、佐久間はそんな白金のことを『数少ない信用できる大人』だと認識したらしい。それ以降、白金の前では年相応の一面を見せるようになった。
そんな佐久間を白金も言葉には出さないものの可愛がっている。
だから、ときおり何も用事がなくても佐久間の様子を見にきているのだが……今回は用事があって佐久間の元を訪ねた。
「白金さんがわざわざ僕を頼るなんて……何かありそうですね。ちなみに心当たりはありますか?」
「ありすぎてわからねえ」
「まあ、そうでしょうね。先週も派手にやられたようですし」
「……知ってたのかよ」
「僕を誰だと思ってるんですか」
フッとニヒルな笑みを浮かべる佐久間に、白金は苦笑を返す。
佐久間は真顔に戻るとパソコンでマップを開いた。
「視線を感じた場所や時間を教えてください 」
「おう。あー、直近だとココだな。朝の五時頃だった」
液晶に映し出されたマップの一点を指差す。白金は思い出せるだけ、場所と時間を挙げていった。
佐久間はその全てをマップに打ち込んだ。場所も時間もバラバラだ。
「他は?」
「他……ここと、ここか。あ。後、自宅にいた時もあったな」
白金のつぶやきに、佐久間が眉根を寄せる。
「え? それってやばくないですか?
「ああ。一応盗聴器やカメラの類は探してみたんだが見つからなかった」
「だから僕に、ってことですか。……僕も今は依頼が立て込んでて忙しいんですけど、そういうことならやるしかないですね」
「ありがとうな佐久間! 夕飯は奢るから」
「それって白金さんの手作りですか?」
「もちろん」
佐久間の眼鏡がキラリと光った。
「わかりました。……僕、前食べたあのハンバーグがいいです」
「煮込みハンバーグのことか? わかった」
さっきまで面倒くさそうな顔をしていたのに、今はいそいそと外に出る準備をしている佐久間。年相応の反応が微笑ましくてつい口角が上がる。
白金はバレないように、そっと口元を手で覆った。
行くなら早く、ということでそのまま白金の家に行くことになった。
佐久間はノートパソコンを大事そうに抱えて後部座席に座っている。
白金はバックミラーを見ながら佐久間に声をかけた。
「途中スーパーによっていいか?」
「いいですよ。どうぞ行ってきてください」
佐久間は降りるつもりはないようで、持ってきたノートパソコンをいじっている。
駐車場に車を停めると、白金は鍵を佐久間の横に放り、車から降りた。
できるだけ佐久間を待たせないようにと足早にスーパーに入る。
ところが、白金が店を出れたのは一時間後だった。
車の扉を開けると、イライラした様子の佐久間から一睨み飛んできた。
「遅い」
「すまんすまん」
佐久間は苦笑する白金の服に派手なシミがついていることに気づいた。
赤い色は血を連想させる。一瞬、焦ったが白金は元気そうだ。
「ソレ、どうしたんですか?」
「ん? ああ、これはただのトマトだよ。ちょっと店内でアクシデントがあってな。それに巻き込まれたんだ。そのせいで遅くなっちまった。すまん」
「いえ、別に無事ならいいです」
照れるでもなく真顔で言う佐久間。佐久間のこういうところを白金は気に入っている。
車に乗り込んだ白金は、今度こそ自宅へと車を走らせた。
道中赤信号で何度も一時停止を余儀なくされ、裏道に入れば細道から飛び出してきた人を引きかけ、通常十分で着くところ倍以上の時間がかかってしまったが無事に到着した。
地下の専用駐車場に車を停め、マンションに入る。
ようやく自宅に辿りついた時には、佐久間はげっそりしていた。
白金の運転に文句があるわけではないのだが、何というか……『星座占い最下位☆』という感じだった。
白金はそんな佐久間を不思議そうな顔で見つめる。
――――普段外に出ないから疲れたのか?
とりあえず佐久間にはくつろいでいるようにいい、先に夕飯の支度にとりかかる。
――――部屋の中を見てもらうのは後にして、先に夕飯を食べてもらうか。
そう提案しようとしたのだが、佐久間は休憩もそこそこに早速動き始めた。
部屋の中を歩き回り、リビングを出て、部屋という部屋を探索している。
数分後、佐久間が首を傾げながら戻ってきた。
「どうだった?」
スプーンで煮詰まっているトマトソースをすくい、ハンバーグにかけながら声をかける。このまま煮込めば完成だ。
匂いにつられたのか佐久間もキッチンにやってきてフライパンの中を覗き込んだ。ゴクリ、と横から聞こえてきた。横を見れば佐久間の目はハンバーグに釘付けだった。
「特に、何もありませんでした」
「なかった、か。……うーん。気のせいではないと思うんだがな」
「ただ、ちょっと気になったことがあったんですけど」
「なんだ?」
「この部屋に最近誰か入れましたか? その……女性をつれこんだりとかは」
「いや。この部屋に女をつれこんだことはねえよ。何でだ?」
難しい顔をして唸る佐久間。
「なら、やっぱり誰かが侵入しているんだと思います。女性物の香水の残り香がしましたし、これが落ちてました」
そう言って佐久間が差し出したのは古びた女性物のピアスだった。
もちろん白金には覚えがない。白金はピアスを受け取り、持ち上げてじっくりと観察した。いくら見ても覚えはない。
ともかく、誰かがこの部屋に侵入したのは確からしい。
犯人は素人か……プロならこんなヘマはしない。それともわざとか。
まさか、ストーカーか?
もし、そうならそれはそれで面倒くさい。どうしたものかと悩んでいた時、佐久間が名案を出してくれた。
「防犯カメラをつけておきましょうか? 白金さんがいない時でも僕が見張っておけるので」
「ああ。それで頼む」
手際よく佐久間が防犯カメラをセッティングする。
「サンキュー。それにしてもよく気づいたな。俺、香水もピアスも気づかなかったぞ」
「ふふん。まあ、僕の観察眼が優れていたってことですね」
「だな。ありがとうな」
ストレートに感謝を述べれば、佐久間が頬を赤らめて視線を逸らした。
「……いえ。どういたしまして」
「じゃあ、食べるか」
「はい!」
ひょろひょろの佐久間。普段小食のイメージなのだが煮込みハンバーグを二人前はぺろりと平らげた。
作った甲斐があるというものだ。
佐久間の腹が落ち着いたタイミングで、今度は佐久間を自宅に送り届ける為に立ち上がる。
地下に向かおうとすると、佐久間が待ったをかけた。
「念のため家の周辺も調べておきたいんですけど」
「じゃあ、エントランスから外にでるか」
佐久間がよくわからない機械を持って歩いているのを横目でみながら付き添う。
いったい何を調べているんだろうか。とぼんやりと考えていると、小さな物音が聞こえた。上を見る。何かが落ちてくるのが視認できた。
「っ?! 危ねえ!」
咄嗟に佐久間を抱き抱えて飛び、落下物を避ける。
先程二人がいた場所には破片が飛び散っていた。おそらくプランターだろう。
急いで上を見たが誰もいない。
このマンションは転落事故防止対策でベランダの壁が高くなっている。
プランターが勝手に落ちることはまずないはずだ。
白金はじっとマンションを見上げた。
起き上がった佐久間が眼鏡をかけなおしながら白金を見つめる。その瞳は先程よりもずっと真剣だ。
「ストーカー被害だけではなく、命を狙われている可能性も出てきましたね。最近、同じようなことは?」
「……言われてみれば、っていうことはあったかもしれねぇ」
「あったかもしれねぇ……って何呑気なことを言ってるんですか?! そういうことはもっと早く言ってくださいよ!」
「いやー命を狙われること自体はさほど珍しくないからなー。あ、正式に仕事として依頼するからよろしく」
「あなたって人はまったく! それじゃあ、後で契約書送っておきますからね!」
「おー」
佐久間に任せておけば犯人はすぐに見つかるだろう。
命を狙ってきたやつとストーカーは同一人物なのか。何が狙いなのか。
謎は多いが、それも犯人を捕まえて問いただせばわかることだ。
この時の白金はそう安易に考えていた。
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