第35話 代償--後編--
安堵からヒルドが久しぶりに深い眠りに就いていた頃、ヘルヘイム郊外にある城で、ミリアムが死の床に就いていた。
突然倒れ、急ぎ呼び寄せられた医師は、診断を済ませると不安とも恐怖ともつかぬ表情で、別室で待っていた侍女長を見遣った。
――私は魔導師ではないので確かな事は判らないが、以前にこれと似た症状を診た事はある。呪詛を行って、それを魔導師によって返されたのだ…
背筋がぞくりとするのを、医師は覚えた。
――確か返された呪詛を再び返す事はできない筈だ。それよりも何よりも、この状況はまずい…
ミリアムは皇太子アグレウスの側室であり、かつては第三王子の母だったが、子息マルバスの病死とともに後宮を去り、この城で隠遁生活を行っている。
医師は単なる下級貴族なので宮中の事情に詳しくは無いが、係わり合いになるべきでは無いのは判った。
「真に残念ではありますが…これは私の手に余ります」
医師はやや躊躇ってから、申し訳なさそうに言った。
「原因のはっきりしない
「では、姫様の為にできる事は何も無い…と?」
微かに震える声で、侍女長は訊いた。
彼女はミリアムの元乳母で、祖国がアグレウスに攻め落とされた後も、ずっとミリアムに付き従って仕えてきた。
ミリアムがマルバスの死の報復の為に呪詛という手段を取ろうとした時、真っ先に相談した相手であり、初めは反対したものの、ミリアムの無念を想って協力を誓ったのだった。
呪詛を行う以上、危険は承知の上だった。
ミリアムが突然、倒れた時、恐れていた事が現実になってしまったのだとすぐに思った。
だが無論、医師の前でそんな事を口には出来ない。
「お力になれず申し訳ないのですが、私にはどうにも…。お役に立てなかったので、謝礼は結構です」
それだけ言うと、医師は逃げるようにそそくさと城を後にした。
侍女長は呆然とした面持ちで、ミリアムの寝所に戻った。
その表情を見て、ミリアムは己の運命を悟った。
「私は……死ぬのですね」
「姫様…」
侍女長は枕元に跪き、ミリアムの手を握る。
「哀しまなくとも良いのです…私が行けば、マルバスも孤独ではなくなります…」
苦しい息の下で、力なく囁くようにミリアムは言った。
短時間の内に面変わりする程やつれてしまったが、熱のせいか双眸はぎらぎらと輝いている。
「それにあの女…可愛そうなマルバスに毒を盛って死なせたあの女に復讐できたのなら…私自身の生命など惜しくはない…」
「姫様…どうか私にもお供をお許しください。姫様がお生まれになった時からずっとお仕えして参りました。最期までお供させて頂きとうございます」
殉死を願い出た侍女長の言葉に、ミリアムは改めて相手を見た。
「…それはならぬ」
「姫様…」
「そなたは生きて、報復が成就したのか見届けておくれ。そしてもし…もし万が一、失敗していたのなら、私に代わって…マルバスの仇を……」
「姫様…!」
そのまま、ミリアムは事切れた。
その死と共に、彼女が生を受けた王家は滅んだのだった。
三日後、ヒルドは王宮に戻り、オリアスを見舞った。
もっと早く来たい気持ちはあったのだが、侍医たちによって面会が制限されていた事と、鏡に写った自分のやつれぶりに驚いた事がヒルドを思い留まらせていたのだ。
オリアスの寝所の控えの間にはヴィトルがいて、ヒルドの姿を見ると、黙って寝所に通した。
オリアスは寝台に上体を起こして座り、報告書に目を通していた。
侍医たちは念の為に後、数日は安静にしている事を勧めたが、「報告書を読む程度ならば構うまい」と言うオリアスを止める事は出来なかった。
「ヒルドか」
ヒルドの姿を見ると、オリアスはそう言って微笑した。
「そなたがヘルヘイムから魔導師を連れ帰って私を救ってくれたのだそうだな。感謝するぞ」
「もったいないお言葉…」
それだけ言うと、ヒルドは両手で顔を覆った。
二週間ぶりに見る主の笑顔に感きわまり、こみあげる感情と共にあふれる涙を止める事が出来なかったのだ。
「ヒルド…」
宥めるように穏やかな口調で言って、オリアスはむせび泣くヒルドの肩に軽く触れた。
殆ど反射的に、ヒルドは顔を上げて相手を見た。
十三で初めて会った時と同じように、オリアスは美しく優しい微笑を浮かべてこちらを見ている。
「そなたにはひどく心配をかけてしまったようだな。…済まなかった」
ヒルドは慌てて涙を拭い、首を左右に振った。
オリアスが倒れたと聞いた時、恐怖に近いほどの不安を覚えた。
魔導師を探し出せばオリアスにかけられた呪詛を解く事が出来るのだと知った時には、自分の生命を犠牲にしてでもオリアスを救うのだと心に誓った。
アグレウスに求められた代償は想像を超えるものだったが、それが何だと言うのだ?
自分は任務を果たし、もう一度オリアスの顔を見、声を聞く事が出来た。
生命を捧げていたなら、オリアスを救う事は出来ても、二度とオリアスには会えなかったのだ。
真に生命を賭ける覚悟があったのなら、他のどんな事にも耐えられる筈だ。
自分を密使に選んだヴィトルの真意を疑い、恨みに思った事もあるが、それは心得違いというものだ。
ヴィトルやアグレウスを怨んだり、何日も任務を離れて寝込む程に動揺してしまったのは覚悟が足りなかったからだ。
どんな手段を弄してでも主であるオリアスを護るのが、側近護衛官の使命なのだ。
重大な責務を無事果たし、主を危機から救う事が出来たのだ。
今はそれだけを前向きに考え、あの夜の事など忘れてしまえば良い――
「とんでもありません。アルヴァルディ様をお護りするのが我ら側近護衛官の役目。お役に立てて光栄に存じます」
笑顔を見せ、しっかりとした口調でヒルドは言った。
そのヒルドの姿に、オリアスは微笑したまま軽く頷いた。
ヒルドがオリアスの寝所を退出した時、ヴィトルは入った時と同じように無言でヒルドを迎えた。
「今回の任務で使者に選んで頂き、ありがとうございました」
朗らかな笑顔で言うと、きびきびした足取りでヒルドは控えの間を出て行った。
その後姿を見送った時、ヴィトルははっきりと、ヒルドに対する罪悪感を自覚した。
初めからヒルドを人身御供に差し出すつもりだった訳ではない。
が、そうなる可能性のある事は判っていたし、そうなれば交渉が有利になるだろうと予測もしていた。
或いは、予期していたと言うべきなのかも知れない。
それでオリアスに掛けられた呪いを解き、オリアスの生命を救えるのならば、どんな手段も厭わない。
その気持ちは今も変わっていないし、今後ももし同じような状況になれば、誰がどんな犠牲を払う事になろうと構わずオリアスを護るだろう。
ヒルドに戦士に相応しからぬ犠牲を強いてしまった事も、後悔はしていない。
ただ、罪悪感に胸が疼くのを止められないだけだ――
ヴィトルが控えの間を出ると、廊下の向かい側にスルトが立っていた。
腕を組み、壁に寄りかかるようにしている。
「…何か用か?」
ヴィトルが問うと、スルトは曖昧に首を振った。
そしてヴィトルが立ち去ろうと踵を返した時、スルトが口を開いた。
「俺は自分の女を売ったし、あんたは自分の部下を売った」
独り言のように、スルトは呟いた。
ヴィトルの足が、その場に釘付けにされたように止まる。
「まあ、俺は
「…何が言いたい?」
相手に背を向けたまま、低く、ヴィトルは訊いた。
スルトは軽く肩をすくめる。
「さあ…な。自分が感じる必要の無い罪悪感を持て余しているから、似たような立場の相手を見つけて安心したいのか、逆に側近護衛官としての責務を果たす為なら、何の躊躇いもなく非情な決断ができる上官を見習って、罪悪感なんぞ棄てて楽になりたいのか」
ヴィトルは目を閉じ、深く息を吸った。
それから、スルトに向き直る。
「アルヴァルディ様に掛けられた呪いは無事、解かれた。それが全てだ」
それだけ言うとヴィトルは再び踵を返し、その場から歩み去った。
「…部下を売ったのは、否定しない…か」
ヴィトルの姿が見えなくなるまで見送ってから、スルトはぼやいた。
ヴィトルはその足で自分の執務室に戻った。
オリアスは無事、回復しつつあるが、問題の全てが解決した訳ではない。
嫌疑は晴れたものの、アロケルら祐筆たちと、ドロテアと姪たちはまだ牢に繋がれたままだし、第一王子ザガムの密偵だと露見したイレーナの処分も決めなければならない。
特に問題になりそうなのは、ドロテアの処遇だ。
他の者たちは進んで自白したので拷問は受けなかったのだが、ドロテアは冷静と言える態度で嫌疑を否定しただけだったので、却って疑いを抱いた拷問官から、かなりの責め苦を受けたのだ。
ドロテアがその事をアグレウスに訴えれば、アグレウスとスリュムの仲は一層、険悪になるかも知れない。
が、呪詛の首謀者がアグレウスではないかとスリュムが疑った時点で十二分に険悪なのだし、アグレウスの性格を考えれば、自身に嫌疑が掛けられた事に比べれば、元の乳母が拷問を受けた事はさほど重要には思わないかも知れない――
ヴィトルはそう考えていたが、思いがけない方向から非難を受ける事となった。
他ならぬ、オリアスである。
オリアスは見舞いに来たアールヴの口から、ドロテアたちが「どこかに連れて行かれて帰って来ない」と聞き、すぐにヴィトルを寝所に呼んだ。
「ドロテアたちは今、どこにいるのだ?」
詰問するようなオリアスの口調に、これも予想できていた事なのだと、ヴィトルは思った。
「スリュム様のご命令で捕縛し、地下牢に繋いであります」
「地下牢だと?」
鸚鵡返しに、オリアスは訊いた。
罪状に応じて使われる牢獄は分けられており、地下牢は特に罪の重い罪人が収監され、多くの場合、拷問を受ける事となる。
「まさか…拷問したのではあるまいな?」
「他の者たちは自主的に自白いたしましたが、ドロテア殿は態度が不審であると拷問官が判断し――」
「他の者とは、まさか…」
ヴィトルの言葉を遮って、オリアスは言った。
「ヘルヘイムから遣わされた者たち全てを捕縛したと言うのか? アロケルもか?」
「御意にございます。ヘルヘイムの者でなければ魔術は使えませぬゆえ、祐筆五名とアールヴ様の侍女三名を捕らえよとのご命令でした」
「だがアロケルは私の血の繋がった甥だし、ドロテアは兄上の元の乳母だ。身柄を拘束したのはやむなしとしても、地下牢に繋ぎ、ましてや拷問にかけるなどと…」
微かに眉を顰め、頭痛でもするかのようにこめかみに手を当て、オリアスは言った。
「…まさか父上は、呪詛の首謀者が兄上だと疑った訳ではあるまいな?」
オリアスの問いに、ヴィトルは何も言わなかった。
そして、それは答えとして充分だ。
オリアスは哀しげに深く溜息を吐いた。
「父上と兄上の仲は、お世辞にも良いとは言えぬが…それでも兄上が私を呪殺しようとしたなどと、父上は本気でそんな疑いを…」
「恐れながら…スリュム様はアルヴァルディ様のご回復を、何より優先されたのです」
「そなた、父上を止められなかったのか?」
言ってから、オリアスはもう一度、溜息を吐いた。
「いや…そなたを責めるのは間違っている。それに父上も、私を助けようとしてくれただけだ…」
目を伏せ、静かにオリアスは言った。
それからヴィトルを見、嫌疑は晴れたのだから、一刻も早くアロケルたちを解放し、ドロテアには充分な看護を命ずるようスリュムに進言してくれと頼んだ。
ヴィトルは内心、嫌疑が完全に晴れた訳では無いと思った。
呪い返しによって術者は死んだ筈だが、正体や居場所をつきとめた訳では無いので、その生死も背後関係も不明なままだ。
だがヴィトルはその事を口に出さなかった。
これ以上、主を哀しませたくなかったのだ。
ドロテアとその姪たち、アロケルを含む祐筆たちはその日の内に釈放されたが、厳重な監視下に置かれる事となり、王城内で幽閉される身となった。
ヘルヘイムに送還する措置を取らなかったのは、ヨトゥンヘイムに取って有利となる情報をヘルヘイムに流す事に利用する為だ。
同じ理由からイレーナも釈放され、イレーナを娘だと偽っていた行商人と共に厳しく監視される事となった。
オリアスは順調に回復してその後公務に復帰し、呪詛事件は――首謀者や術者は不明のままだったが――解決したように見えた。
だがこの事件は、思わぬ尾を引く事となる。
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