#1 無職に転生
『世はさだめなきこそいみじけれ』
◇
この生活に入ってから、取り立ててなんの変化もない日々が続いている。
おれは古びた一軒家にいる。
天井からぶら下がった丸い蛍光灯を眺めながら思う。
気がついたら、ここに住んでいた。
居間から見える庭木は湿気を含んで、じっとりとして見える。
おれは欠伸をしながら家の中を歩いてみた。
◇
この家の持ち主が気になって、探してみると、棚の奥から不動産の権利書が出てきた。名義は自分の名前になっていた。
実のところ、まるで身に覚えがない。
◇
前世で不遇の死を経験して、その意識のまま、おれはいまこの世界にいる、らしい。
前世の死ぬまでの記憶はきちんとある。
見たところ、この世界は以前の世界とほとんど変わらない。
道行く人々も、見た目から、おそらく同じ人間だと思われる。
会話をしても、ちゃんとおれの言葉が通じる。互いに身体にも触れられる。金も問題なく使える。
よくよく考えてみると他人という存在が実際なんなのか、判別のしようがないことに思い至った。もしかしたら意識のないゾンビかもしれないし、タンパク質で精巧に作られたアンドロイドかもしれない。もしくはおれの脳内でつくられた感触をともなう幻影かもしれない。
ひとまず自分が幽霊のように薄っすらとした存在になったわけではないことは確かだった。
◇
いずれにせよ、この世界の人たちも、十分に知的で、立派に文明を築き上げ、集団で生活を営んでいる。
言っていることと、やっていることが、ちぐはぐであることが多々あるが、そこも前の世界の人間と大差はないだろう。
◇
この世界と前の世界での大きな違いといえば、こちらの世界にはおれが勤めていたあの会社が存在しない、ということくらいだろうか。
確証はないが、あとはまるっきり同じだと思う。
こちらの世界では、他社のヒット商品の類似品は、それぞれ同業種のメーカーが、それぞれの判断で製造しているようだ。
◇
はるばる本社ビルがあった場所まで出向いてみたが、ビルごとまるまるなくなっていた。
会社があった区画がまるごと、芝生の生えた広場になっていて、散歩中の人間が据え付けられたベンチでくつろぎ、子どもたちは走り回って遊んでいた。
◇
手元には切り詰めれば3ヶ月ほど過ごせるだけの金はある。
もちろん、なくなりそうになったら、おれは使い切る前に、どこかしらに働きに出る。
そうして働き始めたと思った矢先、おそらく賃金がもらえそうになった途端、おれはこの場所に引き戻されている。
働いていると思ったら、いつのまにか無職になっている。
◇
何を言っているのか分からないかもしれないが、ありのままを話す。
いつの頃だったかはもう忘れてしまったけれど、手持ちの金が少なくなり、当然、おれは金の必要を感じた。
おれは身近な場所に求人を見つけ、近所のスーパーで働くことにした。
仕事なら、何でもよかった。
季節は夏の盛りで、庭の木に止まったセミが近距離でうるさく鳴いていた。どうしてセミがわざわざそんな狭い場所にとまって鳴いているのか、おれには分からなかった。
嬉しいことに、すぐに採用され、その日は品出しを任された。
前世のおれを知っている人には分かってもらえるだろうけれど、おれは仕事というものが好きだった。中毒的に好きだったといってもいい。
なんなく品出しをこなして、その日の業務を終えた。
おれの様子を見てくれた先輩のおばちゃんも満足そうにニッコリと頷いてくれていた。
それから家に帰り、寝て目が覚めてみると、なんと、外にはしんしんと雪が降っていた。
◇
居間にあるカレンダー付きの電子時計は12月であることを示している。
前日と同じく、おれはスーパーのバックヤードに入っていったが、周りからは妙な目で見られた。
店長を見つけて挨拶をすると、こう言われた。
「すみません、お客様。申し訳ありませんが、ここはお客様がお入りになられる場所ではございませんので……」
そう言われながら、おれはバックヤードから追い出された。
もちろん、おれは事情を説明した。昨日から働き始めたんだけれど、と。
しかし、まったく話は通じなかった。
そのときの店長の困りきった顔は、いまでも忘れられない。頭をフル回転させて、なんとかおれの主張を受け入れようとさえしてくれていた。
おれはすごすごと家に帰り、引き出しにしまってあった自分の所持金を確認した。
金は、手つかずのままだった。
◇
何度か同じような経験をして、おれは理解した。
働くと、元に戻される。
戻される季節はめちゃくちゃだった。夏から冬に。冬から秋に。春から秋に飛んだ。
ある時は、働き始めたその日に。
ある時は、3日ほど経ってから。
ある時は、採用が決まったその日に。
ある時は、前世では味わうことのできなかった昼休憩に弁当を食べて、うとうとしたその瞬間に。
◇
気づくとおれはこの部屋に引き戻されていた。
◇
金を手に入れるために、ギャンブルも試してみた。
競馬、競艇、なんでもよかったが、駅前のパチスロ店に何度か通い、なんとか利益を出して、持ち帰ってきた。
そして案の定、もとの状態に戻されていた。
せっかく店頭に朝から並んで、一日掛けてスロット台に向き合って手に入れた金が、夢のように消えていた。
おれの頭の中にはジャグラーのBGMだけが残り、だらだらと流れ続けていた。
◇
どうやら金を手に入れたらいけないようだった。
◇
追い詰められた当初のおれは、焼けばちになって、刑務所に入ってみたこともある。
おれは手早くコンビニで通貨偽造をして、駆けつけた警察官の前で堂々と開き直り、現行犯で取っ捕まった。もちろん一切抵抗はしなかった。
パトカーに乗る前におれはポケットからおにぎりを取り出して、警察官に渡した。
「あの、余罪です」
警察官はあきれたようにそれを受け取った。
誰も傷つけずに入所できたものの、はじめての刑務作業に充実を覚えた瞬間、おれは再びこの場所に連れ戻されていた。
その時は冗談でなく、正直、どっちが刑務所かよく分からなくなった。
◇
そのときのおれの頭の中には、疑問が渦巻いていた。
社会に居場所がないから、わざわざ法を犯して刑務所に入ったのに、社会復帰を目指すとはどういうことなのだろう?
出所したところで社会に居場所はない。それがそもそもの原因でもある。
更正するにも、おれの中のなにを更正したらいいのかすら分からない。
原因はおれの外側にある。
それはなかなか経験したことのない、綺麗な輪のように循環した矛盾だった。
おれは震える手でナイフを持ちながら銀行強盗をする老いぼれにでもなったような気分だった。
そいつも出所したところで、復帰する社会も、就労する場所も用意されていない。
理由は簡単だ。そいつが爺さんだからだ。
社会は爺さんに生きていて欲しいと言うものの、とくに用はない。
老いぼれは、刑務所よりも寒い部屋の中でガタガタと震えているほかない。
◇
むしろ、死に損ないとでも呼び合いながら酒を酌み交わしたほうが、その老いぼれは喜ぶかもしれない。
そうやっておれたちは互いの人生を祝福する。
酩酊のなかで、束の間の人生を見届ける。
死に損ないでも、生きていることに、乾杯。
◇
そうやっておれは手を尽くしながら、何度も試行錯誤を繰り返した。
だが、この場所に連れ戻された。
気づくとおれは、社会とは無縁の、おんぼろの一軒家の中にいる。
まるで都合のいい女がいともたやすく付き合っていた男に振られるみたいに、気がつくと元の木阿弥で、呆然としながらおれは庭に降りしきる雨を見つめていた。
◇
そうは言っても、悪いことばかりではなかった。
考えようによっては、実質、金は無限にあるわけだった。
季節はあちこち飛び回るものの、年を取ることもない。
予定は立たないが、同じような日々を行ったり来たりしている。
おれは結局、状況に抗うよりも、状況に慣れたほうが楽だと判断した。
◇
自分の状況を知るために、調べ物もしてみた。
学術論文にヒントになりそうなものはまるでなく、おれの状況を説明してくれそうだったのは、むしろ物語や信仰に関する本だった。
前世の記憶があるということは、何かしらの生まれ変わりを経験している状況に近いのかと思う。
前世の記憶の他にも、もちろん、おれはこの世界での記憶も、幼少期から学生時代まで含めて、きちんと保持している。
そのはずだ。
ただ、社会に出てからの記憶には自信がない。そのときから既に、この繰り返しの中に入っていたような気もする。
おれのことを客観的に表現するなら、前世の記憶があると主張しつつ、いま現在の前後関係の記憶が曖昧な頭のオカシイ奴、ということになる。
◇
それを示唆してくれたのが、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』という話だった。
その主人公の意識は、発作的に、自分の人生のあらゆる時期に飛んでしまう。それは、おれの戻り方に近いものを感じさせる。
書店の棚で「転生」という文字を見かけて、色んな本を手に取ってみた。ちなみに信仰に関する話ではなかった。
それでも、それらの話もどこか、おれの状況に似ていた。
主人公たちは、死ぬ前はたいてい無職の状態で、死んで生まれ変わることによって、次の世界では大きな役割と影響力を与えられていた。
記憶を保持している点、生まれ変わる点、それらはおれに似ていた。
そんな話を読みながら、もしかすれば、おれは前世で働き過ぎたせいで、この世界で、無職という役割のない道を歩むことになっているのではないか、という仮説も立てることができた。
◇
前世で休まず働いたせいで、未消化分の休日が溜まりに溜まって、この人生で強制無給休暇を取らされている。
そんな気さえした。
もしかすれば、おれは前の前の人生でも、実らない作物のために、身を粉にして働いた農民だったのかもしれない。
◇
改めて思い返してみると前世のおれは、ひたすらに働き詰めだった。
違法ドラッグに手を出してもおかしくないくらいの激務に身を任せていたにもかかわらず、薬物に手を染める心配はなかった。
社会や会社そのものが違法ドラッグと同じ効能をもたらしてくれていて、その時のおれは、後先考えずに目の前の出来事にのめり込んでいられた。人生そのものがトリップしていたのかもしれない。
◇
部屋に寝転びながら、おれはそんなことを思い返していた。
金を稼げず、何もできない以上、のんびりする他はない。
◇
おれの状況を聞いた誰かは、それは困った状況だ、なんて思うかもしれない。
ただ、困ったことに、体感ではまったく困っていない。
長期的に物事を考えさえしなければ、いくらでも生きていられる。
それは自分でも驚きだった。
この生活も居心地がいいのかもしれない。
いまのところ、おれから報告できるのは、それくらいだ。
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