#3 九死に一死




 特に報告するようなこともない。


 最近で思い出せることと言えば、和食屋で採用の面接をして鯛茶漬けをご馳走になったことと、夏にアイドルのコンサートの運営スタッフとして働いたことと、森林組合の研修に参加して林業に携わり、暴れたチェンソーがおれの喉に直撃して死んだことくらいだ。


 あと、久しぶりに実家にも帰ってみた。



        ◇



 まずは和食料理屋。


 繰り返しの中で、おれは和食屋の仕事を見つけて応募してみた。


 おれはその店に客として行ったことはなかったが、皿洗いでもさせてもらえば、いつものように元の状況に戻るだろうと考えていた。


 尋ねてみると店内は思いのほか高級そうな佇まいをしていた。


 間仕切りなども竹細工で装飾されていて、照明から天井まであちこちに趣向が凝らされている。


 カウンターはシンプルで清潔だった。


 中年の大柄な店主は、おれを手招きし、座敷の客席で簡単な面談をした。


「まあ、最初は基本的な仕事から覚えてもらうことになるね。まあ、うちはたいした店でもないから安心してほしい」店主はそう言った。


 どうやらその時点で、おれの採用は決まっていたらしい。


 おれは、スーパーの鮮魚売り場で魚を捌いたことがあることを伝えた。むしろ、それくらいしか伝えられることがなかった。一時期、繰り返しのたびに近所のスーパーの鮮魚売り場に行き、何度か捌くことには成功していた。1匹捌くのにトータルで何年分の時間を要したかは覚えていない。


「そうそう、もちろん、経験を積んだら何でもやってもらうことになる。まあ、焦る必要もないけど。ところで、料理をする人間にとって、最も大事なことって何だと思う?」店主は急におれに尋ねた。


 腕前とセンスですかね、とおれは答えた。それを聞いて店主は嬉しそうに笑った。


「どんなに腕前があって手際が良くても、味覚が狂っていたら料理人は話にならない。味に関してはいくらでも試して、あらゆる味を記憶してもらう必要がある」


 そうして登場したのが、鯛茶漬けだった。タイミングよく若い店員が運んできた。



        ◇



「せっかく店に来たんだし、味のひとつでも覚えてもらおうか」


 おれはタダでその鯛茶漬けをご馳走になった。


 長らく変わらない日々を過ごし、食に興味を失っていたおれは、その塩味と旨味の相補的なバランスに驚いた。味覚に反応して両頬が勝手に緩むのが感じられた。具材の食感のひとつひとつに自分の意識が持っていかれた。魚の身は噛むとほのかに甘みを感じ、汁を口に含むと心地よい香りと温かさが口の中を満たした。それはおれの人生で体験した茶漬けの中で断トツで美味かった。



        ◇



 全然普通の感想ですけど、もの凄く美味しいです。おれは正直に店主に伝えた。


「だってよ」店主は、運んできた若い店員に向かって笑いかけた。「良いじゃん」


 若い店員は小さくお辞儀をした。


 おれは鯛茶漬けを食べ終えると、礼を言って店を後にした。次に店に行くのが楽しみになっていた。



        ◇



 しかし、その日の夜に眠りについて目を覚ますと、元に戻されていた。


 おそらく採用が決まっていたからかもしれない。


 外を見ると、季節は秋から春になっていた。


 おれは久しぶりに名残惜しい気分になった。


 鯛茶漬けの味は忘れないようにしようと心に誓った。 



        ◇



 次はアイドルのコンサート。


 おれはいつものように金が無くなりかけると、求人を見回して短期の仕事を求めた。


 仕事が短期だろうが長期だろうが、採用されて賃金が発生すれば、おれはこの日常に戻ってしまう。


 それでおれは、アイドルのコンサートの運営スタッフの仕事を見つけた。


 開演前後に、熱中しすぎて具合の悪くなった観客を見つけ、医務室まで運んだ。観客を支えながら人混みをかき分け、安全な場所に避難させた。


 体調を崩す観客は後を絶たず、何度も医務室と会場を往復することになった。


「すみません。こんな、ああ、ちょっと待って下さい。ほんと申し訳ないです。ぐえええええ」


 肉体と精神のバランスが崩れたまま、それでもアイドルを目で追いかけようとする姿は、健気でありながらも、人間性を半分失いかけているような印象すら与えた。



        ◇



 アイドルたちが登場し、パフォーマンスが始まると、会場が一瞬にして音楽と声援の大音量に包まれた。


 大型のモニターに映し出されるアイドルたちは全員、湯引きした白身魚のようにクセのない顔立ちをしていた。そういう容姿が流行りなのかもしれない。


 おれの目から見たアイドルたちのパフォーマンスは、まるで5億匹の精子を1匹ずつ小分けにして袋詰めにしてファンに贈り届けるような、気の遠くなるほどの緻密さとまごころを感じさせるものだった。


 ビニールに小分けにされた贈り物はキラキラと輝く熱帯魚か、祭りの夜店の金魚すくいの金魚の姿を思わせる。


 チルド便で届いたそれをファンは大喜びで受け取るだろう。


 暇さえあれば付属しているレンズを覗いてしまうかもしれない。


「うわあ、動いてる! 歌って踊っているみたい!」



        ◇



 おれがアイドルのコンサートに感じた印象は、そんな感じだった。非日常的で楽しかったと言える。



        ◇



 ちなみに仕事から帰りながら、ひとつ気になったことがあった。


 もしもおれが前世でモテていなかったなら、対照的に、いまこそ暇もないくらいにモテてもいいような気がするが、これといった出会いも、この人生の過去にモテていた記憶もない。


 ということは、前世でモテていたという判定なのかもしれないが、おれにはまったく心当たりがない。


 どういうことなのだろうか。


 転生と人間関係の在り方は関係がないのかもしれない。


 そんな疑問を抱えつつ、おれは自分の家に辿り着いた。



        ◇



 ずっと人混みに紛れて仕事をしていたため、全身がくたくたで、風呂上がりに居間のテーブルでウトウトしているうちに、元の状態に戻されていた。


 外は夏から冬に変わり、寒風が吹いていた。



        ◇



 林業の研修もよかった。


 そこでおれは死んだ、はずだ。


 その時のおれは、働く前の段階なら仕事めいたことをしても平気なのではないか、と考え、金が尽きるよりもずっと前に新人研修に申込み、林業について学ぼうと考えていた。


 おれを巻き込んでいる繰り返しに反抗する、ちょっとした試みでもあった。



        ◇



 講習にはおれを含めて10名ほど参加していた。


 事故が起きたのは、座学を終え、研修所近くの林の中でチェンソーで丸太を切る実習を行うときだった。


 おれは、講師の指導のもと、基本姿勢・基本動作を守りつつ、恐る恐るチェンソーを構えていた。



        ◇



 その時だった。事前にクマよけの爆竹を何度も鳴らし、周到に野生動物は追い払っていたにも関わらず、恐れ知らずの子グマが、おれたちが研修している場に飛び込んできた。


 その時のおれは、丸太に正面から向き合いながらチェンソーを構え、さらにイヤーマフをして音を遮っていたため、クマに気づくのが遅れた。


 講師のおじさんが大声でおれに呼びかけたときには、その恐れ知らずの子グマはおれのケツに向かって体当たりを繰り出していた。


 身の危険を感じたおれは、反射的にチェンソーを強く握りしめながら子グマの方を振り向こうとした。その瞬間、チェンソーの刃先が丸太に触れてキックバックを起こし、一瞬でおれの顎に目掛けて飛んできた。すでに基本動作も基本姿勢もあったものじゃない。さらに体当たりをかましたその子グマは、そのままおれの背中に飛び乗ってきた。


 不運が重なったときには、状況は一瞬で決まる。


「あがががが――」


 喉元をチェンソーでかっとばされながら、子グマにのしかかられたおれは、逃れようもなく前のめりに倒れながら、致命傷を負った。おそらく首はほぼなくなっていたのだと思う。


 最後に覚えているのは、自分の意志とは無関係に全身がビクビクと痙攣しながら生きながらえようとしていたことだけだ。そのうちに吐き出せる息もなくなった。



        ◇



 気がつくと、おれはいつもの場所に戻ってきていた。


 金を稼いだわけでもないのに、もとの場所に居た。


 確かに、いままで死んだらどうなるのか、なんて考えたこともなかった。


 試しに死んでみるという発想を、おれは持ち合わせていなかった。


 怪我をしたはずの喉元をさすりながら、おれは起き上がった。


 嫌な感触は覚えていたものの、怪我はどこにもなかった。


 鏡を見ても、首は元のままだった。



        ◇



 まさか自分が不老不死になるなんて思ってもいなかった。


 これはさすがに自分でも驚きだった。


――こんな状況になるなんて。


 一体どうしたらいい?



        ◇



 さすがに心細くなったおれは、久しぶりに実家に帰ることにした。


 あり金を持参し、記憶を辿りながら、おれは実家に向かった。



        ◇



 実家は、マンションの5階にあった。

 

 ちなみに、そこにおれは住んだことがない。


 学生時代に母親と暮らしたアパートは別の場所にあったはずだが、もう取り壊されて無くなっていた。



        ◇



 そんなわけで、マンションのダイニングテーブルで母親に紅茶とクッキーを出されたときにも、とくに落ち着きを感じることはなかった。


「仕事の調子はどう?」母親はおれに聞いた。


「変わらなくやってる」おれは、一体どの仕事のことを言われているのか分からなかったが、頷きながら適当に答えた。


 母親の再婚相手の姿は見当たらなかった。


「いまは仕事に行ってるわよ。夕方には帰ってくるわ」母親はおれの様子を察知してそう言った。


 おれはクッキーをつまみながら静かに頷いた。



        ◇



 おれの母親は20歳の時におれを産み、それから一人でおれを育て上げた。


 おれの年齢はメチャクチャになってしまったが、いまの母親はカレンダーを信用するなら、おそらく46歳のはずだ。


 おれは少なくとも社会人になる前の記憶は正しく持っているはずだから、間違いない。



        ◇



 自慢ではないけれど、おれの母親は美人だった。


 母親の姿を見ていて、世の中と美人の間には、特有の苦労や当てつけが用意されているということを知ったくらい、次々と降りかかる苦労には事欠かなかった。


 容姿が良い人間は、関わる人間の独占欲や支配欲を不用意に掻き立てることがあるのかもしれない。


 そんなわけで若くしておれを身ごもった母親は、決断を迫られた。



        ◇



 相手の男、つまり父親はおれが生まれる頃には、突然ゲームのデータがごっそり消えるみたいに母親の周囲から姿を消してしまったらしい。


 いまでも、どこにいるか分からない。生きているか死んでいるかも分からない。


 幸いなことに、おれ自身、父親がどんな人間なのか知りたいとも思っていない。



        ◇



 過去に関する話は、母親から直接聞いたわけではない。


 それらの話は母親の親友の、琴美おばちゃんから聞いた。



        ◇



「彼女は気丈でいて、頑固なところがあるわね。なんとなく分かるでしょ? ほんと頑固。友達の私もたまにビックリするくらい。決断も早いわよね。だから、一緒にご飯に行ったときなんかは、すっごく楽。ぱぱっと注文を決めてくれるから――」


 それが琴美おばちゃんから聞いた、おれの母親の性格だ。


 息子のおれも納得の分析だった。


 琴美おばちゃんが母親の話をするときは、いつも笑っていて、どこか誇らしげだった。


 彼女はいつも親身で、おれたちの味方でいてくれた。


 おれたち親子にとっては、かけがえのない恩人でもある。この人がいてくれたお陰で母親はくじけることなく幸せでいられたと言えるくらい。



        ◇



 しかし、年齢を重ねるごとに、琴美おばちゃんと会う機会は自然と減っていった。


――頻繁に会うことだけが親友の条件じゃない。


 おれの母親はそう言った。


 おれの知らないところで、2人が分かり合えていたのだと思うしかない。


 いまでは会うこともなくなってしまったが、おれでも、琴美おばちゃんとの思い出はきちんと覚えている。



        ◇



 ちなみに、おれは物心ついた頃から、その人のことを琴美おばちゃんと呼んでいた。


 しかしよくよく考えてみると、母親と同級生の友人なわけだから、おれは彼女が20代半ば頃から、おばちゃん、おばちゃんと連呼していたことになる。


 なんというか、おおらかな人なのか、懐が深いのか、とにかく稀な人だったことに違いはない。



        ◇



「ねえ、もしかして恋人とかはいるの?」話題のなくなった母親は一通りのことを聞いてきた。


「いるような、いないような……」いないと断言してしまうと、この人生でもモテないという相場が決まってしまいそうに感じたおれは、適当に言葉を濁した。


 おかげで、母親の表情は一気に曇った。それからテーブルの上で両手を組んだ。


 おれはその手に刻まれた皺を眺めていた。


 そりゃそうだ。


 この人の前で適当なことを言ってはいけない。


「いないよ。まったく」おれは発言を訂正した。


 自分の境遇はあれこれ意味不明な状況にはなっていたものの、おれは断じて、誰かのことを不幸せにするような真似はしていない。


 そうするつもりもない。


 母親は了承してくれたのか、つまらなそうに口を尖らせると静かに頷いた。



        ◇



 おれは新しいマンションではどうにも落ち着かず、結局あれこれ言い訳を考えて、その日のうちに自分の家に帰ってきた。


 再婚相手は、穏やかでいい人だったと記憶しているから、母親のことを心配する必要もない。


 むしろ話しながら、おれがいま巻き込まれている状況を、母親に気取られて説明を求められたら困る、という気持ちのほうが強くなっていた。


 おれはなるべく、誰かを不安にさせるような真似もしたくはない。



        ◇



 この状況に困るのは、自分だけでいい。


 それにしても、長らく同じような日々を過ごしすぎて、困り方も忘れてしまった。


 おれはキッチンテーブルで水を飲みながら、意味もなく自分の喉元をさすった。


 いつの間にか、この動作が癖になってしまった。

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