ジョニーの約束

 巨大な男が、森の中を音も立てず走っていた。

 そこには、人など一撃で倒せる猛獣が当たり前のように住んでいる。いくら大きいとはいえ、しょせん人間だ。獣から見れば、餌でしかないはずだった。

 にもかかわらず、獣たちは男を見るなり逃げていく。彼らは、野性の本能で理解していたのだ。

 この男、自分たちより遥かに強い──




 その頃、一行は馬車を止めて眠っていた。既に日は沈み、空には月が昇っている。

 ミレーナの死から、二日が経っていた。イバンカの熱は下がり体調は良くなったが、元気はない。もはや笑うこともなくなり、死人のような顔で馬車の中に座っていた。

 周りの者たちも、何も言わず黙り込んでいる。マルクに続きミレーナまで失ってしまった今、皆の雰囲気は暗かった。

 そんな状態で、一行は森にて夜営していた。見張り役は、ジョニーとカーロフが担当している。今は、ジョニーの番だ。馬車の外に立ち、油断なく辺りを見回していた時だった。

 馬車の中から、もぞもぞと動く気配がする。やがて、どすんという音。誰かが、馬車から降りたのだ。音から察するに、イバンカだろう。


「おい、どこに行くんだ?」


 そちらを見もせず、そっと声をかける。


「お、おしっこして来るのだ」

 

 イバンカの声は暗いものだった。ジョニーは、静かに近づいていく。


「そうか。俺も行くぞ」


 そう言うと、イバンカは恥ずかしそうに下を向く。少しの間を置き、おずおずと口を開いた。


「あの、あんまり近くに来ないで欲しいのだ。恥ずかしいのだ」


 途端に、ジョニーは舌打ちした。イバンカに対してではない。己のヘマに対してだ。


「あ、ああ、そうだよな。ごめん。気をつけていけよ」




 イバンカは、茂みの中を歩いていく。暗闇の中を、恐れる様子もなく進んでいった。馬車からは、かなりの距離が空いている。にもかかわらず、脇目も振らずに進んでいく。用足し、という雰囲気ではない。その顔には、厳しい表情が浮かんでいた。

 どのくらい歩いただろうか。不意に、少女の目の前に巨大な影が現れる。オーガーにも負けない巨体の男が、音もなく立っていた──


「お前、やっぱり来ていたのだな。そんな気がしていたのだ」


 イバンカが、呟くように言った。

 彼女の目の前に立っているのは、ミッシング・リンクである。相変わらず巨大な体を黒衣に身を包み、冷酷な目で小さな少女を見下ろしていた。どうやら、バーレンの街からずっと追跡していたようだ。その顔には、何の感情も浮かんでいない。

 両者の距離は、今や五メートルもなかった。この距離では、逃げることは不可能に近い。イバンカが走ったところで、あっという間に追いつかれてしまうだろう。

 にもかかわらず、イバンカの顔に恐れる表情はない。虚ろな目で大男を見上げていた。

 ややあって、少女は口を開く。


「お前の目的は、イバンカなのだろう。好きにすればいいのだ。その代わり、他のみんなには手を出さないで欲しいのだ。頼む」


 少女の体は震えていた。足同士がぶつかり合い、がたがた音を立てている。だが、逃げる気配はない。


「お前を殺す」


 言った直後、リンクは一歩前に進み出る。巨大な手を、イバンカへと伸ばしていく。少女の細い体をへし折るのは、一瞬あれば充分だろう。

 その時、疾風のごとき勢いで走ってきた者がいた。ジョニーだ──


「このクソがぁ!」


 吠えると同時に、ジョニーは飛んだ。充分すぎるくらいの助走を利かせた飛び足刀蹴りが、リンクの顔面に炸裂する──

 灰色熊でも気絶させられそうな、強烈な一撃だった。しかし、リンクは倒れない。この怪物は、僅かに顔を揺らしただけだった。

 ジョニーの攻撃は止まらない。着地した次の瞬間、彼の体がくるりと一回転した。強烈な胴廻し回転蹴りが放たれる──

 逆立ちのような体勢から、ジョニーの回転を利かせ体重を乗せたかかと蹴りが、リンクの顔面に打ち当たる。しかし、これまたリンクには効いていないらしい。僅かに顔を歪めたものの、すぐに元通りの表情になる。

 もっとも、ジョニーの狙いはリンクを倒すことではない。回転すると同時に、イバンカを抱き抱えていたのだ。彼は少女を抱えたまま、地面をごろごろ転がっていく。そう、イバンカをリンクから遠ざけたのだ。

 同時に、その場には新たなる戦士が参戦していた。人外部隊最強の盾・カーロフだ。ツギハギだらけの顔に険しい表情を浮かべ、リンクの目の前に立ちはだかる。

 すると、リンクの表情が僅かに変化した。己にも負けない体格と醜い顔を併せ持つ大男を見て、最強の傭兵も何かを感じたらしい。

 カーロフの方は、普段とは真逆の雰囲気であった。全身から、闘気が漂っている。目の前に立っているのは、倒すべき敵なのだ。

 次の瞬間、カーロフは巨大な拳を振り上げた。かと思うと、一気に打ち込む──

 何の変哲もない、力任せの一撃だった。武術の秘技でも、強力な破壊魔法でもない。にもかかわらず、そのパンチを浴びたリンクは立っていられなかった。巨体が宙を飛んでいき、地面に叩き付けられる。それも一度ではない。リンクの体はバウンドし、二度も地面に叩き付けられ転がっていった。大木に当たり、ようやく止まる。信じがたい衝撃力だ。城壁すら破壊できるかもしれない。

 そんな恐ろしい一撃を放った当のカーロフは、冷めた目でリンクを見ながら口を開いた。


「まだ、やりますか?」


 冷静な口調だ。その言葉に合わせるかのように、リンクはすっと立ち上がる。その顔には、笑みが浮かんでいた。象をも倒すような一撃を受けながら、戦意は消えていないらしい。体にも、何のダメージもないように見える。

 カーロフは、再び険しい表情になった。相手の化け物ぶりを、深く理解したのだ。再び拳を握り、顔の前で構えた。


「引く気はないようですね。ならば、仕方ない」


 言った時だった。突然、怒声が響き渡る──


「カーロフ! どけえぇ!」


 次の瞬間、現れたのはブリンケンだ。彼はカーロフの前に立ち、腰にぶら下げていた小剣を抜く。

 と、小剣の刀身部がポロッと落ちた。次いで、柄の部分がにゅっと伸びる。短い筒のような形状になった。その先端は、リンクに向けられている。

 同時に、カーロフは地面に伏せた。何が起こるか察知したのだ。


「化け物が! くたばれ!」


 ブリンケンが怒鳴った。直後、彼の握る筒が光り始める。

 一瞬の後、何かがほとばしる──

 光り輝く球体が、凄まじい速さで筒より飛び出したのだ。瞬きするよりも早く、リンクの体に炸裂する。

 その途端、リンクは吹き飛んだ。背後に生えていた大木ごと、一瞬にして闇夜に消えてしまった。

 ブリンケンは、ふうと息を吐く。額に浮かんだ汗を拭い、カーロフの方を向いた。


「死んだかな……」


 その言葉に、カーロフはかぶりを振った。


「おそらく、死んではいないでしょう。どうやら、吹っ飛ばされ川に落ちたようです」


「だったら、とどめ刺さないとな」


 ブリンケンが言った時、いきなり怒声が響き渡る。


「イバンカ! お前、何でこんなことした!」


 ジョニーの声だ。ふたりが振り向くと、ジョニーがイバンカの前に立ち、恐ろしい表情で彼女を見下ろしている。その横では、ザフィーが複雑な表情で両者を見ていた。

 その時、イバンカの目から涙がこぼれた。


「イバンカの……せいなのだ。イバンカは、父上と母上の言うことを聞かなかったのだ。言い付けを破って、こっちに来てしまった。だから、マルクとミレーナが死んでじまっだのだ……」


 そこで、イバンカは涙を腕で拭う。啜りあげながら、なおも語り続けた。


「全部イバンカが悪いのだ……イバンカがこっちに来なければ、ごんなごどになっでない。イバンガのぜいなのだ……イバンガがじねば、みんながだずがる……」


 その時、ジョニーが両膝を着く。イバンカの顔を正面から見つめ、静かな表情で口を開いた。


「黙って聞くんだ。イバンカ、お前が死んで喜ぶのは誰だ?」


 すると、イバンカの顔がさらに歪んだ。何かを言おうと口を動かすが、言葉が出てこない。

 少しの間を置き、ジョニーが再び語り出した。


「お前が死んで喜ぶのは、マルクやミレーナが死ぬよう仕向けた奴らだろうが! そんなクズを喜ばせるために、お前の命をくれてやっていいのか!?」


 イバンカの目から、また涙があふれた。ザフィーがそっとしゃがみ込むと、綺麗なハンカチを取り出す。少女の涙を、優しく拭いてあげた。

 その時、ジョニーの顔つきが変わった。真剣な表情で口を開く。

 

「イバンカ、戦うんだ」


「た、戦う?」


 聞き返すイバンカに、ジョニーは大きく頷く。


「そうだ。お前がここで負けたら、マルクやミレーナの死を無駄にすることになるんだぞ。あいつらは、何のために死んだんだ?」


 そこで、ジョニーは両手を伸ばした。イバンカの肩を掴む。


「お前を助けるためだろうが! あいつらは、お前のことが大好きだったんだよ! 大好きなお前に、生きていて欲しいと願ったから死んだんだ! お前がこんな所で死んだら、あいつらの気持ちはどうなるんだよ! あいつらにあの世で会って、顔向けできんのか!?」


 熱い声で問いかけるが、イバンカは答えられなかった。目から、再び涙があふれる。ザフィーが拭いてあげているが、それでも追いつかない。

 少しの間を置き、ジョニーは語る。先ほどとは違い、静かな口調だった。


「もう一度言うぞ。イバンカ、戦うんだ。どんなに辛くても、最後まで戦うんだよ。死んでいったふたりのためにも、な。生き抜いて、こんなくだらねえことを仕組んだ連中に一泡ふかせてやるんだ。お前が生き延びることは、マルクやミレーナの仇を討ったことにもなるんだよ」


 そこで、ジョニーはにっこり笑った。


「俺も戦う。お前のそばにいて、最後まで一緒に戦い抜いてやるよ」


 すると、イバンカは下を向いた。ややあって、ためらいがちに口を開く。


「そしたら、ジョニーに、みんなに迷惑をかけるのだ……」


「ガキのくせに、くだらねえこと気にすんな。いいか、子供の仕事は、大人に迷惑をかけることだ。大人の仕事は、子供に迷惑をかけられることだ」


 言った直後、笑いながら手を伸ばした。イバンカの頭を撫でる。彼女の赤毛を、くしゃくしゃにしながら話し続ける。


「それに、俺はいつかお前らの世界に行く。その時は、お前にたっぷり迷惑かけてやる。だから、気にするな」


 その時、イバンカは顔を上げた。


「だったら、約束して欲しいのだ」


「何だ?」


「絶対に死なないと……ジョニーがイバンカにいっぱい迷惑かけるまで、絶対に死なないと約束して欲しいのだ」


 真剣そのものの表情で訴えるイバンカ。ジョニーの表情が、一瞬ではあるが曇った。

 だが、すぐに微笑みながら頷く。


「わかった。約束するよ、俺は絶対に死なない。最後まで、お前に付き合ってやる」









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