第2話
若侍は頭を掻きながら素浪人に告げた。
「役人がやって来たぞ。ほら、あんたの後ろから鬼のような形相を張り付かせて走ってくる」
「何だと!」
若侍が素浪人の後方に向かって人差し指を突きつけると、素浪人は顔面を蒼白に染めて顔だけを瞬時に振り返らせた。
血相を変えた素浪人は振り向くなり、町人と思われる華奢な優男と目が合った。
次に素浪人は首を振りながら周囲を一望したが、役人の姿など粒ほども見えない。
「小僧、たばかりやがったな!」
慌てて顔を正面に向き直した素浪人は、若侍の顔を見た瞬間に一気に斬りかかる勢いがあった。
それでも素浪人は斬りかかることができなかった。
なぜなら若侍は素浪人が振り返るや否や右手に持っていた麻袋を放し、地面を滑るような歩法で素浪人との間合いを詰め、顔を戻した素浪人の顔面に強烈な平手打ちをかましたからだ。
甲高い音が高鳴り、素浪人の口から「ぐげっ」という情けない声が発せられる。
続いて若侍は右足を軸に反転。
素浪人の背中に自分の背中を密着させた若侍は、左手を肩越しに後方に回して素浪人の奥襟をしっかりと摑んだ。
と同時に膝の力を抜いて奥襟を摑んでいた左手を一気に前方に倒す。
すると素浪人は見えない糸に引っ張られるように宙に舞い、半円を描いて後頭部から地面に直撃した。
裏背負い投げ。
柔術において捕方の技法から生み出された投げの一つである。
「ふうー」
若侍は地面に昏倒している素浪人を見下ろすと、大きな安堵の息を漏らした。
いくら食い詰め浪人とはいえ、相手は実際に人間を斬った経験がある剣客であった。
それは身なりと違ってきちんと手入れがなされた刀を見てすぐにわかった。
なおかつ八双の構えを取ったときに放たれた殺気といい、これまで斬ってきた人間の数は一人や二人ではなかっただろう。
だからこそ若侍は一瞬の油断を誘った。
刀を抜いた素浪人の意識を他へと移し、自分の手が触れられるほど接近するために。
結果的に功を成したものの、一歩間違えればこちらが手酷い傷を負っていただろう。
抜き身の真剣とはそれだけの威力を十分発揮する強力な器物なのだ。
若侍が子供に強請りを働こうとした浪人者を鮮やかに打ち倒すと、周囲の野次馬からは芝居を見終えた後のような歓声が上がった。
町娘などは頬を赤く染め、うっとりとした眼差しを若侍に向けている。
ちょうど、そのときだった。
「どいたどいた! さっさと道を開けろ!」
若侍を軸に大きな輪を作っていた野次馬たちを押しのけ、十手を持った黒羽織袴の町方同心が岡っ引を連れて現れた。
おそらく先ほど逃げた野次馬の一人が自身番に駆け込み、偶然にも立ち寄っていた同心が話を聞いたのだろう。
「これはこれは浜岡さん。お勤めご苦労様です」
北町奉行所同心・浜岡喜三郎に軽くお辞儀をした若侍は、「もう済みましたから」と平然とした口調で言った。
浜岡は若侍から地面に横たわっている素浪人を一瞥する。
「これは一体どういうことです? なぜ、こんな浪人者と諍いを?」
「なあに、ちょっとした人助けですよ。丁稚がこの浪人から強請りを受けていたので仲介に入ったらこの様です」
昏倒している素浪人の近くには抜き身の刀が無造作に転がっていた。
乱れ波紋の刀身が陽光を反射させて輝いている。
「強請を受けた丁稚というのは?」
「ほら、あそこで藍染の反物を持った子供ですよ。何でも風に飛ばされた反物がこの浪人の顔に当たったとかで、無礼打ちになるところを止めに入った次第です」
若侍と同心の会話が耳に届いたのか、前髪もあどけない丁稚は何度も頭を下げていた。
浜岡は得心がいったのか大きく頷く。
「なるほど、大方の事情は飲み込めました。それでしたら後はこちらでお任せを」
自分よりも一回りは年下の若侍に浜岡は大仰にへりくだる。
そんな浜岡を見て若侍ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「わかりました。でしたら後はそちらにお任せします。それでは」
慇懃に頭を下げた若侍は地面に置いていた麻袋を手に持つと、素浪人との諍いなど忘れてしまったかのような軽やかな足取りで歩き出した。
道を綺麗に開けてくれた野次馬の中央を通り過ぎ、若侍は白壁町方面に向かっていく。
やがて若侍の姿が見えなくなると、先ほどから一向に口を開かなかった岡っ引が浜岡におそるおそる尋ねた。
「浜岡様、あの方は一体どこのお武家様で?」
「そうか、お前はまだ知らなかったか。あの方は鮎原様のご子息であられる
「え? 鮎原様というと普請奉行の鮎原能登守様ですかい?」
「他にどの鮎原様がいる」
普請奉行とは幕府の土木関係や武家の屋敷割、または拝領屋敷に関する仕事を請け負う普請方の長であり、歴とした老中支配の行政職である。
そしてその普請奉行を務める鮎原家は役高三千六百石の直参旗本。
三十表二人扶持の町方同心とは格が違う。
岡っ引は若侍の身元を知ると、不意に首を傾げた。
「浜岡様、ふと思い出したのですが鮎原様の三男坊というともしかして……」
「そうだ」
持っていた十手で自分の肩を軽く叩いた浜岡は、宗鉄が消えた方向を見て呟く。
「神田の二大有名人の一人であり、異国狂いの鉄砲小僧とはあの方のことよ」
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