魔竜の襲来

 一行は、ジグマの谷を進んでいく。馬車は途中で捨て去り、全員が徒歩で移動していた。

 周辺には植物がほとんどなく、目に映るものは、ごつごつした岩場と剥き出しの土だけだ。何とも不気味な谷である。切り立ったふたつの崖に挟まれた道を、一行は慎重に歩いていた。

 この谷を抜ければ、ふたたび馬車が使える。馬車で移動すれば、目的地であるバルラト山までは、二日もあれば着けるだろう。

 ジグマの谷こそが、彼らの旅における最大の難所……そう言っても、過言ではなかった。荒れ果てた大地は、歩いているだけで心が荒んでいくような気がする。

 それでも、ひとつだけありがたいことがあった。敵の軍隊も、ここまでは追ってこない。この周辺は、様々な言い伝えがある。かつて、我が物顔で谷の上空を飛び回っていたドラゴンのエジンを倒すため、大勢の勇者が戦いを挑むも、ことごとく敗れ去った。その亡霊が、谷に住み着いている……そんな噂が流れているのだ。

 したがって、ほとんどの人間がこの谷を避けて通る。




 そんな不気味な谷を、一行はゆっくりと進んでいく。先頭を歩いているのはカーロフだった。

 だが何を思ったか、いきなり足を止める。険しい表情で、皆に声をかけた。


「ちょっと待ってください」


「どうしたんだ?」


 ジョニーが尋ねた途端、カーロフは一喝する。


「静かに! 音を立てないでください!」


 らしからぬ声に、一行は黙り込む。一方、カーロフは真剣な表情で空を見回していた。彼の視覚と聴覚は鋭い。マルクの嗅覚と並び、人外部隊の探査役を担っていたのだ。

 と、その表情がさらに険しくなった。ばっとザフィーの方を向く。


「隊長! 何かが来ます! なんて恐ろしい速さなんだ……おそらくドラゴンです! 早く防御魔法を!」


「ドラゴンだと!」


 ブリンケンが怒鳴り、ジョニーとイバンカは慌てて周りを見回す。直後、奇妙な音が響き渡った。空からの音だ。どんどん近くなってきている──

 その時、ザフィーが指示を出した。


「みんな、あたしの周りに集まるんだ!」


 叫んだ直後、彼女は呪文の詠唱を始める。たちまち、一行の周りに光の壁が出現した。半円形の壁が、皆の周りをすっぽりと覆う。

 その瞬間、空を飛ぶ巨大な何かが、頭上を通過していく。ほぼ同時に、上から炎が降ってきた──


「なんだこりゃあ!」


 叫んだのはブリンケンだ。しかし、それも当然だろう。周囲は、一瞬にして炎に包まれていたのだ。土と岩だらけの荒野が、今や火の海と化している。木々が生い茂っているような場所だったら、手のつけられないことになっていただろう。


「ふざけた真似しやがって! みんな、ちょっと我慢しとくれよ!」


 怒鳴った直後、ザフィーは動いた。手のひらを前に突きだし、呪文の詠唱を始める。

 すると、光の壁が消え去ったのだ。途端に、凄まじい熱気が一行を襲う。

 しかし、ザフィーは構わず手のひらを突きだす。その瞬間、不思議な光が一行を包みこんでいった。

 同時に、熱気が消えていく──


「この光は炎を防げる! けど時間が経てば消える! 急いで、ここから離れるんだ!」


 言うと同時に、一行は駆け出そうとする。しかし、その足が止まった。


「なんだこれ……俺、付いていけねえよ」


 ブリンケンが呟く。彼の視界の先には、ゆったりとした速さで空を舞い、こちらに向かって来るものがいたのだ。

 それは鳥ではなかった。体は爬虫類のように、赤い鱗に覆われている。翼は蝙蝠のようであり、大きさは鯨ほどあるだろうか。首と尻尾は細長く、蛇のような形だ。トカゲのような形状の頭には、尖った角が二本はえている。

 その瞳は、真っ直ぐこちらを睨んでいた。


「な、なんだあれ」


 もう一度、ブリンケンが呟く。その顔に、表情は浮かんでいない。あまりにも非現実的な光景に、頭の中が真っ白になり思考が停止しているのだ。横にいるイバンカも、口を開けたまま、その場に立ちすくんでいる。ジョニーですら、初めて見るドラゴンに唖然となっていたのだ。

 一方、ザフィーはすぐさま動いた。ジョニーの頬を平手で叩く。同時に指示を出した。


「しっかりしな! カーロフ! あんたはあたしを運んで! ジョニー! あんたはイバンカを運ぶんだ! ブリンケン! 走るからボケッとしてないで付いて来な!」


 直後、皆は一斉に動く──


 カーロフは、ザフィーを軽々と抱き抱え走りだした。ジョニーも、イバンカを抱えて走りだす。やや遅れて、ブリンケンも走りだした。


「カーロフ、洞窟があったら──」


 ザフィーの言葉は、途中で途切れた。彼女は右手をかざし、呪文の詠唱を始める。すると、手のひらが輝き始めた。白い光が、ザフィーの手を覆う。

 ほぼ同時に、ドラゴンが接近してきていた。上空で、口をくわっと開く。

 一瞬の後、ふたたび火の玉が吐き出された──

 しかし、ザフィーの魔法も完成していた。手のひらから、氷柱つららのような形をした氷の矢が放たれたのだ。それも一本ではない。続けざまに吹き出る氷の矢が、竜の口から吐き出された火の玉に炸裂する。氷の矢は水と化し、一瞬にして蒸発した。

 だが、次の矢がある。立て続けに放たれた氷の矢は、火の玉に当たり次々と蒸発していく。それに伴い、火の玉も小さくなり……やがて消滅した。

 すると、ドラゴンは上空に舞い上がる。何をするのかと思いきや、ふたたび高速で急降下してきたのだ。

 その時、カーロフが怒鳴る。


「洞窟があります! 避難しましょう!」


 同時に、崖沿いの穴へと飛び込んでいく。他の者たちも、後に続いた。皆が入ったのを確かめると、ザフィーが呪文を唱える。

 入口に、先ほどの光の壁が出現した──


「これで、しばらくは安全だよ」


 ザフィーの言葉を聞き、皆はその場に座り込んだ。精も根も尽き果てたような表情で、ぐったりしている。

 無言のまま、時間が流れる……かに思えたが、沈黙は長く続かなかった。


「この世界は、どうなっているんだ? あんな巨大な生き物が、とんでもねえ速さで空を飛ぶ……有り得ないだろうが。物理の法則も完全無視かよ」


 ブリンケンが、呆けたような表情で呟く。その言葉に、ザフィーが反応した。顔をしかめ口を開く。


「あいつが、あたしたちをピンポイントで狙って来るとはね。全く予想外だったよ。しかし、これで黒幕が何者かわかった」


「えっ、何者だ?」


 尋ねたジョニーに、ザフィーは静かな口調で答える。


「エルフさ。奴らは、かつて魔竜エジンと同盟を結んだ……そんな話を聞いたことがある。エルフでなきゃ、あんな化け物を動かすことなんて出来ないからね」


「待ってくれよ。確かに、エルフは嫌な連中だ。けどよ、イバンカを殺して何の得がある?」


 さらに尋ねるジョニーに、今度はカーロフが答えた。


「エルフの中には、人間たちを奴隷化しようという過激な思想を持つ集団たちがいるそうです。そうした者たちにしてみれば、天空人と地上人とが戦争をしてくれれば好都合でしょう」


 言い終わると、今度はザフィーが口を開いた。


「詳しい話は後だ。とにかく、あたしゃ疲れたよ。あんなにバカスカ魔法を使ったのは久しぶりだからね。ちょっと寝かせてもらうよ」


 そう言うと、そのままゴロンと横になる。たちまち、寝息を立て始めたのだ。


「俺は、洞窟の奥を調べてみる。熊でもいたらシャレにならんからな。一応、備えておいてくれ」


 言った直後、ジョニーは立ち上がる。松明に火をつけ、そっと奥に進んでいった。

 ややあって、ブリンケンがふたたび口を開く。


「しかし、あんなのまで出てくるとはな。どうすりゃいいんだ?」


「地上を歩く敵なら、まだ対処のしようもあります。しかし、空となると対処のしようがありません。その上、あの速さで空を飛び回り、口から火の玉を吐いて来ます。一時、数々の武勲を立てた勇者や高名な魔術師たちが次々とエジンに挑み、ことごとく敗れたそうですが……あの強きを見ると、それも頷けますね」


 カーロフの声は、いつもと同じく落ち着いていた。しかし語っている内容は、聞いている者に絶望しか与えない。ブリンケンは、口元を歪めた。


「このままだと先に行けないぜ。かといって、戻ることも出来ねえ。あいつをどうにかしない限り、ここで立ち往生だ。なんかいい手はないのか?」


 言われたカーロフは、何を思ったか辺りをぐるりと見回した。

 その視線が、ブリンケンの腰に止まる。


「あなたの武器は、空を飛ぶ相手に使えますか?」


「どうだろうな。当たれば効くかもしれないが、あんだけ速いと当てるのが難しい。前にも言ったが、こいつは一日に三回しか使えないんだよ。三発撃ったら、丸一日チャージ……あっ、ええと、とにかく使えるようになるまで時間が必要なんだ」


「そうですか。厳しいですね」


「ああ、厳しいよ。飛んでいるあいつを、一発で叩き落として、残りの二発で仕留める……いや、それも難しいな」


「とにかく、今はここで様子見ですね」


 カーロフの言葉に、ブリンケンは頷いた。直後、ザフィーの方を向く。


「それにしてもよ、こんな状況で、よく寝られるな。大したもんだよ」


 その言葉に、カーロフは苦笑しつつ答える。


「これは仕方ないのです。魔法を使えば、己の生命力が削られていきます。先ほどのように、魔法を何度も使うと、隊長の肉体に多大な負担をかけるのですよ。一度、三日間ほぼ眠りっぱなしだったこともありました」


「えっ、三日間かよ? じゃあ、今回も……」


「その可能性はあります」


「そうか。ひとまず、隊長さんが起きるまでは、ここに待機だな」


 言った時、ジョニーが奥から姿を現した。


「とりあえず奥まで行ってみたが、ここは安全なようだ。いや、ついてたぜ」


「ありがとうございます。しばらくは、ここで休むとしましょう」





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