第25話 VF1妖魔~戦いの終りに

『 GA歴八十七年 七月十三日 十六時二分 』


新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。


廃工場の片隅、興梠海斗こうろぎかいとは拘束されたまま意識を失っている三枝沙織さえぐささおりを乱雑にソファーへと寝かせた。足元には埃まみれの床、天井には錆びた鉄骨。場違いな静寂が、逆に不気味さを際立たせていた。


真木まきさん、大丈夫ですか?」


そう声をかけながら、興梠こうろぎは背後に目をやった。そこには、壁にもたれたまま動かない真木晋佑まきしんすけの姿がある。


「ああ、大丈夫じゃ……。じゃが、もう戦う力は……失うた」


かすれた声で返す真木まきの顔に浮かんでいたのは、痛みでも怒りでもなく――虚無だった。みことの必殺技により『F1妖魔』としての力を完全に消され、かつての異能も存在理由も消え失せた。何も残っていない。ただ「終わった」という確信だけが彼の中にあった。


「そうですか。……なら、後は任せてください。沙織さおりちゃんはここに置いていきます」


興梠こうろぎの声に、同情の色はない。ただ計画の続きを遂行するだけ。沙織さおりを守るためではなく、目的のために行動しているだけだった。真木まきの肩を軽く押し、彼をソファーの脇に座らせたその手も、あまりに機械的だった。


「ここで休んでいてください。……行ってきます」


興梠こうろぎきびすを返そうとしたとき、真木まきがぽつりと呟いた。


「……死なんでくれ」


その言葉は、仲間を気遣うというよりは――自分が果たせなかった何かを、彼に託すような儚さを帯びていた。


「……はい」


短く答えた興梠こうろぎは、振り返らなかった。ただ、背に重くのしかかるその言葉を押し殺すように、深く息をついた。


そして一歩ずつ、彼は歩き出す。


その先には、静かに待ち構える少年――七代一斗ななしろいっとが立っていた。


その視線を真正面から受け止め、興梠こうろぎは立ち止まり、口を開く。


「じゃあ……行くぞ。顛倒てんどう


低く静かな呟きが、場の空気を震わせる。


次の瞬間、興梠こうろぎの身体を黒いもやが覆った。骨の軋むような異音と共に、その姿は別の何かへと変貌していく――やがてもやが晴れると、そこにはVF1を模した機械的な外見の妖魔が現れた。かつて真木まきが姿を変えたあの形に、酷似していた。


「うをっ……めっちゃカッコいい……」


思わず漏らした一斗いっとの声に、場の緊張が一瞬だけ和らぐ。戦いを前にしてなお、彼は心のどこかで少年らしい感性を失っていなかった。


「そうだろ? 俺もそう思う。なんかロボみたいで、ちょっとテンション上がるよな?」


興梠こうろぎもまた、自身の変貌に対して奇妙な高揚を感じているようだった。その言葉には、わずかに誇らしげな響きさえあった。


「そんな感じですね……。いいなぁ」


一斗いっとは素直に返しながらも、視線は揺るがず相手を見据えていた。その瞳にはもう、遊び心だけではない真剣さが灯っていた。


そして――


「……そんなことより、行くぞ」


興梠こうろぎの声が再び低く響き、場の空気を一変させる。


「来い!『VF1妖魔』っ!」


一斗いっとはその場で両手の力を抜き、真っ直ぐに立ったまま、鋭く前を睨んだ。身体に力は入っていない。それでも、そこに宿る意志は揺るぎない。


廃工場に、一瞬の静寂が訪れる。


過去を失った者と、未来を背負う者。


今、その狭間で、戦いの火蓋が切って落とされようとしていた――。


「…… 『VF1』とは、アクセラレーター技術を搭載した次世代型の高速移動体である。

従来の乗り物のように「加速」「減速」といった概念を持たず、力の大きさと方向を瞬時に変化させることが可能なため、静止状態からいきなりトップスピードに達することができる。

また、『VF1』にはタイヤのような接地構造が存在せず、常に宙に浮いた状態で移動する。その挙動は「走る」というよりも、むしろ「飛ぶ」と表現した方が実態に近いだろう。 ……」


「…… ここで、VF1競技について説明しておこう。


VF1レースには、大きく分けて「フルオート」「セミオート」「マニュアル」の三つのカテゴリが存在する。


フルオートは、かつてのF1競技に最も近い形式で、ステアリング、ギア、アクセル、ブレーキといった従来の運転装置を備えており、ドライバーの純粋な操縦技術が問われる。レースは平面構造のサーキットで行われ、車体の挙動も滑らかで、往年の『F1』を彷彿とさせるクラシックな競技となっている。


セミオートは、10〜30個のスイッチによって機体を制御する方式で、それぞれのスイッチには予め「力の大きさ」と「方向」が設定されている。この設定値はレース前に公開され、チームの戦略とドライバーの瞬時の判断力が試される。レースは上空に設けられた立体的なコースで行われ、コース内には上下左右あらゆる方向に人工構造物が設置されている。鋭角なターンを多用するこのカテゴリでは、わずかな操作ミスが進行方向の逸脱や衝突につながるため、事故のリスクが高く、ドライバーの肉体的負担も非常に大きい。


マニュアルは、自然環境の中に大まかに設定されたスタート地点とゴール地点を結ぶ、自由度の高い競技形式である。コースの詳細は事前には知らされず、レース中にマニュアル操作で機体の力と方向をリアルタイムに設定しながら走行していく。設定プログラムはドライバー自身が事前に作成し、走行中にも即時調整が求められるため、瞬発的な判断力と高度なプログラミング能力が問われる。

この競技は、フルオートの滑らかな挙動と、セミオートの鋭角な動き、その両方が要求される、高難度かつ最も自由度の高いカテゴリとされている。 ……」


ついに、戦いが始まった。


『VF1妖魔』が先手を取った。

黒く鋭いシルエットが宙を駆け、一斗いっとの周囲を高低差をつけながら不規則に旋回する。その動きは、まるで空間そのものを滑るようだった。


「っぐ……!」


『VF1妖魔』が繰り出す攻撃は、すべてが突発的で、予測不可能だった。一斗いっとは必死に目で追うが、対応が間に合わない。瞬間的に背後に回り込まれ、脇腹に一撃。次いで脚に。肩に。連撃の嵐が身体を襲う。


数分も経たぬうちに――


「っく……」


一斗いっとはついに、膝をついた。両腕で頭を抱え、うずくまる。亀のように背中を丸め、己の内に籠った。


(うわぁ……早すぎですぞ……。こんなの、躱すのは無理ですぞ……)


心の中で一斗いっとは悲鳴をあげる。息は荒く、全身に鈍い痛みが広がっていた。身体強化をしているとはいえ、限界は近い。


「おらぁ、どうしたぁ!」


『VF1妖魔』の嘲笑が、廃工場内に響く。


(……白い炎。さっき……一瞬、出たやつ……)


記憶の片隅に残る、あのときの白い炎。だが、どうやって出したのかは思い出せない。一斗いっとは必死に自分の内側を探る。


「どうした? 亀みてぇにうずくまって、もう終わりかぁ?」


『VF1妖魔』の声が、ねっとりとした侮蔑を含んで降りかかる。


(……集中しろ。一度はできたんだ……。丹田の……奥の方……)


一斗いっとは痛みに耐えながら、意識を深く沈めた。内なる何かへと向かって。


「そろそろ、弱い者いじめも飽きてきたな」


『VF1妖魔』が呟いた、そのときだった。


(もっと……もっと奥へ……)


「あっ……あっ……あふっーーー」


一斗いっとの何とも言えない気持ちの悪い声が響き渡る。

突如、一斗いっとの身体が白い炎に包まれた。空気が変わった。


燃えるような熱さはない。ただ、静かで――清らかだった。全身を満たしていた痛みが、すっと抜け落ちる感覚。湧き上がるのは、澄みきった意識。


「ふう……なんだ、頭がすっきりしてきた……」


低く、一斗いっとが呟いた。口調が、それまでの彼とはまるで違っていた。力が抜けたはずの姿勢に、不気味なほどの安定が宿る。


『VF1妖魔』が動きを止める。わずかに警戒したように、距離を取った。


「……なんだ、お前。その白い炎は……?」


「ああ、『VF1妖魔』か。どうした、もう攻撃はしないのか?」


一斗いっとはふと目を向けるが、その瞳には光がない。虚ろで、深淵のように底が見えない。


「お前……口調が変わったな。まあいい、行くぞッ!」


『VF1妖魔』は一瞬で加速し、一斗いっとに向かって突進。鋭い拳を振り抜いた。


しかし――


「……ッ」


一斗いっとはその拳を、わずかに身体を傾けるだけでいなした。

そのまま勢いのまま、『VF1妖魔』は廃工場の壁へ激突。鉄骨が軋み、火花が散った。


「ぐぬっ……!」


悔しげな声と共に、『VF1妖魔』は体勢を立て直すが、攻撃がまるで通じない。何度仕掛けても、そのすべてを一斗いっとは躱し、弾き、投げ飛ばす。


「どうした? 『VF1妖魔』。もう終わりか?」


静かに問いかける一斗いっとの声には、感情がこもっていない。それが、かえって不気味さを際立たせていた。


「……うるさいぞッ!」


『VF1妖魔』が叫んだ。もはや余裕はなかった。


(くそ……攻撃が当たらねぇ。こうなりゃ……あの技しかねぇ!)


「ふぅ……。攻撃がまったく通らねぇ。だったら――必殺技的なやつ、いくぜ!」


妖魔の両腕が再び黒いもやに包まれる。靄が渦を巻き、収束したとき、腕の一部が鋭く細い短槍たんそうへと変化していた。


「……短槍たんそうか」


一斗いっとはゆっくりと半身に構えた。表情は変わらない。ただ静かに、気を高めている。


「いくぞ……秘儀・光速打突槍こうそくだとつそうッ!!」


『VF1妖魔』が一瞬で距離を詰め、槍を突き出した――その刹那。


「……甘い」


一斗いっとはその突きを寸前で躱し、槍を繰り出した腕を掴む。そして、全身の力を込めて上空へと投げ上げた。


「これで――終わりだ」


一斗いっとは静かに顔を伏せ、拳を腰元に構える。


甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう――奥義、青龍昇竜波せいりゅうしょうりゅうは


白い炎が一斗の拳に収束する。


突き上げたその拳から、白き龍が咆哮と共に現れた。旋回しながら天空へ昇るそれは、まるで天に至る一筋の光――。


「ぐわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


VF1妖魔の身体を、龍の如き白炎が貫いた。


妖魔は炎に包まれたまま空中で激しく震え、そして――

音を立てて、廃工場の床へと落下した。


白い炎はその身体を飲み込みながら、静かに、周囲の空気を鎮めていった。


戦いは――終わった。


海斗かいとくーーん!」


真木まきの叫びが、静まり返った廃工場内に虚しく響いた。

その足取りはおぼつかず、身体を引きずるようにしながら、白い炎に包まれて倒れている『VF1妖魔』――いや、興梠海斗こうろぎかいとの元へと向かっていく。


戦いを終え、すべてを失った真木まきの背は、小さく、痛々しく見えた。


ようやくたどり着いた真木まきは、力ない膝を折って座り込み、興梠こうろぎの身体をそっと抱き上げる。白い炎はなおも燃えており、しかし熱は感じられない。ただ、淡く揺らめくその光は、どこか神聖で、悲しみに満ちていた。


海斗かいとくん……わしじゃ。しっかりしろ……」


そう呼びかける声には、いつになく優しさが滲んでいた。


その声に反応するように、興梠こうろぎの変身が解け、人の姿へと戻っていく。だが、白い炎だけは消えなかった。


「……真木まきさん……すいません……」


かすれた声。興梠こうろぎの目に浮かぶのは、悔しさではなく、穏やかな後悔だった。彼は敗れたのではない。己の限界と、結末を、受け入れていた。


「いいんじゃよ。……よく頑張ったなぁ……」


真木まきはその言葉に、何も責めなかった。

彼にとって海斗かいとは、同じ痛みを抱えた仲間であり、もう一人の自分のような存在だった。


「……ありがとう……ございました……」


今生の別れにしては、あまりに短く、静かなやりとりだった。

けれどもそこには、確かな絆があった。


海斗かいと……! 海斗かいとぉーーー!!」


真木まきが再び叫ぶと、興梠こうろぎを包んでいた白い炎が、ゆっくりと小さくなっていき――そして、音もなく消えた。


彼の身体もまた、塵となって風に溶けるように、ふわりと消えていった。


* * *


「えっ……『VF1妖魔』は……?」


白炎の消失と共に、一斗いっとの瞳に光が戻った。

彼はふらつきながらも目を見開き、周囲を見渡した。


「……消えたよ。君が……消したんじゃよ」


真木まき一斗いっとの問いに、静かに、そして寂しそうに答えた。

表情は微笑んでいたが、声の奥に隠しきれない喪失感があった。


「じゃが、気にするでない。……ワシらはな、覚悟はできておったからの……」


一斗いっとはその言葉に、ふとみことの言葉を思い出していた。


* * *


「止めるです、一斗!」


振り返ると、そこには泣きそうな目で訴える命の姿があった。


「えっ……」


「お願い……その技では、お爺さん……殺してしまうです……」


* * *


「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


全身を震わせ、一斗いっとは悲痛な叫びをあげた。

そのまま膝を崩し、崩れ落ちるように意識を失う。


「ポッドくん……その子、大丈夫かの……?」


真木まきが振り返り、震える声で尋ねた。


その時、バクマがふわりと宙を滑るように近づいてくる。

彼の姿は相変わらずぬいぐるみのようだったが、優しげに短い手を挙げた。


「はい、真木様まきさま一斗様いっとさまの器を超える量を使用したため、の枯渇と反動により気絶しておりますが――いのちに別状はございません。ご安心くださいませ」


執事のような丁寧な言葉を紡ぎながら、バクマはそっと一斗の傍に寄り添い、宙に浮いたまま見守るように滞空する。


「そうか……ポッドくん、ありがとうな……」


真木まきは小さく微笑んで礼を言い、その場にゆっくりと身体を預けるように座り込んだ。


気が抜けたのか――そのまま、彼も静かに目を閉じた。


白い炎が残したものは、勝利ではなかった。

それは、痛みと、ゆるしと、終わりのぬくもりだった。


* * *


戦いが終わり、辺りには静寂が戻っていた。

空を見上げれば、夕陽が西の地平線にゆっくりと沈みかけている。

あたたかな橙の光が廃工場の鉄骨を赤く染め、風もなく、ただ時だけが静かに流れていた。


「アドルフ緊急通信――どなたか、ご応答願います」


バクマの声には、いつになく切実な響きがあった。執事然とした口調の奥に、「誰かに、どうか届いてほしい」という強い想いが込められていた。


しばらくの沈黙の後――


「……こっ、古山こやまだ……」


ノイズ混じりの通信から、かすれた声が返ってきた。


「……よかった……ご無事でございましたか、古山参謀殿こやまさんぼうどの


バクマの声が僅かに揺れた。普段と変わらぬ丁寧な口調ではあったが、その安堵は明らかだった。


「お前か……バクマ。ああ、『抗魔隊』と『遊撃隊』が駆けつけてくれたおかげで、なんとか……妖魔は、全滅させられた」


声には疲労が滲みながらも、確かな手応えがあった。


「左様でございましたか。それは何よりでございます。――こちらも、ひとまず戦闘は終息いたしました」


バクマは宙にふわりと旋回しながら、戦況を淡々と報告する。


佐久間良助さくまりょうすけ、死亡を確認。三枝沙織さえぐささおりは――生存しております」


「……そうか。生きていてくれたか……よかった……」


古山こやまの声がわずかに緩んだ。安堵と、ほんの少しの感情の滲みが垣間見えた。


「さらに――真木晋佑まきしんすけに関しましては、命様みことさまが例のお力を用い、妖魔の力のみを完全に消し去られました。現在、肉体は無事で生存を確認しております」


「……みことくんが……そうか、あの子が……」


古山こやまが小さく呟いた直後、声色が急に鋭くなる。


「――興梠こうろぎは!? 興梠海斗こうろぎかいとはどうした!?」


バクマはわずかに浮遊姿勢を変えながら、冷静に答えた。


「はい。興梠海斗こうろぎかいとは、妖魔に取り込まれておりました」


「なにっ……! 興梠こうろぎも妖魔だったのか!?」


通信の向こうで、古山こやまが強く叫んだ。驚きというより、信じたくないという叫びにも近い声だった。


「左様でございます。興梠こうろぎは『VF1妖魔』へと変貌しておりました」


「『VF1』……そうか……興梠は『VF1』のメカニックだったな……」


記憶の断片が繋がったように、古山こやまが低く呟く。かつて整備士として関わっていた彼の姿を、古山こやまは思い出していた。


「その通りでございます。――興梠こうろぎ一斗様いっとさまと交戦し、最終的に妖魔の力と共に、完全に――消滅いたしました」


「消滅……」


古山こやまの声が詰まる。


「……じゃあ、みことくんはどうなった? あの戦いを止められなかったのか?」


「はい。命様みことさまは、『F1妖魔』――真木まきとの戦闘終了後に気を失われてしまいました。それゆえ、やむを得ず一斗様いっとさまが交戦に臨まれた次第でございます」


「そうか……」


その一言には、幾重もの感情が込められていた。後悔、納得、憤り、そして――虚しさ。


「他の者たちは!? みんなは無事か!?」


急に思い出したように古山こやまが問いかけた。その声は、まるで祈るようだった。


バクマはほんの一瞬、宙で静止し、やや低めに語る。


「全員……“無事”とは言い難き状態ではございますが、かろうじて――皆様、生きておられます」


「……なに?」


「生命反応は確認済みでございます。ただし、精神的・肉体的損耗は大きく、直ちに応急対応が必要と判断いたします」


「おいっ! バクマ、それを先に言え! すぐに応援を送る!」


古山こやまが焦燥に満ちた声を上げる。通信の向こうで、椅子を蹴って立ち上がる音が混じっていた。


その時――廃工場の高所、梁の陰でじっと戦いの一部始終を見つめていた何者かがいた。


黒いもやに包まれた一羽のからす


それは羽音すら立てず、静かに翼を広げ、虚空を滑るように飛び去った。


そして、煙のように空気へと溶け――跡形もなく、姿を消した。


* * *


数分後、夕暮れが濃くなり始めた廃工場に、古山こやまを先頭に応援部隊が到着した。『抗魔隊』と『遊撃隊』、そして『救護隊』と『鑑識隊』。様々な個所が破壊されている構内に、重い足音がいくつも響く。


「おい、バクマ! みなはどこだっ!」


古山こやまが鋭く声を張った。その表情には焦りと怒気、そして見えない不安が混じっていた。


すると、ふわりと宙を滑るように現れたのは――バクマ。小さく揺れながら、まるで空気を撫でるように古山こやまの前へと浮遊してきた。


「こちらに、丁重に運ばせていただきました。皆様、現在はあちらで安静にされております」


いつもの丁寧な口調で、穏やかにそう告げた。


「ん? ……どうやって運んだんだ?」


古山こやまは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、廃工場内を見回した。周囲には大型の担架や車両も見当たらない。


「えっ? 魔法で浮かせて、でございますが……何か?」


バクマは当然のことを告げるように答えた。ぬいぐるみの目であるが、何か不思議なことでも言ったのかという表情に感じた。


「あ……魔法……あー……そうだったな。うん、よし……!」


理解はできていないが、今さら驚いている時間もない。古山こやまは強引に納得したように顎を引き、現場の指揮へと気持ちを切り替えた。


「けが人はすぐに運び出せ! 慎重にな、無理はさせるな!」


古山こやまが的確に指示を飛ばすと、各部隊がそれぞれ動き出した。


古山参謀こやまさんぼう、鑑識作業に入ります」


大坂おおさか率いる『鑑識隊』の一人が、背筋を伸ばして報告する。


「おう……ん? 大坂おおさかはどこだ?」


周囲を見渡していた古山こやまの目に、すぐに異様な光景が飛び込んできた。


堅蔵けんぞうさーーーんっ!!」


泣き声混じりの叫びが響く。そこにいたのは、意識を失ったままの三雲堅蔵みくもけんぞうに、顔を伏せてしがみついている大坂おおさかだった。


大坂おおさかの瞳は涙で溢れ、必死に何度も名前を呼んでいる。普段は冷静で凛々しい彼女の姿が、今はただ、心配と後悔に押し潰された一人の女性だった。


「……ああ、そういうことか」


古山こやまはそっとため息をついた。呆れ半分、理解半分。それでも心の奥では、誰よりも大坂おおさかの気持ちに共鳴していた。


「頼む。……それと、佐久間さくまの死体はあそこのソファーの横だ。丁重にな」


古山こやまは振り返り、『鑑識隊』の一人に淡々と指示を出す。


「はい、了解しました」


隊員はすぐに動き出し、鑑識隊員たちはポッド端末を引き連れ現場へと向かった。


夕陽はさらに傾き、廃工場の鉄骨が長く影を落とす中、応援部隊の手によって、ようやく静かな後処理が始まろうとしていた。


* * *


『 GA歴八十七年 七月十四日 十三時 』


戦いから一夜が明け、午後の陽光が穏やかに『神代病院じんだいびょういん』の特別室に差し込んでいた。

その病室には、大石おおいしをはじめ、『アドルフ』の隊員たち数名が静かに療養していた。


扉が静かに開き、二人の青年が中へと足を踏み入れる。


みんなの容態はどうですか?」


金色の長髪をなびかせ、穏やかな口調で祈琉いのるが病室に入ってくる。


「こんちわぁ!」


元気な声で続いたのは比智ひさとだった。いつも通りの調子で、病室の空気が少し明るくなる。


みんな、安定しているわよ」


見舞いに来ていた華豊かほうが優しい声で答えた。


「ま、あんなのもいるけどな」


隣で付き添っていた朱角あけすみが肩をすくめながら付け加える。


視線の先には――


「ふっ、ふっ……ふぅっ。ふんっ……兄貴……ふんっ!」


すでに筋トレを再開している堅蔵けんぞうの姿があった。


堅蔵けんぞうおじさん、回復早すぎですよ……」


祈琉いのるが呆れたように苦笑する。


「まあ、鍛えてるからな。外傷も骨折も大したことはなかったし、氣で回復を促してる。医者の予想よりかなり早く治ってるらしい」


堅蔵けんぞうは呼吸を整えながら、淡々と答えた。


「へぇ……本当にすごいですね……」


祈琉いのるは感心しながらも、ちょっと真似できないといった表情になる。


叔父貴おじきだけ超回復って……ぶっちゃけ気持ち悪い」


比智ひさとが正直な感想をぶつける。


「ひどいな、比智ひさとくん」


堅蔵けんぞうは苦笑しながらも嬉しそうだ。


「私も、もうだいたい回復してるわよ」


カーテンの隙間から真白ましろが顔を出して微笑んだ。


「えっ……あっ、真白ましろさん……お加減、もう……それは、すばらしいことで……」


比智ひさとは急に言葉遣いが丁寧になり、顔を赤くして口ごもる。


「……誤魔化したわね?」


真白ましろが目を細める。


「いやいやいや、そんなことは……ありませんって……ははは」


比智ひさとは慌てて笑ってごまかした。


「なんだ、比智ひさと真白ましろくんと話すときはやけに丁寧だな」


朱角あけすみがにやりと茶化す。


「あなた、そういうことは……」


華豊かほうが小声で朱角あけすみをたしなめる。


「え? ……あ、すまん」


朱角あけすみは気まずそうに頭をかいた。


「な、何言ってんだよ親父。お袋もさ……そういうんじゃねぇし!」


比智ひさとは必死に否定していたが、耳は真っ赤だった。


そのやり取りのあと、ふと華豊かほうが少し表情を曇らせる。


「それよりもね、みこと一斗いっとがなかなか目を覚まさないのよ。身体は不思議なくらいもう回復してるのに……」


「そうですか……じゃあ、僕がみことに声をかけてみます」


祈琉いのるが一歩前へ出る。みことの心に一番近い自分なら、何か届くかもしれない。そんな想いがあった。


「そうしてあげて。みこと祈琉いのるが大好きだから、きっと起きるかもしれないわ」


華豊かほうが微笑みながら促す。


「……ん?」


比智ひさとがベッドをじっと見る。


(……ミコのやつ……今、動いたぞ)


比智ひさとは確信したように目を細め、にやりと笑った。


「おい、兄貴。ちょっとだけ、俺にやらせてくれ」


「え? あ、うん……いいけど……?」


祈琉いのるは怪訝そうな顔をしながらも譲った。


比智ひさとみことの枕元にそっと近づき、祈琉いのるの声色を真似て耳元で囁いた。


みこと、そろそろ起きてくれよ。僕はみことの笑顔がとても愛おしいよ……だから、早く会いたいんだ」


――直後。


みことが目を見開いて飛び起き、勢いよく抱きつこうとした。


兄様にいさまぁぁぁ――!」


だが、目の前にいたのは比智ひさとの顔だった。


「ぎゃああああああああ!」


悲鳴を上げるみこと


「うるせえ!」


比智ひさとは呆れたようにみことの頭を軽く叩く。


「いたいですっ! ていうかヒサ兄、今の声はなんです?」


「兄貴の声真似だよ。……嬉しかったろ?」


比智ひさとがどや顔で言う。


「まさに“上げて落とす”です。ヒサ兄、最低です!」


みことが怒りを露わにする。


「まあまあ、みこと比智ひさとだって、元気づけたかっただけなんだから」


華豊かほうが優しく宥める。


「そうだ、そうだ」


比智ひさとがすかさず乗る。


「でもぉ……」


みことが小声で抗議しようとしたところで――


みことは、優しい子だろ?」


祈琉いのるが静かに言って、みことのベッドに腰かけ、そっと頭を撫でた。


「……良かった、みこと。やっと起きてくれた」


華豊かほうは胸を撫で下ろして微笑んだ。


「ってあれ? 真白ましろさん。そこのベッドの方は……?」


みことが隣のベッドを指差す。


「ああ、淳二じゅんじさんよ」


「えっ……大石おおいしのおじさん!? ええっ? 全然分からなかったです。なんかイメージ違うというか……えっ、重症なんですか?」


みことが不安そうに訊ねる。


「ううん、そこまでじゃないけど、堅蔵様けんぞうさまよりはちょっと遅いの」


真白ましろが穏やかに答えた。


「でも、大石おおいしのおじさんって、たしか『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう』の弟子でしたよね?」


比智ひさとが訊ねた瞬間、大石おおいしが目を開いた。


「はは……比智ひさとくん。我ながら情けないよ」


大石おおいしは苦笑しながら上体をゆっくり起こした。


「そんな、情けないなんて……」


「まだ氣が錬れなくてね。堅蔵けんぞうみたいに毎日鍛えてれば違ったんだろうけど」


「まあ、それは仕方ないだろ。淳二じゅんじ総司令そうしれい、俺は酒屋の店員だからな」


堅蔵けんぞうが冗談交じりに笑った。


「でもな、そろそろ氣も錬れそうなんだ。明日には動けるようになるさ」


「明日ですか……つくづく、『甲賀猿飛流こうがさるとびりゅう』ってすごいっすね。俺もやってみようかな……」


比智ひさとが感心しながら口にする。


「ふふ、いいじゃない。そのときは、この“真白ましろさん”が教えてあげるわよ?」


真白ましろが優しく笑う。


「え……本当ですか……? マジで……考えようかな……」


比智ひさとは顔を真っ赤にしながら言った。


「あっ、ヒサ兄、てぇれぇてぇるぅ~」


みことがすかさず冷やかす。


「こら、みこと比智ひさとをからかっちゃいけないよ」


祈琉いのるが優しくたしなめる。


「はい、祈琉兄様いのるにいさま


みことはおとなしく頭を下げた。


――その時、比智ひさとがふと、一斗いっとのベッドに目をやった。


その周囲には、なぜか薄くもやがかかっている。

比智ひさとは目を凝らして、その中を覗き込む。


「……ん? ……うわっ!!」


比智ひさとが突然声を上げた。


比智ひさと。人の顔見てそのリアクションはないやろ」


病室の隅から、戸叶とかなの声が響いた。


「ビックリしたぁ! ババアてめぇ、どこ行ってたんだよっ!」


比智ひさとがいきなり切れ気味に言う。


「こっちは上で神事の準備やら何やらで籠っとったんや。なんや、文句でもあるんか?」


戸叶とかなが鋭く睨む。


「連絡もよこさねぇし……まったくよ……」


比智ひさとが少し拗ねたように口をとがらせる。


「何言うてんねん比智ひさと。あんたも研究所に籠りっぱなしやったやろ。家に何度も帰っとったんはワシやで? 帰ったら誰もおらんのが寂しかってんからな!」


「……そ、それは、そうだけど……」


「お義母さん、すみません。家を任せっきりで……」


朱角あけすみが申し訳なさそうに口を挟む。


朱角あけすみさんが謝ることちゃうで。それに真白ましろから色々聞いとる。ちゃんと状況は分かっとるからな」


戸叶とかな朱角あけすみに微笑みかけながら、包み込むような口調で言った。


その一言が、戦いの余韻に静かな温もりをもたらしていた。


* * *


一斗いっとは、夢を見ていた。


目の前には、終わりのない暗闇が広がっていた。空も地もなく、何も見えない。

ただ、冷たく、重く、沈むような空気が彼の身体を包み込む。


「……暗い……なんだ、ここは……?」


足元に感覚がなく、踏み出すたびに宙を泳ぐような感覚。

それでも一斗いっとは、歩こうとしていた。何かを探すように、誰かを求めるように。


──その時。


一斗いっと……」


微かに、少女の声が聞こえた。


「え?」


耳を澄ます。心が反応する。

それは、確かに聞き覚えのある声だった。


一斗いっとくん……」


「この声……那岐紗なぎさか!? どこだ……? どこにいる!? 那岐紗なぎさぁぁ!!」


心が叫ぶ。身体が、声が、必死に彼女を求めていた。


「……怖いよ、一斗いっとくん……」


那岐紗なぎさァァ!」


「痛いよ……一斗いっとくん……」


「どこだぁぁ!!」


「……一斗いっとくん、助けて……」


次の瞬間、目の前に現れたのは――

胸元から斜めに裂かれた衣服と、血に染まった白い肌。

無残にも一刀両断された伊波那岐紗いなみなぎさが、そこに倒れていた。


那岐紗なぎさぁぁぁ!!」


一斗いっとは絶叫しながら駆け寄り、彼女の上半身を抱き上げた。

温かくて、冷たくて、壊れそうだった。


「……那岐紗なぎさ……っ、那岐紗なぎさぁ……!」


その名を震える声で何度も呼んだ。しかし――


彼女の身体は、ふっと白い光の粒となって消えてしまった。


「……あ……」


呆然と手を見つめたそのとき、背後から別の声が響いた。


「……おい、小僧」


その声に、ビクリと肩を震わせて振り向く。


そこに立っていたのは、興梠海斗こうろぎかいとだった。


暗闇の中でも、その姿だけははっきりと見えた。


「よくも……俺を殺してくれたな」


「っ……!」


「人殺し……」


その一言を残し、興梠こうろぎもまた、闇に溶けるように消えていった。


「……あっ……あぁぁぁぁぁぁぁ!」


膝をつき、頭を抱え、絶望に沈んでいく。

那岐紗なぎさの断末魔。興梠こうろぎ怨嗟えんさ。罪の意識が渦巻く。

すべてが一斗いっとの胸に、重くのしかかった。


どれほど時間が経ったのか分からない。

一斗いっとはただ、闇の中にうずくまったまま動けなかった。


──その時。


闇の天井に、一筋の光が差し込んだ。


柔らかで、あたたかく、包み込むような光。


そして――


一斗いっとぉ。もう大丈夫やで」


どこか懐かしく、優しさに満ちた老婆の声が響いた。


「え……御婆様おばあさま……?」


かすれた声で問い返す。

それは確かに、戸叶とかのの声だった――いや、違うかもしれない。

けれど、確かに“あの人”の声だと心が感じていた。


一斗いっとは……そのままで、ええんやで」


誰とも分からぬ声。それでも、一斗いっとの胸の奥に届いていた。


あたたかさが、闇を少しずつ照らしていく。

それはゆるしにも似ていた。


「いつか……」


その言葉の続きを、一斗いっとは心の中で繰り返す。

言葉にはならなかったが、その響きは静かに彼を癒していった。


そして一斗いっとは、まだ夢の中にいながら、微かに涙をこぼしていた。


* * *


夢は静かに終わりを告げ――

一斗いっとは、ゆっくりとまぶたを開いた。


薄明かりの病室の天井が視界に広がり、空気の匂いや寝具の感触が少しずつ意識に戻ってくる。

頬に温かいものが伝っていた。涙だった。

なぜ泣いていたのか、自分でも分からなかった。


「……なんだ……?」


無意識に額へ手をやりながら、小さくつぶやいた。


その時――


「おはようさん」


柔らかな声が隣から届いた。振り向くと、椅子に腰をかけた戸叶とかなが、にこにこと優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「……おはようございます、御婆様おばあさま


一斗いっとは思わず整った言葉で返していた。

その声に、微かな安堵が滲んでいた。


戸叶とかなは何も言わず、ただ穏やかにうなずいていた。

その微笑みは、言葉にしなくとも「生きててくれてよかった」と語っているようだった。


(……なんか、変な夢だったな)


一斗いっとはふと、さっきまで見ていた夢の感触を辿る。


(……夢の中に出てきたの、御婆様おばあさま……だったよな。最後、何か言ってた……けど……思い出せない)


ぼんやりとした記憶の中、温かい光と癒やしの声だけが残っている。

けれど、その言葉の内容はどうしても思い出せなかった。


ただ、その優しさだけは、今でも胸の奥に残っていた。


* * *


その日の夕方――


七代家ななしろけの面々は全員が無事に退院し、久しぶりに自宅へと戻った。


迎えてくれたのは、懐かしい家の匂いと、静かな空気。そして――家族全員が揃った食卓だった。


笑い声が響き、箸の音が賑やかに重なる。

誰かが料理を取り分け、誰かが口いっぱいに頬張って笑う。

みことも、一斗いっとも、比智ひさとも、祈琉いのるも。

そして朱角あけすみ華豊かほう戸叶とかな――皆がそこにいた。


戦いの記憶はまだ生々しく、心の痛みも完全には癒えていない。

けれど、その夜、七代家ななしろけの食卓には、確かにあたたかな「日常」が戻っていた。


それは、一斗いっとにとっても、他の誰にとっても――何より尊い、かけがえのない時間だった。





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