第41話 妖魔大戦 序章

『 GA歴八十七年 八月八日 十八時半 』


夕闇が迫る戦場――。

瓦礫が積み重なり、所々から黒焦げの地面が覗くその場所に、ひときわ異質な明るさが広がっていた。

池上彦斎いけがみげんさいの術によって照らされた光が、まるで真昼のようにあたりを包んでいる。


みな、集まったな」

柔らかくも張りのある声で、七代豊雲ななしろとよくもが口を開いた。年老いたその姿には、かつての威厳と穏やかないつくしみが滲んでいる。


「はいです」

みことが元気よく返事をした。その瞳には、この場に立ち会えることへの興奮と緊張が混じっていた。


「ここに」

一斗いっとも短く静かに応じる。その言葉の奥には、尊敬と覚悟が感じられる。


「豊雲さん」

サクラは一歩前に出て名を呼んだ。想い人を前にして、懐かしさと少しの照れが声に混じっていた。


「まったく……」

堅蔵けんぞうが呆れたように呟く。だがその表情は、どこか安堵しているようでもあった。


「……」

朱角あけすみは黙したまま。しかし目の奥に湛えられた静かな熱が、彼の胸のうちを物語っていた。


そして――

老いた男がゆっくりと語り出す。


「これから話すことはの……世間には知られとらん。

 かつて妖魔と人間との間で起きた、壮絶な戦いのことじゃ。

 この戦いで、ワシらはいのちを落とし、美波殿みなみどのも……重傷を負うたんじゃ」


静かだが力強い語り口。

豊雲とよくもの声音は、あの激動の時を今もなお忘れぬかのように深みを帯びていた。


「えっ……サクラさんも、その戦いに?」

一斗いっとが驚きと敬意を含めて問いかける。


「そうよ……でも……」

サクラは少し困ったように笑った。

「戦いが終わったあと回復するまで、だいぶ時間がかかったのよ」


あの時の苦痛が一瞬だけ、脳裏をよぎった。


「結果としては、妖魔王ようまおうはなんとか退しりぞけた。

 じゃが……我ら甲賀猿飛流こうがさるとびりゅうも、神陰連合しんいんれんごうも、多くのいのちを失うたんじゃ……」


豊雲とよくもの声には、深い悲しみと哀悼の念が滲んでいた。


「そんな……そんな戦いがあったなんて、僕は知りませんでした」

朱角あけすみが、唇を噛むように言った。

過去の出来事を知らなかった自分への悔しさが、滲んでいる。


「無理もないのぉ、朱角あけすみ堅蔵けんぞうは、まだほんの子供じゃったからのう。

 あのころのお主らは……今の一斗いっとよりも弱かったぞい」


豊雲とよくもは冗談めかして笑った。


「いやいや、堅蔵けんぞうはともかく、僕は一斗いっとより強かったと思いますよ」

朱角あけすみがむきになって言い返した。だが、その顔にはどこか懐かしさも浮かんでいる。


「はは、たしかに朱角あけすみは天才じゃったな。

 一斗いっとよりもよほどの……じゃが、あのころはのう……優しすぎた」


豊雲とよくもの言葉は、優しさと共に厳しさも帯びていた。


「ぐっ……」

朱角あけすみが悔しげに唇を噛む。


「妖魔の本質を知りながら、お主は“封印”にこだわった。

 だが……今は違うのう。強うなったわい」

豊雲とよくもの目が細くなり、朱角あけすみを見つめる。


「はい……護るべき人が、たくさんできました」

朱角あけすみは静かに、しかし力強く答えた。

その言葉には、長い歳月を経た者だけが持つ重みがあった。


「それでええ。それでこそじゃ。

 今もなお鍛錬たんれんを欠かしておらんようじゃしのう」


「はい。仕事で忙しくとも、毎日かかさず鍛錬しています」

朱角あけすみの言葉には、自分への誓いが込められていた。


「うむ、よう精進しとる。

 ……さて、話を戻すとしようかの。

 ――あの戦いの切っ掛けは、ワシの妻、かなえが死んだことじゃった」


豊雲とよくもの顔に、かすかに哀しみの影が差した。


「……えっ? かなえさんの死が切っ掛けだったの?」

サクラが驚き、目を見開く。


「なんと、美波殿みなみどのは知らんかったかえ?」

豊雲とよくもが少し意外そうに問い返す。


「ええ……てっきり、高木たかぎ兄弟と博比古ひろひこさんが殺された事件が切っ掛けだと思ってました」

サクラは少しうつむいた。

あの時の衝撃が、今も心に残っているのだろう。


「ふむ……確かに、それも大きな出来事じゃった。

 あれは妖魔大戦の五年前――十二月の終わり頃じゃ。

 寒さが本格化して、冬が深うなる時じゃったな……」


豊雲とよくもの語りは、凍てつく風と、あの頃の哀しみを一つひとつ運ぶように、静かに続いていった――。


* * *


初霜はつしもが降りた、吐く息すら白く凍えるような朝――

神代山じんだいやま』の頂上に佇む『七代家ななしろけ』の屋敷にも、冬の訪れが静かに忍び寄っていた。

屋敷のダイニングにはストーブの低い唸りが響き、床暖が部屋全体をじんわりと温めていた。

窓の外には、枯れた庭木にうっすらと霜が降りているのが見える。


その穏やかな朝、ダイニングのテーブルでは一人の初老の男が湯を沸かしながら、静かに情報端末に目を落としていた。

表示されているのは、ガイアが発信する最新のニュース――ガイアの情勢、浄化の進み具合、そして各種事件の警戒情報。

目を細め、どこか遠くを見るような視線で情報を眺める男の名は――七代豊雲ななしろとよくも


彼は現在こそ五十〜六十歳ほどの容貌に整えているが、不老処置によって実年齢を超越していた。

ブロンドの短髪は丁寧に整えられ、サラサラと柔らかく光を跳ね返す。

肌は白人系の滑らかな白。小柄ながら引き締まった筋肉がその体に宿り、ダークグリーンの瞳は知性と深い慈しみを湛えていた。

その佇まいはまさに“イケオジ”と呼ぶにふさわしい、静かな品と威厳をまとっている。


やがて、足音が一つ、廊下からダイニングへと近づいてきた。


「お父ちゃん、おはよう」

明るく優しい声が空気を和らげる。

入ってきたのは、七代戸叶ななしろとかな。三十二歳。

父・豊雲とよくもと同じブロンドのショートヘアには柔らかなパーマがかかり、白い肌と相まってどこか妖精のような気品を放っている。

美しさの中に強さと聡明さを感じさせるその瞳は、朝の冷気にも揺らがずまっすぐに父を見つめていた。


「おはようございます。お義父とうさん」

戸叶とかなに続いて、もう一人、背の高い男性が入室する。

七代金毘羅ななしろこんぴら。四十四歳。

黒髪の七分刈りに整えた髪と、穏やかな赤い瞳。

アジア系の清潔感ある白い肌と、包容力のある笑顔が彼の人柄を物語っていた。

七代家ななしろけ』の婿養子として迎えられた彼は、常に礼節を忘れない男である。


「ああ、二人ともおはよう」

豊雲とよくもが顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

目尻の皺が優しく深く刻まれ、まるで初冬の陽射しのような温かみを帯びる。


ふと、戸叶とかなが小首をかしげるように問いかけた。


「あれっ? おかんは?」


朝の気配に姿を見せない母に、戸叶とかなの心にわずかな不安が芽生える。

いつもなら一番早くに台所に立っている母が今朝に限って姿を見せないのは、確かに気がかりだった。


「ん? そういえば……まだ寝てたぞ。

 最近、ちょっと調子が悪いようでな」

豊雲とよくもが静かに答えた。

その声音には、娘に余計な心配をかけまいとする優しさと、拭いきれぬ不安が滲んでいた。


「病院、行ったん?」

戸叶とかなの声が少し強まる。心配と焦りが混じっていた。


「ああ、昨日も検査してもろうた。

 じゃが異常は無かったんじゃ。なにか、ちょっとした疲れかもしれんの」

豊雲とよくもの答えは落ち着いていたが、その言葉の奥にある“理由のわからぬ不調”という影が消えない。


「そうなんや……でも、やっぱ気になるし、ちょっと様子見てくるわ」

戸叶とかなは急ぎ足で椅子を離れ、母の寝室へ向かっていった。


「僕も行くよ」

金毘羅こんぴらもその背を追い、廊下へと足を運ぶ。

婿でありながら、家族の一員として真剣に義母ははを気遣うその背中には、責任感が宿っていた。


「……頼む」

豊雲とよくもは小さく呟いた。

いつも穏やかで達観している彼の表情にも、ほんの僅かに、かげりりが落ちていた――。


湯が湧いた音だけが、静かなダイニングに響いていた。


* * *


静まり返った廊下を踏みしめながら、戸叶とかな金毘羅こんぴらは母の寝室の前に立った。

ふたりの胸には、漠然とした不安があった。特に戸叶とかなは、父・豊雲とよくもの「調子が悪い」という言葉が頭から離れなかった。


「開けるで」

戸叶とかなが静かに言い、ふすまを横に滑らせる。


部屋の中はまだ薄暗く、重たい静けさに包まれていた。

布団には一人の女性が横たわっており、その背中は少し丸く、まるで深い眠りについているように見えた。


「まだ、寝てるみたいだよ」

金毘羅こんぴらが襖越しに中を覗き込みながら言った。だがその声には、どこか緊張の色が混じっていた。


「そやな……せやけど、ちょっと声かけてみるわ」

戸叶とかなが一歩足を踏み入れ、母の傍へと近づく。


布団の中に眠っていたのは――七代叶ななしろかなえ。六十七歳。

黒く強めのパーマがかかった髪は、いわゆる“おばちゃんアフロ”のようなボリューム感があり、

肌はアジア系の濃いめの地色。身長は低く、少しぽっちゃりした体型で、

普段はヒョウ柄やゼブラ柄などアニマル系の服を好んで着る、まさに「ザ・大阪のおばちゃん」といった風情の女性だった。


その姿は、この家を支えてきた陽気な母そのものであった――。


「おかあさん……朝やで、起きて……? なぁ……おかあさん……」

戸叶とかなは布団越しに母の肩に触れ、そっと揺さぶった。

しかし、かなえの身体は微動だにせず、温もりもどこか浅い。


「……おかあちゃん? なぁ、頼むから、起きてぇぇ!」

戸叶とかなの声が急に大きくなる。

胸の奥に押し込めていた不安が一気に噴き出し、彼女は母の身体を強く揺さぶった。


「どうしたんだ、戸叶とかな!」

金毘羅こんぴらが飛び込み、激しく取り乱した戸叶とかなかなえから引き離して抱きとめた。


「おかあちゃん……息してへんねん……うそや……いややぁぁぁぁぁ!!」

戸叶とかなの脚から力が抜け、金毘羅こんぴらの胸元にすがるように崩れ落ちる。


金毘羅こんぴらはすぐさまかなえの脈を取った。

心臓の鼓動はなく、呼吸も、熱もない。

その事実に震えながら、彼はすぐに立ち上がり、廊下を駆けてダイニングへ向かった。


「お義父とうさん、大変です!」

息を切らせて金毘羅こんぴらが告げる。


「どうしたんじゃ。さっきから騒がしいのぉ」

まだ何も知らぬ豊雲とよくもが、落ち着いた様子で訊ねた。


「お義母かあさんが……お義母かあさんが……とにかく、すぐ来てください!」

金毘羅こんぴらの顔色と声音に、ただ事でないと察した豊雲とよくもは即座に席を立った。


寝室へ入ると、そこには泣き崩れる戸叶とかなの姿があった。


戸叶とかな、どうしたんじゃ?」

豊雲とよくも戸叶とかなに近づく。


「なに冷静に突っ立ってんのよっ! おかあちゃん、息してへんのよ!!」

その怒気と悲痛に満ちた声が、部屋を揺らした。


「なんじゃと……!?」

豊雲とよくもかなえの傍に座り、震える手で脈を取った。


その瞬間、時間が止まったように感じた。

――静かだった。あまりにも、静かすぎた。


「……なんでじゃ……昨日まで元気じゃったのに……約束したじゃろ……いっしょに、逝こうって……」

呟いた豊雲とよくもは、かなえの胸元に顔を埋めた。

その背は小刻みに震えていた。


このときの豊雲とよくもは、自らの身体年齢をかなえに合わせ六十代に調整し、抗不老薬で不老を抑えていた。

それはかなえの隣で、最期まで同じ歳を生きようとした、彼なりの深い愛の形だった。


「……おとうさん……」

戸叶とかなちちの震える背に、初めて見る感情の波を感じ取った。


「おかあちゃん……うそや……うそやあぁぁぁ……」

かなえの足元につくばいた戸叶とかなも、声をあげて泣き出した。


金毘羅こんぴらは何も言わず、そっと戸叶とかなの肩を抱いて寄り添っていた。


やがて、豊雲とよくもが顔を上げた。


「ん……?」

彼の眉がぴくりと動いた。


「なんじゃ、これは……」

再びかなえの身体に手をかざし、何かを探るように動かす。


金毘羅こんぴら、ちょっと来い」

緊張を含んだ声で豊雲とよくもが呼ぶ。


「はい」

金毘羅こんぴらが応じ、傍に膝をつく。


「お前も、視てみろ」

豊雲とよくもに促され、金毘羅こんぴらも手を翳す。


「……これは……お義父とうさん……」

何か得体の知れぬ違和感を感じ取った金毘羅こんぴらが、困惑の色を浮かべた。


「ああ……これは、“呪い”じゃ……」

豊雲とよくもの言葉は、低く、深い怒りをはらんでいた。


「気づかんかった……こんなに近うおったのに……くそぉぉぉぉぉぉぉ!!」

普段は感情を抑える豊雲とよくもが、天を仰ぎ怒声を上げた。


「お義父とうさん、落ち着いてください!」

金毘羅こんぴらがとっさに声をかける。


「すっ……すまん……取り乱してしもうた」

豊雲とよくもは肩で息をしながらも、すぐに謝った。


「おとうさんが、あんなに……そないに、おかあちゃんのこと……ほんまに、愛してたんやな……」

戸叶とかなは涙声で呟いた。


「もっ、もちろんじゃ……かなえは、ワシのいのちじゃ……たった一人の、大切な女じゃからな」

豊雲とよくもは照れながらも、はっきりと答えた。


金毘羅こんぴら、すまんが『GFBI』に連絡してくれ。手続きが必要じゃ」

すでに冷静さを取り戻した声で豊雲とよくもが指示を出す。


「はい。すぐに連絡します」

金毘羅こんぴらが頷く。


「ただし、“呪い”の件は伏せておけ。今はまだ話す時ではない」

低い声が部屋を包んだ。


「えっ……でも……」

戸叶とかなが戸惑いを見せる。


「呪いについては、ワシと半蔵殿はんぞうどので調べる。お前らは、下手に動くでない」

その声には、覚悟と責任の重みがあった。


「……分かった。戸叶とかな、今はお義父とうさんの判断を信じよう」

金毘羅こんぴらが優しく、妻をなだめるように言った。


「……せやけど、ホンマにアカンって時は……絶対に呼んでや……うちら、家族やねんからな……」

戸叶とかなが必死に訴える。


「分かっておる」

豊雲とよくもは柔らかく頷き、続けた。


「それと、かなえの遺体はしばらく『GFBI』で預かってもらえるように頼んでおいてくれ」


「承知しました」

金毘羅こんぴらが頷いた。


「では……ワシは半蔵殿はんぞうどののもとへ行ってくる。後は任せたぞ」

そう言い残し、七代豊雲ななしろとよくもは静かに寝室を後にした。


その背に宿るのは――深い悲しみと、燃え上がる決意だった。


* * *


豊雲とよくもの語りが静かに止まった。

朱角あけすみ堅蔵けんぞう、サクラ、一斗いっと、そしてみこと――

全員が言葉を失ったまま、その場にたたずんでいた。

初めて明かされた、豊雲とよくもの妻・かなえの死の真相。

それはただの病や老いではなく、「呪い」という闇の力にむしばまれた哀しみだった。


沈黙を破ったのは、サクラだった。


「……そうだったのね。

 豊雲とよくもさんも……ずっと、お辛かったでしょうね」

彼女の声は静かで、どこか震えていた。

かつて共に戦場を駆け抜けた仲間として、女として――

その言葉には深い共感といたわりが込められていた。


豊雲とよくもはしばし何も言わず、遠くを見つめた。


「……そうじゃな。辛かった。

 かなえと生きてきた月日は、思い出すほどに愛おしくての……

 気づいてやれなんだ自分が、情けのうて、悔しくて……」

静かに絞り出された声。

老いたその瞳には、今なお癒えぬ哀しみの色が宿っていた。


「でもの……あんなもんに……かなえいのちを、奪わせたままで済ませられるかい。……そう思ったのじゃ」


語るその背に滲むのは、悲しみと怒り、そして――深い覚悟。


誰も言葉を挟めなかった。

サクラは、ただ一歩、豊雲とよくものそばに寄り、そっと膝をついた。

その手が、豊雲とよくもの手に優しく触れた。


「……私も、力になりたかった。

 だって、かなえさんは私にとっても大切な人だったから」


その言葉に、豊雲とよくもはほんの僅かに、笑みを浮かべた。

だがその笑みには、決して拭いきれぬ痛みが残っていた――。


* * *


その頃、『三雲酒店みくもさかてん』の母屋――『三雲家みくもけ』のダイニングでは、朝食を終えた半蔵はんぞう東子とうこ夫妻が、湯呑みを手にのんびりとお茶をすすっていた。


この時の半蔵はんぞうは、自らの身体年齢を二十代前半に調整していたため、その若々しい見た目はまるで孫のようであった。

一方、隣に座る東子とうこは、孫の様な見た目の半蔵はんぞうの妻であるが年相応の品ある老婦人。縮毛でブラウンのショートヘアで、やや丸みを帯びた目元で微笑むその様子は、まさに“おばあちゃん”そのものであった。

不思議な組み合わせだが、ふたりの間には、年月に裏打ちされた信頼と安らぎが流れていた。


その穏やかな空気を破ったのは――


半蔵殿はんぞうどのぉ! おるかぁ! 半蔵殿はんぞうどのぉおお!」

玄関を勢いよく開け放ち、大声で家中を呼びながら駆け込んできたのは、七代豊雲ななしろとよくもであった。


「おおい、豊雲とよくもくんかい。こっちだ、ダイニングにいるぞ!」

半蔵はんぞうがすぐさま声を張って応じる。


「はぁっ……はぁっ……こ、ここに……」

ようやくダイニングにたどり着いた豊雲とよくもは、息を切らせて立っていた。冬の冷気に汗ばみ、肩で大きく息をしている。


「おやおや、ずいぶん慌ててどうなさったんですか、豊雲とよくもさん」

東子とうこが優しく微笑みながら尋ねた。


「おはようございます、東子とうこさん……いや、すまんの、急に押しかけてしもうて」

豊雲とよくもが慌てた様子で礼を述べる。


「とりあえず、落ち着いて座って、お茶でもどうだい?」

半蔵はんぞうが席を勧める。表情は柔らかいが、豊雲とよくものただならぬ様子に、すでに内心では緊張を走らせていた。


「いや……今は、茶どころでは……」

そう言いながらも、豊雲とよくもは差し出された手拭いを受け取る。


「ほら、これで汗を拭いてくださいな。風邪を引きますよ」

東子とうこがそっと渡すと、


「あっ、かたじけない……ありがとさん」

豊雲とよくもは手拭いで額を拭きながら、渋々と椅子に腰を下ろす。


だが――


「いや、そうじゃないんじゃ!」

突然、立ち上がり、テーブルを両手で叩いた。


「な、何事だ?」

半蔵はんぞうが眉をひそめ、隣で東子とうこも目を見開いた。


「……かなえが……死んだんじゃ……」

豊雲とよくもの声は、深く沈んでいた。けれどその言葉は、重く、鋭く空気を切り裂いた。


「……えっ? かなえさんが……?」

東子とうこが思わず椅子から身を乗り出す。


「それは……大変じゃないか。東子とうこ、支度をしてくれ。すぐに出るぞ」

半蔵はんぞうが立ち上がり、すぐさま行動に移ろうとする。


「はい、あなた」

東子とうこもまたすぐに応じ、準備にかかろうとした――が、


「ま、待ってくれい、半蔵殿はんぞうどの。落ち着かれい」

今度は、豊雲とよくもがふたりを制した。


「落ち着けって……おい豊雲とよくもくん。かなえさんが亡くなったんだぞ? 手伝いに決まってるだろう」

半蔵はんぞうが、戸惑いと怒りが交じる声で返す。


「もちろん、それもありがたいんじゃが……まずは聞いてほしい話があるんじゃよ」

豊雲とよくもの眼差しは、いつになく真剣だった。


半蔵はんぞう東子とうこは顔を見合わせ、訳が分からぬまま再び席に着いた。


「……良いかの?」

豊雲とよくもがゆっくりと確認する。


「ああ、聞こう」

半蔵はんぞうが落ち着いた声で答えた。


かなえは……“呪い”で殺されたんじゃ」

重々しい声で豊雲とよくもが告げた。


「なっ……何だと……?」

半蔵はんぞうの顔色が一気に変わる。


「おい、東子とうこ。子どもたちをここに近づけるな。そろそろ鍛錬から戻る頃だ。お前もこの話は聞かん方がいい」

半蔵はんぞうは素早く判断し、静かにだが強い声で言った。


「……分かりました」

東子とうこはすぐに席を立ち、裏庭の鍛錬場へ向かった。


「……それで、呪いってのは確かなんだな?」

半蔵はんぞうが静かに問い返す。


「うむ。ワシと金毘羅こんぴらで確かめた。脈も呼吸も途絶えておったが、かなえの身体には妙な反応があってな。

 これは、ただの自然死ではないと……すぐに気づいたわい」


「そうか……で、何か手がかりは?」

半蔵はんぞうの口調はすでに“調査者”のそれになっていた。


「三日前からかなえは体調を崩しておっての……病院に行っても、異常は見つからんかった。医者も首をかしげていたくらいじゃ」


「三日前……何か変わったことは?」

半蔵はんぞうが間髪入れずに聞いた。


「うむ……それがの、思い出そうとしたんじゃが……普段通りで、何ひとつ変わったことは無かった気がするのじゃ」


「……おいおい、それじゃ心当たりゼロってことじゃないか……」

半蔵はんぞうがやや苛立ちを含んだ声で言う。


「だから、わざわざ来たんじゃろがっ」

珍しく豊雲とよくもが声を荒げた。


「……すまない」

半蔵はんぞうはすぐに態度を改めた。


「で、『GFBI』には?」

話を進めるように訊ねる。


金毘羅こんぴらに頼んで、連絡は済ませておる」

豊雲とよくもが答える。


武久たけひさくんには?」

半蔵はんぞうがさらに聞く。


「いずれは話すが……今回は『GFBI』に深く関わらせるべきではない気がしてな」

豊雲とよくもの眼差しには、鋭い直感の確信があった。


「……なるほど。君の判断なら、信じよう」

半蔵はんぞうは頷き、その場で思考を切り替えた。


「では……まずは三日前、かなえさんの足取りを洗おう」

短く的確な提案。


「うむ、それがええじゃろ」

豊雲とよくももすぐに同意した。


「俺は町の方を調べる。豊雲とよくもくんは、家族や近しい者から聴き取りを頼む」

半蔵はんぞうの声には冷静な熱意が宿っていた。


「分かり申した」

豊雲とよくもは、深く頷いた。


そして二人は、再び静かに立ち上がった――

かけがえのない者の死を、決して無駄にせぬために。


* * *


半蔵はんぞうとの調査を始めた経緯を一通り語り終えた豊雲とよくもは、皆に向き直って静かに言葉を継いだ。


「――そんな訳での、半蔵殿はんぞうどのとふたりで、かなえの死を調べ始めたんじゃ」


その口調は淡々としていたが、思い出をたどるその表情には、どこか寂しさが滲んでいた。


するとサクラが、少し驚いたように言葉を返した。


「まあ……私が知らないところで、そんなことになってたのね」

眉をひそめつつも、語尾にはどこか申し訳なさが混じる。


「でもな、原因については――すぐに分かったんじゃ……」

豊雲とよくもは少し俯いた。


その言葉の先に、まだ語られぬ哀しみが宿っていた。


* * *


豊雲とよくもはゆっくりと家に戻ると、迷うことなくかなえのいる寝室へと向かった。

ふすまを開けると、そこには――


かなえの布団の傍らに座り、目を真っ赤に腫らした戸叶とかなと、そっとその背に寄り添って支える金毘羅こんぴらの姿があった。


ふたりとも、まだ現実と向き合いきれぬまま、静かに時間が過ぎていくのをただ見つめていた。


「あっ、お義父とうさん……お帰りなさい」

金毘羅こんぴらが静かに顔を上げる。


「おかえり……」

戸叶とかなも小さな声で続けた。


「うむ……ただいま」

豊雲とよくもは、わずかに肩を落とした様子で短く応えた。

その声には、疲労とやるせなさが滲んでいた。


金毘羅こんぴらさんが、『GFBI』に連絡してくれてん。……一時間以内には来てくれるって」

戸叶とかなが静かに報告する。その声は、まだ少し震えていた。


「そうか……すまなんだな、任せきりにしてしもうて……」

豊雲とよくもはふたりに向き直り、心からの感謝を込めて頭を下げた。


「いいんですよ、お義父とうさん」

金毘羅こんぴらは落ち着いた声で応じた。

こういうときこそ、自分が支えねばという想いが、その表情からも読み取れる。


だが次の瞬間、豊雲とよくもの眼差しが鋭くなる。


「……それよりも、聞いておきたいことがあるんじゃ」


「ん? なに?」

「なんでしょうか?」

戸叶とかな金毘羅こんぴらが声を揃える。


「――三日前の、かなえの行動についてじゃ」

豊雲とよくもは、目を伏せたまま静かに問いかけた。


「三日前……?」

「お義母かあさんの三日前……」

ふたりは記憶を手繰るように視線を宙に向けた。


「三日前って、ちょうどおかあちゃんが具合悪なった日やったよね……?」

戸叶とかながようやく口を開く。


「うむ、そうじゃ。そのとき、何か変わったことは無かったか?」


「……そういえば、その日は……おとうさんと金毘羅さんは、仕事で家おらんかったやんな」

戸叶とかながふと気づいたように言う。


「あっ、そうでした。私とお義父とうさんで、隣町まで出てましたね」

金毘羅こんぴらも思い出して頷いた。


「うむ、そうじゃ。だからこそ、聞いておるんじゃ」


「……あの時なぁ、たしか、おかあちゃんに蔵の掃除、言いつけられてん」

戸叶とかなは少し眉を寄せながら思い返していた。

「それで……掃除終わったあと、台所行ったら……おかあちゃん、苦しそうにしてはったんよ」


その時の光景が脳裏に蘇り、戸叶とかなの声が少し沈む。


「へぇ、戸叶とかなは蔵の掃除してたのか。大変だったろ?」

金毘羅こんぴらが、やや明るく声をかける。空気を和らげようとしたのかもしれない。


「もうっ……金毘羅こんぴらさんったら。そない優しいこと言われたら……あかんやん……ふふ」

戸叶とかなは少しだけ笑った。ほんのわずかだが、張り詰めていた空気がやわらいだ瞬間だった。


だが――


「……蔵……蔵じゃと!!!」

突如、豊雲とよくもが目を見開いた。


金毘羅こんぴら!! 一緒に来い! 戸叶とかなは、かなえのそばにおってくれい!」

何かに気づいたように、声を強める。


「……分かったわ。気ぃつけてな」

戸叶とかなが頷き、かなえの傍らに残った。


豊雲とよくも金毘羅こんぴらは、すぐさま寝室を後にした。

目指すは――蔵。

かなえが倒れる直前に、何かがあった場所。


すべての始まりが、そこにあるのかもしれなかった。


* * *


豊雲とよくも金毘羅こんぴらは、『神代神社じんだいじんじゃ』の左手にある『七代家ななしろけ』の蔵へと向かっていた。

「…… 境内に入ると、真正面の奥に鎮座するのが『神代神社じんだいじんじゃ』、その右手には社務所、左手の手前に重厚な木造の蔵、そしてその奥には『七代家ななしろけ』の母屋が構えている。

敷地全体が歴史の重みを湛えており、踏みしめる石畳からも、どこか張り詰めた空気が伝わってきた。 ……」


「……お義父とうさん、鍵が開いてます」

蔵の前に立った金毘羅こんぴらが、小さく眉をひそめて言った。


「……そうか。中に入るぞ」

豊雲とよくもが静かに頷く。声に微かな緊張が混じる。


「はい」

金毘羅こんぴらは背筋を伸ばし、警戒を強めながら蔵の扉を押し開けた。


中は薄暗く、埃っぽい空気が淀んでいた。

明かりの無い蔵は、静寂と不気味さに包まれている。


金毘羅こんぴら、灯りを点けてくれ」

豊雲とよくもが指示を出す。


「了解しました」

金毘羅こんぴらは入り口近くのスイッチを押した。

古びた照明が一斉に灯り、蔵の内部が明るく照らし出される――


「……なっ、なんじゃこれは」

蔵の中を見た瞬間、豊雲とよくもが目を見開いた。


「これは……いったい……」

金毘羅こんぴらも言葉を失う。


蔵の中は荒らされ、床には古文書が無造作に散らばり、壺や骨董、古い家具も粉々に砕かれていた。

まるで何かが暴れ回ったかのような惨状だった。


「まるで……獣か何かが荒れ狂うた後のようじゃな」

豊雲とよくもが呟くように言った。心の中では、すでに“ただ事ではない”という確信が膨らんでいた。


「ええ……尋常じゃありません」

金毘羅こんぴらも慎重に足を運びながら答える。


「そんなことより――やじりを探すのじゃ」

豊雲とよくもが急に声を強めた。


「……やじり? って、矢の先端ですか?」

金毘羅こんぴらが驚いたように振り向いた。


「そうじゃ。そのやじりじゃ。……とにかく探せぇ!」

豊雲とよくもの語気は焦りを含んでいた。何かに迫られているような、そんな切迫感だった。


「わ、分かりました」

金毘羅こんぴらも急ぎ、周囲を注意深く見渡し始めた。


「そうじゃ、金毘羅こんぴら。見つけても――決して触れるでないぞ」

豊雲とよくもが念を押すように言った。


「……え? 危ないんですか?」

金毘羅こんぴらは、思わず手を止めた。


「ああ……恐らく、そのやじりこそが“呪い”の根源じゃ。無暗に触れたら、どうなるか分からん」

豊雲とよくもの声には、重みと覚悟が宿っていた。


「……了解しました。慎重に探します」

金毘羅こんぴらの表情も引き締まる。


「うむ、それでよい」

豊雲とよくもが小さく頷く。


しばらくして――


「……お義父とうさん。やじり、ありましたよ」

蔵の奥から金毘羅こんぴらが声を上げた。


「なんじゃと……今行く」

豊雲とよくもがすぐに足を進める。


「……お札が破れてますね。……これ、何か封印でもされてたんでしょうか」

金毘羅こんぴらやじりのそばにしゃがみ込み、床に散らばる紙片を見つめながら言った。


「どこじゃ?」

豊雲とよくもが聞く。


「あっ、ここです。お義父とうさん」

金毘羅こんぴらが指さした先に、それはあった。


見た目はただの古びたやじり。しかし、かすかに不穏な気配が漂っている。


「……やはり……そうか」

豊雲とよくもはその姿を見つめ、肩を落とした。

わずかに、悔しさのような色がその横顔に浮かぶ。


「どうかされたんですか?」

金毘羅こんぴらが尋ねる。


「……金毘羅こんぴら。そのやじりを、そこに落ちておる箱に入れてくれ」

豊雲とよくもが指をさして言った。


「えっ? 触っても大丈夫なんですか?」

先ほどの忠告を思い出し、金毘羅こんぴらが慎重に確認する。


「大丈夫じゃ。……それぐらいのことは分かるじゃろ」

豊雲とよくもは小さく息を吐いて言った。


「……たしかに、変な氣は感じませんけど」

そう言いながら金毘羅こんぴらは、落ちていた木箱を拾い上げ、慎重に鏃を中へと入れ、蓋をそっと閉じた。


「お義父とうさん、入れました」

金毘羅こんぴらが箱を差し出す。


「うむ……では、一度家に戻ろう」

豊雲とよくもがそれを受け取り、足元を確かめるように歩き出す。


「はい」

金毘羅こんぴらも静かに後を追った。


だが、出口に向かう途中で――


呉呉くれぐれも……やじりのことは戸叶とかなや、他の者には言うな」

豊雲とよくもが振り返らずに言った。


「……え? なぜですか?」

金毘羅こんぴらが足を止めて尋ねる。


「お前も……このことは忘れるのじゃ。よいな」

その声は低く、どこか哀しげだった。


金毘羅こんぴらは、はっとしたように黙り込んだ。

ただならぬ気配が、豊雲とよくもの背中から静かに滲み出している――。


「……お義父とうさん。危険なことは……絶対に、しないでください」

金毘羅こんぴらはその背中に向かって、静かに、真剣に言った。


「分かっておる……」

豊雲とよくもは振り返らずに答えた。

その声音に宿るのは、覚悟と――孤独な決意だった。


* * *


豊雲とよくも金毘羅こんぴらは蔵から戻り、『七代家ななしろけ』の母屋に戻ると、豊雲とよくもはそのまま居間へと向かった。

一息つく間もなく、静かな声で言葉を発する。


「……金毘羅こんぴらよ、戸叶とかなを呼んできてくれ」


「分かりました。では――お義母かあさんのほうは、私が看ておきます」

金毘羅こんぴらは即座に応え、かなえが眠る寝室の方へと向かっていった。


「うむ、頼んだぞ」

豊雲とよくもは短く頷き、居間でひとり腰を下ろした。


やがて、戸叶とかなが足音を立ててやってきた。

まだ目元は少し腫れており、どこか不安げな面持ちをしていた。


「おとうさん。……蔵の方、どないやった?」

戸叶とかなが問いかける。心配と、ほんの少しの希望が混じる声だった。


「ああ……特に、これといって何も無かったよ」

豊雲とよくもは穏やかにそう答えた。

声の調子は変わらぬままだが、その奥には小さな嘘と迷いがひそんでいた。


「……そうなんや」

戸叶とかなは少しだけ目を伏せ、どこか納得しきれない表情を浮かべた。


戸叶とかなや、ちいとこちらへ来なさい。……ワシの前に座るんじゃ」

柔らかく手を招きながら、豊雲とよくもが促す。


「うん。わかった」

戸叶とかなは素直に膝をつき、豊雲とよくもの正面に座った。


「……目を、閉じなさい」

老いた声は穏やかで、深く、優しかった。


戸叶とかなは目を閉じ、静かに息を吐いた。

その姿を見ながら、豊雲とよくもはそっと掌を掲げ、戸叶とかなの氣の流れを探るように指先を動かす。


(……やはり、少しばかり呪いの影響を受けとるようじゃな……)

豊雲とよくもは内心で呟き、目の前の娘の背にそっと自らの氣を流し込んでいく。


「どうじゃ? ちいと楽になったじゃろ。……ワシの氣を通しておいた」

その口調は、あくまで穏やかで、まるで手を撫でるような優しさがあった。


「……うん。なんか、肩んとこスッとした気ぃする。ありがとな、おとうさん」

戸叶とかなは目を開けて微笑み、小さく頭を下げた。


「うむ。それでええ。……では、かなえのもとへ行ってやりなさい。

 ワシはまた出かける。『GFBI』の連中が来たら、金毘羅こんぴらとふたりで対応できるな?」


「任しといて。そんなん、へーきや」

戸叶とかなは軽く胸を叩いて、にっこりと笑った。


「……そうか、よう言うた。じゃあ、行ってくるとしようかの」

豊雲とよくもは立ち上がり、背筋を伸ばした。

その背に、老いた男の静かな決意が宿っていた。


「気ぃつけてな、おとうさん……」

戸叶とかなはその背を見送るように、小さく呟いた。


豊雲とよくもはそれに答えるように、振り返らずにひと言だけ――


「うむ、任せとけい」


そして静かに『七代家ななしろけ』を後にし、再び三雲半蔵みくもはんぞうのもとへと向かっていった。


* * *


豊雲とよくもは、三雲半蔵みくもはんぞうから事前に聞いていた『神代川じんだいがわ』の河川敷に建てられた小屋へと向かっていた。

冷たい風が川面をなでるように吹き抜け、周囲にはまだ朝の静けさが残っている。

小屋の中に入ると、ひとり――半蔵はんぞうがすでに待っていた。


「なんじゃ、半蔵殿はんぞうどの……おぬし一人か?」

豊雲とよくもが歩み寄りながら声をかける。


「ああ。どうやら、妖魔はまだ本格的に動き出してないようだ。

 だったら俺ひとりで動いた方が早いと思ってな」

半蔵はんぞうは気配を殺すように立ちつつも、声は落ち着いていた。

その瞳は既に、警戒と分析を並行している“戦士”のものになっている。


「ふむ……そうか。では、ワシの方の報告を聞いてくれ」

豊雲とよくもはそう言って手にしていた木箱をそっと置き、蓋を静かに外した。


中には、黒ずんだやじりが一つ――その形は、まるで呪詛の痕跡を具現化したような異様な気配を放っていた。


「……まさか、これは……妖魔王ようまおうか?」

半蔵はんぞうの目がわずかに見開かれた。

口調こそ落ち着いていたが、眉の奥には衝撃が走っていた。


「そのまさかじゃ。……封印が解かれた」

豊雲とよくもの声は、静かに深く響いた。


「……妖魔王ようまおう――いや、物部守屋もののべのもりやが……復活したのじゃ」

老いた声音に含まれたのは、重くよどむ覚悟。


「なんてことだ……」

半蔵はんぞうは一歩だけ、やじりから距離を取った。

それが本物であるという確信が、無意識に体を動かしたのだった。


「じゃが、まだ妖魔の動きは本格化してはおらんのじゃろ?」

豊雲とよくもが改めて尋ねる。


「ああ。雑魚の類は多少いるが、目立った異変はない。いつも通りだ」

半蔵はんぞうの言葉は冷静だったが、その視線はすでに遠くの気配を探るように鋭くなっていた。


「……封印を解いたのは、恐らく戸叶とかなじゃ」

豊雲とよくもが重々しく告げた。


「えっ……戸叶とかなちゃんが?」

半蔵はんぞうが驚き、わずかに目を見開く。

その言葉が信じられないという色が、声ににじんでいた。


「そうじゃ。……じゃが、蔵の掃除を言いつけたのはかなえじゃ」

豊雲とよくもの顔に苦みが走る。


「……そうか。じゃあ、もう封印自体が、解けかけてたってことか」

半蔵はんぞうが理解したように呟いた。


「うむ……おそらく、ふたりとも、意識せずに操られていたのじゃろう」

豊雲とよくもの声は悔しさを含んでいたが、あくまで冷静に分析を続けていた。


「……その影響で、一般人のかなえいのちを落とした」

口にした瞬間、豊雲とよくもの表情がわずかに歪む。

それは、老いた男の堪え切れぬ後悔のにじみだった。


「……戸叶とかなちゃんは、大丈夫なのか?」

半蔵はんぞうが慎重に問う。

優しさと緊張が入り混じった問いだった。


「ああ。多少の影響はあるようじゃが、いのちに関わることはなかった」

豊雲とよくもは小さく頷きながら答えた。


「……そうか。それは、何よりだ」

半蔵はんぞうの肩が、ほんのわずかに安堵で緩む。


「……それで、どうするかの?」

豊雲とよくもが話を先に進める。


「そうだな。今は俺と豊雲とよくもくんの二人で、ひとまず調査を続けよう。

 中途半端に動けば、無用な混乱を生む」

半蔵はんぞうの言葉には戦略的な冷静さが宿っていた。


「うむ、それがよかろう。今のうちに手を打たねば、取り返しがつかんようになる」

豊雲とよくもも同意する。その声に、重みがあった。


「……じゃあ、国王陛下には報告するか?」

半蔵はんぞうがふと問いかける。


「いや、今はよかろう」

豊雲とよくもが即答する。


「えっ? どうして……?」

半蔵はんぞうが意外そうに問い返した。


「――あの御方は、すべてご存じじゃよ」

豊雲とよくもの瞳には、深い確信が宿っていた。


「……そうだな。あの人は、高天原総司たかまのはらそうじだもんな」

半蔵はんぞうが納得したように呟く。


「そうじゃ。あの御方の御心みこころは、遥か先まで見通しておられる」

豊雲とよくもは静かに言い切った。


ふたりの間に、しばし無言の時間が流れる。

だがその沈黙は、決して迷いではなく――覚悟と信頼に裏打ちされたものだった。


* * *


豊雲とよくもの語りがふと止まり、戦場に静寂が落ちた。

語られる内容の重さに、誰一人として言葉を挟む者はいなかった。

朱角あけすみも、堅蔵けんぞうも、一斗いっとも、みことも、ただ黙って耳を傾けていた。


豊雲とよくもは少しうつむき、低く、静かな声で言葉を継いだ。


「……ワシらはの、この時――ある可能性を、見落としておった……

 いや……見ようとせんかったんじゃ……」


その声音には、長年を経ても消えぬ悔恨かいこんと、自分自身への戒めがにじんでいた。

老いた背中に浮かぶわずかな震えが、その苦しみの深さを物語っていた。


「……豊雲とよくもさん……」

その姿を見ていたサクラが、そっと言葉を漏らした。

豊雲とよくもの強さを知っているからこそ、今こうして痛みを語る姿が胸に刺さった。


心配と、敬意と、寄り添いたいという思いが、その一言に込められていた。

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